双影記 /第5章 -4



「あなたのせいではない。あなたこそ‥‥殺されたかも、知れないのだ‥‥」
 だが。腕の中の体は痛々しいまでに張りつめたままだった。オキルの言葉がその心に届いたようにも見えなかった。
 ああ‥‥
 どうしたらいい‥‥
 どうしたら、また、心を開いてくれる‥‥そろそろと腕をゆるめ、己れを引き離す。
「許してください‥‥こんなこと‥‥するつもりじゃ‥‥なかった。‥‥弟だったら‥‥。弟は‥‥何かあるとすぐ、わたしに抱きついてきて‥‥だから‥‥つい‥‥」
 必死に己れを取り繕う言葉に、だが――
「弟?‥‥。‥‥そう‥‥なのか‥‥?」
 不意に、呪縛が解かれたように漏れ出た言葉だった。
「弟とは‥‥こうして、抱くものか‥‥」
「あいつは‥‥甘ったれだから‥‥外で、いじめられたときなんか‥‥母さんは忙しかったし‥‥俺‥‥わたしが、めんどうみてたから‥‥」
「そう、なのか‥‥」
 不思議そうに見上げてくる淡い双眸に、オキルは必死でうなずいていた。
「泣き止むまで‥‥抱いて、頭を撫でてやった‥‥です‥‥」
「‥‥して‥‥」
「え?――」
「わたしにも‥‥オキルの弟のように‥‥」
 凝然と見返すオキルの前に、ルデスはふと、気弱げに視線を落した。
「抱きついて‥‥下さい‥‥」
「え‥‥」
「弟は‥‥いつも、泣きながら抱きついてきた‥‥だから、わたしも‥‥」
 戸惑ったようにオキルを見上げたルデスは、やがて、ぎくしゃくとその身体に腕を回した。その腕を通して微かな震えが伝わってくる。オキルはそっと抱きしめた。自ら求めたにもかかわらずルデスは身を強ばらせる。オキルはその背をさすった。静かに、根気よくさする手の下で、しだいに強張りが解けていくのをオキルは感じ取る。同時に、己れの背に回された腕に力がこめられていく。
 胸が冷たかった。押し当てられた頬を伝う涙が胸元を濡らしている。ルデスは声もなく泣いていた。
 大声で‥‥泣いていいんです‥‥
 その思いを、オキルは噛み殺した。
 やがて。
 声もなく縋りついていた腕が解かれる。
 無言で見上げる淡い双眸にうなずき返しオキルは小屋を出た。
 しばらくして戻ったオキルは両手に大きな布包みを抱えていた。
 その、毛布を巻いた包みをルデスの前に広げ、なかから一揃いの服を取り上げる。
「これに――着替えてください――」
 毛布の中には他にいくつかの小さな包みと二振の短剣、靴、布の帽子、革の合切袋、そして一房の茶色い毛束が入れられていた。
 ルデスが訝しげにその毛束を手に取る。
「馬の尾です。帽子の下にかぶればはみ出して髪の毛に見えます」
 合切袋から小瓶を取出しながらオキルが説明する。
「この膏薬は顔と手に塗ります。あなたは白すぎるから――」
「ああ――そうか――」
「オーコールまでは馬でも三日かかります。歩けば五日は――これはその間の食料です。パンと薫製肉です」
 小さな包みを袋に入れながら言葉を続けるオキルに、うなずきながらルデスは着替え始める。
 薄闇の中に露になった細い体が目を射て白い。オキルはあわてて視線をもぎ離した。脱ぎ落された服を集めてたたみ、広げた毛布で包みなおす。
 やがて着替え終わったルデスがもの問いたげにたたずむ。洗い晒した毛織の服は少し大きかった。
「これを上着の下に――」
 渡された短剣を革帯に挟み込むのを待ち、巻いた毛布を示す。
「ここに、座ってください」
 言われるままにルデスは腰を下ろす。
 オキルの骨張って長い指がおぼつかない手つきで、肩で切りそろえた銀糸の髪を三編みにしてまとめ上げた。
 小屋から出たとき、そこにはかつてのルデスの姿はなかった。
 合切袋を肩に掛け、巻いた毛布を担ぐオキルについて行く褐色の髪の少年を疑うものはなかった。オキルは厩から引きだした馬の背に荷をのせ、手綱を引いて門を出る。
 館が見えなくなったあたりでルデスを馬に乗せたオキルは、ようやく秋の気配の立ち始めた野に脚を急がせる。
 だが、その脚が重かった。
 追手がかかることはあきらかだった。
 それ以上に心に重くのしかかる不安がある。無事、オーコールに着けるのか――。着けたとして、御当主は、奥方はルデス様にお会いくだされるのか――
 何方も、お会いくだされまい‥‥と。先夜ゴシュのいった言葉が耳にこだまする。
 むしろ、追手に連れ戻されたほうがお為ではないのか‥‥
 にもかかわらず、オキルは本道を逸れ、間道を西に向かう。土地のもの以外は滅多に通るものもない道は、煌めく陽射しの下に長閑な静けさを湛えていた。
 馬上で、ルデスは無言だった。ときどき見上げる視線の先で、思い張りつめた顔が前方に向けられている。
 褐色の膏薬は肌の白さを隠したが、顔立ちまでは隠せなかった。そして、その、淡い双眸は――浅黒く染められた肌は凛々しさを際立たせる、その顔のなかで光を含んで輝く双眸は――オキルは畏怖にうたれる。
 この方は‥‥身分が違うと、いうだけでは、ない‥‥
 日暮近く、道添いに乾草小屋を見かけ馬を寄せる。道から見えない小屋の裏に馬をつないだオキルは荷を下ろし、世話を始める。小屋から持ち出した干草で汗を拭い毛を梳くように、一心に擦り下ろすオキルの向いでルデスが同様に馬体を擦り始める。
「背は、オキルに頼まねばならない。わたしではとどかない――」
「全てしますのに――」
「わたしを乗せてくれたのだ。わたしがすべきなのだ。それに――わたしは好きなのだ。馬は応えてくれる。友達だ――オキルこそ休んでほしい。ずっと歩き詰めだった――」
 十分な乾草をあたえ小屋に落ち着いたとき外は暮れていた。
 合切袋から取り出した蝋燭に火をつけ床に立てたオキルは小さな包みにしてあったパンと薫製肉を切り分ける。
 それだけの食事を黙々と食べ終えれば、あとは眠るだけだった。広げた毛布を寝床に闇の中に横たわる。
 疲れているはずだったが、オキルは眠れなかった。闇に目を開き傍らの気配を聞き続ける。ルデスも眠れないのか、いつまでたっても寝息は聞こえてこなかった。
「眠れませんか‥‥」
 堪えきれなくなったオキルが問う。思わぬ大きさに響く声に、オキルは身を竦めた。
「母上は‥‥お会いくださらないかもしれない‥‥でも‥‥どうしても‥‥お会いしなければ‥‥お聞きしなければ‥‥ならないのだ‥‥」
 かすれ、震える声が、低く返る。
 その声に、その言葉の意味するものに、オキルは胸を衝かれる。
 泣いて‥‥おられる‥‥
 お知りに、なられたのだ‥‥
 かつてゴシュは言った。不義のお子と。ラデール家にも生母ベルファの生家キリア家にも、決して生まれるはずのない髪と目の色を持つルデスだった。
 それは営々として繰返された血族結婚の弊として希に生まれる白子というにしても、あまりに輝かしい髪の色であり、瞳の色だった。色素の抜け落ちた白子であるならその双眸は血の赤であり、肌の色さえこのような、純白の練絹のような白とはならない。
 まして嬰児の時に患ったという熱病ゆえなどでは決してない、とはオキルにもわかる。
 導かれる答えはひとつしかなかった。
 それを、ルデスに明かしたものがある。
 デュワズ‥‥奴が‥‥
 滾るような憎悪と怒りに胸を灼かれながらオキルは思う。その身体を犯し苛むだけでは飽き足らず、心までも、踏み躙ったのだと。
 あの夜――
 どのような思いで、それを受け止めたのか、痛ましさに、喉を突き上げる呻きを必死で押し殺す、オキルの四肢が捩れた。
 どれほどの思いを胸にオーコールに行くことを夢見ていたか、星花草の茂みの中で言葉少なに語った透とおるような横顔を思い浮べたとき、再び、オキルの内に堪え難いまでに熱い汐が満ち上がった。
 抱き寄せたい‥‥
 抱き寄せ、力のかぎり、胸の内に抱きしめたい――
 もし‥‥それを求めていただけるなら‥‥
 それが‥‥慰めとなるなら‥‥
 傍らに、ひっそりと耐えるルデスに背を向け、オキルは己が手に、腕の間にまざまざと甦るほっそりとした体の記憶を抱きしめた。いつ明けるとも知れぬ、夜の底に――
 だが――
 夜は明ける。
 いつ眠りに落ちたのか、白む光のなかに重い目覚めを迎えていた。
 そして五日。二人はオーコールにたどりついた。
 王城の西、小高い丘に広大な敷地をかこいこんで、ラデール家公邸はその威容を誇っていた。
 オーコールの町並みから抜けた道は一線に、大きく開かれた門の中に消える。門の左右には監視所のある塔が立ち、高々とそびえる石の壁が丘の中腹を起伏に添って彼方の丘に消える。淡く暮れなずむ空の下に黒々とそびえる監視塔を角ごとに列ねる、壁の上には広大な森を思わせる庭園の木々がその頂をのぞかせていた。
 丘の裾から塀までは遮るもののない草地だった。近づくものをあからさまにして密かに近づくことを許さない、その草地の外れでルデスは馬から降りたった。
「このまま‥‥門に行けば‥‥きっと‥‥お会いしてはいただけない‥‥」
 オキルは傍らに立つルデスを見返る。埃にまみれ削ぎ立って張りつめた頬を。旅の間、一度として緩められることのなかった顔を。
 では‥‥そのことを、ずっと‥‥
 それは、オキルも考え続けていたことだった。
「ウーサの村から、奥に下働きで入っている娘を知っています。訪ねてみましょう‥‥」
 道は丘にさしかかってすぐに二股に別れ、太い枝道が左手に伸び、回り込むように丘を登っていく。
 オキルはその枝道にルデスを導いた。
 家人や商人が公邸に出入りする通用門にたどりついたとき辺りには深い陰が漂い、高い塀に切られた両開きの大きな門は既に閉ざされていた。
 だが、門の左の隅に小さな扉が付けられている。オキルはその小門に向う。
 門を叩く音に応えて、門脇の塀の小窓から顔がのぞく。オキルは振り仰いだ。二階ほどの高さから見下ろす顔が不審げに誰何する。
「何者だ。見慣れん顔だ――」
「ハソルシャのウーサから来ました。下働きのナミアを呼んでください。俺、弟です。お袋のことでどうしても会いたいんです」
 顔が引っ込みじりじりするほどの時を待たされて、ようやくに、小窓から小さな顔がのぞいた。仄白い顔が、大きく口を開ける。
「あんた――オキル! 何だって‥‥」
「姉さん! お願いだ! ここに来て話を聞いて!」
 必死に叫び上げるオキルに、ナミアの口がつぐまれた。僅かな逡巡ののち、小窓の内に消える。
 じきに門の内に気配が立ち、小門が開かれ小柄な姿が吐き出された。
「ナミア‥‥」
 枯草色の髪を引き詰めに結って下働きの仕着せを着たナミアの目が驚きに見開かれている。
「母さんのことだって‥‥あれは‥‥」
 オキルはナミアを引っ張って小窓の下から離れた。押し殺した声を絞る。
「すまない‥‥口実だ。小母さんは元気だよ。あんたしか頼る人がいなくって‥‥おれ達を中にいれてほしい‥‥」
 ナミアも思わず声をひそめる。
「その子‥‥あんたの弟と違う‥‥」
「そうだ‥‥驚かないで、聞いてほしい」
 縋るようにナミアの腕をつかむ。
「この方は‥‥館の‥‥ルデス様だ。どうしても、奥方様に――」
 ナミアの、息を呑む音が大きく響いた。
「でも‥‥まさか‥‥」
 それまで無言で立っていたルデスが前に出た。
「ナミア。頼む。表から行ったのでは母上は会ってはくださらない。わたしはどうしても‥‥母上に‥‥」
 声は、かすれ、震えを帯びていた。
 その声に吸い寄せられるようにナミアがルデスを見た。思い詰めた、淡い金の双眸を。
「日が‥‥暮れてしまった‥‥。もう、門は閉まってしまった‥‥」
「ずっと歩いてきたんだ。やっとついて‥‥疲れて具合が悪くなったといったら、少しの間、中で休ませてもらえないだろうか‥‥。この方は小さい‥‥」
 凍りついたようだったナミアが、やがて、小さくうなずいた。
「頼んで、みる‥‥」
 ナミアが小門に駆け戻る。
「わたしにつかまって、もたれ掛かってください‥‥」
 言われるままにルデスはオキルに縋りつく。オキルがその身体を支えるように抱きしめたとき、大門が開かれた。
 ナミアが馬を引き、二人を厩に導いた。
 人気のない厩の隅で、柵につないだ馬の背から荷を下ろしたオキルは巻いた毛布を広げ、ルデスの服を取り出した。
「顔を洗わなければならない。水をもらえないか――」
 オキルの頼みに、外に走り出たナミアが水を汲んだ桶を下げて戻ったときルデスは着替え終わっていた。帽子をとり褐色の毛房を取り去った頭にナミアの目が釘付けられる。背に編み下げた白金の髪に。
 桶の水で顔と手を洗い、絞った布で首筋を拭ったルデスが髪を解く。
「母上のおいでになるところまで‥‥案内してもらえるだろうか‥‥」
 呆然と、その変容を見つめていたナミアが慌ててうなずいた。
 しかし、下働きのナミアが奥方であるベルファの側近く行くことはできなかった。
 ベルファには婚姻と同時に生家キリア家からつき従ってきた侍女達が側近く仕えている。ルデスの出産により、カラフとの仲に亀裂を生じたベルファが北翼の一端に張り出した別棟に追われるように居を移して以来、ラデール家本来の家人との間には根深い確執が生じていた。
 ともかくも、人目は避けなければならない。厩から出た三人は物陰を伝い厨の横手の潜戸から邸内に入った。回廊を突っ切り中庭に出る。木々でおおわれた中庭は既に薄闇に閉ざされていた。木陰を伝い斜めに庭園を横切ったナミアは北翼の外れで回廊に戻り目立たぬように作られた扉を押して家人用の細い通廊に二人を導いた。
 長い通廊はいまひとつの扉によって終わっていた。
「この‥‥向うが、奥方様のおいでになる、別棟の広間の控の間です‥‥広間の奥が、奥方様のお部屋です。でも、手前の次の間には側仕えのものが‥‥」
 運が良いと言えた。ここまで見咎められずにこれたことは。だが、この先は――
 ナミアの声が震えを這わす。
「世話になった。この先は一人で行く――」
 ルデスが前に出て労うようにナミアの腕に手を置いた。
「ルデス様――」
 オキルが切迫した声を絞る。
「一人のほうが、きっと、目立たない――」
 見上げてくる淡い双眸が壁の燭台の灯を受けて硬質の輝きを放つ。ルデスはオキルの腕にも手を置いた。一瞬、力をこめてつかむ、その手が離れた。そのままナミアの横をすりぬけ、細く開けた扉の向うに滑り出ていった。
「オキル――」
 途方に暮れたようなナミアの顔が凝然と佇むオキルに向けられる。声に、視線を向ける。オキルの心がその視線に添うのにしばらくかかった。
「ナミア‥‥悪かった‥‥他にどうしたらいいか、わからなかった。きっと咎めを受ける‥‥」
「それはいい。ゴシュ様にはいつもお世話になっている‥‥村には大事な人だ‥‥それより‥‥お一人でいいのだろうか‥‥」
 その言葉に、促された。残されたくはなかったが思い詰めた双眸に制され、あとを追うことができなかった。ナミアの不安がオキルを押し出した。
 オキルが広間に入ったときルデスの姿は既に奥に消えていた。脚を急せるオキルの耳に、薄く開いた扉の奥から甲高い声が響いた。
「なりませぬ! お許しを得ねば、何方も御通しはできませぬ! お戻り下さい!」
 オキルは駆けた。駆け、薄く開いた扉を跳ね開け、次の間に駆け込む。
 その正面に奥の居室に続く扉があった。
 その扉の前に一塊になってもみ合う人の姿があった。
 一人の侍女が扉を背に押えて立つ。その前で別の侍女が後ろから抱き竦めるようにとらえたルデスを引き離そうとしていた。
 歳に比して大柄とはいえルデスはまだ十才だった。頭ひとつは低い。抗いようがなかった。
 オキルは駆け寄りルデスをとらえる侍女の両肩をつかみ横ざまに引き倒した。無我夢中だった。侍女の口から悲鳴が走りルデスの体に回されていた腕がゆるむ。
 その腕を振り払って体を起こすルデスを待たず、オキルは扉の前に立つ侍女に肩からぶつかっていった。その勢いに弾かれ二人はもつれ合って倒れる。
 扉の前が空いた。
 駆け寄ったルデスが引き開け、引き止めようと伸びる腕の先を奥の間に逃れ込む。
 オキルと二人の侍女は互いの行動を阻もうと、再び、床にもつれ込んだ。
 その時、全ての動きを凍らせて声が響いた。
「見苦しい。静かにおし――」
 低くかすれ、投遣な声だった。
 オキルは床の上から視線を向ける、そこに長椅子から立つ人の姿があった。
 すらりと高い姿は冷たい気品をたたえ、見るものを凍らせた。肩にとき流した漆黒の髪。白蝋の肌。優美な弧を描く豊かな眉。切れの長い双眸。類い稀な――美貌だった。
 だが、それは硬質の玉石の輝きに似た美しさだった。優しさ、たおやかさというものを片鱗も感じさせてはくれぬ――
 ルデスは声もなく立ち尽くす。
 弾かれたようにオキルから身を離し、二人の侍女が跪く。
 オキルは気付かなかった。床に身を投げ出したまま見上げるその姿に、ただ、時を忘れた。




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