双影記 /第5章 -5
事実は一瞬にすぎなかった。ルデスに冷ややかなな一瞥を与えただけで声をかけることもなく背を向ける。奥に歩き去る背を、
「――母――上――」
絞るような声が追ったとき、ベルファは既に、奥の間の緞帳に手を掛けようとしていた。
だが。ルデスの、悲痛な声もその動きを滞らせはしなかった。そのまま緞帳をもたげて中に消えようとする背にルデスは叫んでいた。
「お待ちください! 母上! わたしは――わたしの父は――誰なのです!」
ベルファが顔を向けた。
白い顔に闇を湛えた双眸が切れ上がる。
流れるように踵を返しルデスに歩み寄ったベルファが、鋭く腕を振りかぶり、
呪縛されたようにその手の動きを追うルデスの頬に――平手が弾けた。
勢いに、床に叩きつけられたルデスの喉をかすれた悲鳴が衝く。
「母‥‥上‥‥」
呆然と床に這うルデスを、ベルファは冷ややかに見下ろした。
「一度しか言わぬ。お前の父はカラフ・ドム・ラデール――お前はカラフ殿の胤だ!」
吐き捨てるような言葉だった。
「嘘だ! 父上が――父上なら――何故、わたしの髪は白いのです? この目は――何故――」
床から叫び上げる、ルデスは泣いていた。
見下ろすベルファが、短く嗤った。空洞を吹き抜ける風に似た音が虚ろに響く。
「信じられぬとあれば。信じねばよかろう。お前は――この身の呪いだ。お前のようなものが生まれたばかりに貞潔を疑われ、遠ざけられた。いかに潔白を訴えようと信じるものはいない――
不義ゆえの結果なら甘んじて受けようものを――何故――と問うなら、この身こそ問いたい。何故。お前は生まれてきた。お前さえ――生まれてこねば――」
自嘲を含む声が軋み、途切れた。
それは。なんと、呪咀に満ちた言葉だったか。遣場のない怒りで自らを苛む白い顔に嘲嗤の影は既になかった。
床に這い、両手で上体を支えて見上げるルデスの背が震えた。
オキルは動けなかった。それを聞くルデスの心を思った。胸が凍る。氷の刃に似て胸を抉り、溢れだす思いさえ凍らせていく。
ふと。ルデスを見据えるベルファの眉がひそめられた。己れに向けられるルデスの視線を拒むように、踵を返す。
再び奥に歩み去る麗雅な後姿に視線を据えたまま、ルデスはのろのろと上体を起こした。床に座ったまま、腰帯に挿してあった短剣を引き抜く。それはハソルシャを出るときオキルが与えた短剣だった。己が胸に向けて両手で構えそのまま上体を倒す。一瞬の躊躇もなかった。
嗄れた叫びはオキルの喉から迸っていた。
「いけない! ルデス様――」
引き抜かれた短剣を見た刹那、オキルは跳ね起きルデスに向って奔った。剣尖に臥す寸前、背後から腕を回し横ざまに押し倒していた。左腕でルデスの胸を庇う、右手は短剣をつかみ押し離す。切先がそのオキルの左腕を切り裂いた。
侍女の叫び、床を打つ音に、ベルファが振り返る。
床の上で無言でもみ合う二人を見た。
ルデスはなおも短剣を取り戻そうとしていた。後ろから抱きついた浅黒い若者の右手がその刃を握って床に押え込もうとしている。ルデスの胸を守る左腕から、刃を握り込んた右手から、血が、飛び散った。
ベルファは歩みを返す。
「おやめ! いまさら、お前が死んでどうなるという。この身の潔白が証されるわけではない。逆だ。罪の子とはいえ、お前に罪があるわけではない。その――子まで死なせたと――さらなる謗りを受けるだけだ――」
オキルの腕にとらえられ床に横たわったまま、ルデスは視線を上げる。白蝋の面を切り裂き、内に湛えられた闇を露にしたようなベルファの双眸が無感動に見下ろしていた。
その闇の前に、ルデスの身体から力が抜けていった。手から短剣が離れる。
「――そうだ。わかっている。お前に罪があるわけではない。お前には、何の罪もない。お前を、この腕に抱き、慈しむことができたら――。だが――できぬ! この身にはどうにもならぬ! お前が憎い。お前の、その姿が――生まれたことが‥‥厭わしい。どうにも――ならぬ――」
ベルファは背を向けた。
「やはり――お前を、傷つけずには、おれぬ――。会えば、己れを押えられぬ――恐れていたとおりにな――」
「だから‥‥一度も、ハソルシャに‥‥」
吐息のように流れ落ちた呟きに、母なる人は低く嗤った。
「――もし‥‥。カラフ殿が自ら、お前の嫡子たるを認め、当主として立ててくださればあるいは――この身の思いも癒えるかも知れぬが――あり得ぬこと。望んで虚しい――」
そのまま奥に歩む。
「ハソルシャに、帰るがよい。――二度と、来てはならぬ――」
そして、
「表に、知らせよ。その者、手当てをしてやるがよい――」
わずかに声を高め侍女に言い置き、ベルファは緞帳の後ろに姿を隠した。
跪き控えていた二人の侍女が飛び立つように立ち去った。
オキルは。ベルファの視線の下に、居竦む体を横たえていた。今、ルデスと二人とり残されて、深い虚脱感にとらわれそのまま起きることができなかった。ただ、かろうじて、強ばった腕を解く。
だが、ルデスもその腕の中から起き出そうとはしなかった。
無言のまま、投げ出され、なおも血を噴くオキルの左腕をとり、傷の上に強く掌を押しあて、胸の中に、掻き抱いた。
ああ‥‥
オキルは微かな息を漏らす。それがルデスの謝罪だとわかった。それでも、傷を包むルデスの掌の下から、甘美な疼きが、熱く、全身に広がっていく。
陶然と、オキルは目を閉ざした。
やがて、立ち去った侍女が人を連れ戻り。二人は引き離された。
二日後――
オキルとルデスは、一隊の兵士に守られ公邸を発った。ハソルシャから二人を追って、一脚先にオーコールに着いていたワルベクと二人の衛士がそれに随従していた。
帰途、オキルはベルファが一度としてルデスの名を呼ばなかったことに思い至った。
だが――
今更それが、どうだというのか。父にも、母にも拒まれたルデスだった。途上、一言も口を利かず、表情さえ失い己が思いの中にこもるルデスに、オキルはかける言葉を持たなかった。自らの命を絶とうとしてオキルに阻まれ果せなかったあの時、それでもルデスは己れを殺したのだと。前を行く細い背にオキルは思う。
もう‥‥いない‥‥
星花草の茂みに、たおやかな笑みを浮かべ佇んでいた人は‥‥もう、戻ってはこないのだ‥‥
それは。ただ、失われたものへの寂寥か。執拗に胸を噛む痛みも今は鈍く、どこか遠い。
己れの胸に棲みついたものにようやく狎れようとしていた、オキルには知り得ぬことだった。ルデス――という、名にこめられたカラフの悪意を。
――呪咀を。
その、もたらすものを――
「‥‥あの後わたしは、一年以上も‥‥、お会いする機会がなかった‥‥」
追想のなかに浸っていた己れを呼び覚ますように、オキルは閉ざしていた目を開く。
「あなたが戻られたは‥‥、それから一月の後だった‥‥。オダン様‥‥。あなたは‥‥どう‥‥思われておいでだったか‥‥」
「どうとは――」
ソルスの世話を終え、窓際の椅子に腰を下ろしたオダンは茫洋とした視線を空に遊ばせていた。
「変られたと‥‥思われたはずだ‥‥」
オダンが首を傾げてオキルを見る。逆光の中で表情の見えない顔がオキルに向けられる。その顔の中で鉄灰色の双眸が鈍く光を弾いた。
「一介の――医師の分際で、このようにお聞きするは僭越と、お思いか‥‥」
己れが測られたとの思いに、力なく視線を落したオキルの声が歪む。だが、
「――オキルよ。何が聞きたい――」
返る声はわずかに疲労を滲ませて穏やかなものだった。オキルの胸で言葉がつまった。
何が――
聞きたい――知りたい――ことは、ひとつではなかった。
長い間。胸に埋み、燠火のごとく内からオキルを炙り灼いてきたそれを、だが、こうして正面から問われて、オキルは唖然とする。聞いて応えを与えられるとは思っていなかった。一介の医師にすぎぬ――とは、それを口にしたオキル自身が自らに諌め続けてきたことだった。
いまも、あえて口にしながら、応えを期待したわけではなかった。それを、
応えて‥‥くだされようというのか‥‥
信じかねる思いを露に顔を上げるオキルに、
「変られた。――反面、何も変ってはおられなかった。それが、驚きであったよ――」
述懐に似た呟きが返る。
オダンはそれきり言葉を継ごうとはしなかった。だがそれは、暗黙の問いかけだった。オキルは、内に満ち上がるものに身をふるわせた。
「あの者は‥‥初めから知っていた。カラフ様が殿を、どのように‥‥思っておいでだったか‥‥そして、それを‥‥。あれは‥‥それ程に‥‥知れ渡っていたこと、だったのですか‥‥」
押し殺された声がかすれる。
「――いや。知るものは出産に関わった数名にすぎなかった――」
「では‥‥やはり、あの者はカラフ様が‥‥」
問う声も、応える言葉も、独白に似て低く、緩やかだった。
「それは、あるまいな。確かに、疎んじてはおいでだったが、殺す必要はなかった。カラフ様にはな――いずれ、病弱を理由に廃嫡されるおつもりではあったろうが――」
「しかし‥‥廃嫡は、できぬことだったと、あの時ワルベクは‥‥」
「理由如何よ。不義の子を理由に廃嫡はできぬ。病弱を理由とするには尚早にすぎた。あの頃は、まだな。――幼少時、病弱であろうとそのまま長ずるとは誰にも言えぬ――」
オダンは言葉を切り、そのまま、沈黙した。表情を洗い落したような顔でオキルはオダンの言葉を待つ。房のなかに森の音が満ちた。陽は既に中天に近い。オダンは視線を窓の外に逃した。
「デュワズが――出生の経緯を知っていたとすれば‥‥知り得た先がカラフ様ということはあり得ぬ。唯一考えられるは――キリア公――エルヴァス・ドム・キリア――」
その言葉がオキルの内にしみとおるに、しばしの時を要した。やがて。オキルの顎が落ちる。
「しかし‥‥何故‥‥」
「ベルファ様の不義の証たる子の存在は、キリア公の喉に刺さった棘も同じだからよ――」
初めて、オダンの声が吐き捨てるような調子を帯びる。
「その為にこそ、死児ともされず育てられたのだ――」
「‥‥死児‥‥」
「思っても見なかったか。常なれば家名の汚れともなるこのような出産――闇に葬られる類のものだ。カラフ様はそれを望まれたが、当時、当主として存命だったセイカー様が許さなかった。公にすれば体面を失うはラデール家ばかりではない。むしろ王家と縁を結びラデール家に代わろうとしていたキリア公にこそ、より手痛い汚点となったであろうからな。ラデール家の出方次第ではルフィス様は王妃とはなりえなかった――」
オキルは目を閉ざした。眉がひそめられる。微かな吐息が唇を這う。ただ、政争の具としてのみ生かされ、育てられた――その非情さに。
「だが‥‥あの時、ベルファ様は確かに、カラフ様の胤と‥‥わたしには、とても偽りとは‥‥思えなかった‥‥」
「――殿は。似て、おられる――」
返る言葉の意外さに、オキルは目を見開く。
「気弱いといえるほどに――優しいお方だった。そのカラフ様に、殿は――よく似ておられる。人に気取られぬよう、努めておいでだったが――」
不思議な光を帯びたオダンの双眸が、再び向けられていた。
「あるいは。そのとおりなのだ。セイカー様の手で厳しい調べがなされた、にもかかわらず、影さえ浮かばなかった。――月の精とでも交わられたかと――最後にはセイカー様も手を投げられた――」
「‥‥月の‥‥」
絶句する、オキルの顔が歪む。
「月のものたる子――ルデス――そう言うことだ――」
「酷い‥‥話だ‥‥」
「そうよな――」
小暗い塔から、真昼の陽射しのなかに踏み出したオキルは顔を伏せ、しかめた眉の下に目を細めた。
熱こそ失った初秋の光はなお輝かしさに満ち、オキルの目に光の刃をつきたてる。
馬をあおって草地を抜け、森の梢の下闇に逃れ込んで、ようやくに、目蓋を上げる。
聞きたいことは、まだあったのではないか――
だが、ルデスの名のいわれを聞いたとき、その気力は散り失せた。
ルデス――
だれもが、オキルでさえが、その姿ゆえに付けられた名であろうと、疑わなかった。
悪意に満ちた、からかいの名‥‥ではないか‥‥
胸が疼いた。
そのことを、知って‥‥おいでなのだろうか‥‥思い沈むオキルの手は、それでも無意識のうちに手綱を操り馬を進めていく。
樹間を這う道は、半ば草に埋もれていた。
五十年前、イルバシェルを奪還し国境が東に移動した、為に、打ち捨てられた砦のひとつであるロッカへの道を、通うものも絶えて久しかった。それでも道が残っているのはかつて、病を得たカラフに代わりラデール家を裁量するようになったルデスが再び手を入れたからだった。
その道をたどる、馬はいつか森を抜け、緩やかな丘陵に出ていた。彼方に館の塔が見え始める。陽は既に西に傾いていた。長い影が地を這い、窪みに陰がわだかまる。
答えのでない思いにとらわれたオキルの心に、移りゆく外界は映らなかった。
そこここに生い茂る木立の間を抜け、しだいに館に近づいていく。そのオキルを、道を外れた一群の木間から執拗に追う視線があった。
己れに据えられた視線があることに気付きようもないオキルの、その後姿が館をとりかこむ城壁の影に消えて、ようやくに、視線の主は息をゆるめ、片膝立ちに浮かせていた腰を落す。
リファンだった。
強行したドワルより一日遅れてハソルシャについたリファンは、ハソルシャでは知られている己が姿を隠さねばならなかった。館に近づくにも道を外れ、林の中をたどってきた――そのリファンの前に馬を進める騎影は天佑だったか、
密かに見送ったその騎影がオキルであると知ったとき、リファンは、そのことの意味を悟った。
あの者は――もはや、館にはいない――
オキルの現れた先に、人の住まいする家も村もなかった。あるのは、ただ、打ち捨てられ守るものもいない、
ロッカの砦だ――
陽が落ち、薄闇が下りるのを待って、茂みに隠した馬を引き出したリファンは騎上に馬首を回らせた。
深更――
リファンは星明かりのかいま見える樹間をロッカを囲む草地にたどりついた。
草地を前に、樹立ちの外れに潜み窺う砦の塔は暗く静まっている。
どれほどの時を、そこに佇んでいたか――リファンは再び馬首を回らす。さらに深く、森の奥に――
それから数日を、人知れぬ森の中に野宿を重ねながらリファンは砦を窺い続けた。
翌日には、ワルベクが訪れるのを見た。
馬の背に担われた荷を運び込むその訪いを最後に砦をめぐる動きは絶えた。だが、
あの者は、ここにいる――
それは、既に確信だった。さらに三日が過ぎ、何の動きも認められぬまま夜を迎えたリファンは、野宿を続けてきた樹間の小さな空地に戻った。
わずかに残った硬パンと乾肉で乏しい食事を終える。膝の間に剣を抱き、背をもたせた樹の根方に蹲る、その顔が憔悴していた。何かに備えて多めに用意してきた糧食も尽きようとしていた。飢えは執拗に腹を噛む。それでも、思い沈む顔に懊悩の影は濃い。
殿の思い人を除く――それによってもたらされるものへの恐れが、リファンを躊躇わせていた。
その者がいると確信しながら、今なお、森に止まり続けるリファンは縋りつくようにひとつの疑念を追う。
あの者は、いる――
だが、誰と――
一人のはずはなかった。館の塔の間で、ルデスの腕のなかに力なくその身体を委ねていた姿を思い起す。
なされるままに、揺れていた腕、白い優美な手――
目覚めてくれ――と、祈るように繰返されていたルデスの声――
その声に――
この夜も、草の上に横たわり、巻き付けたマントの中でリファンは身を捩り己が耳を押し塞いだ。
その声を締め出すことはできなかった。耳底に響く声は執拗にリファンを苛む。
リファンは呻いた。長く、猛々しい己が呻きでその声を打ち消そうように。
あの者は眠り続けているのだ‥‥なにかは知らぬ、病ゆえに‥‥
その者に。殿は自ら口移しに、ものを与えておられた‥‥
そのことへの、狂おしいまでの嫉妬に、身を切り苛まれ、リファンは草の上を転々した。