双影記 /第5章 -6



 耐えられぬ――
 ついに、リファンは上体を起こす。
「もう‥‥耐えられぬ‥‥」
 嗄れた、己がものとも思えぬ声に浮かされたように立ち上がり、まといついたマントを引き剥がす。
 そして。投げ出されていた剣をつかみ樹間に分け入り、森を突き進んでいった。
 誰が、いようとかまわぬ――
 ――今夜で。けりをつけるのだ――
 勢いのまま森を抜け、ロッカの塔を囲む草地に踏み出そうとして、だがリファンの脚は止まった。
 眼前、黒々とそびえ立つ塔の基部に、不意に、鈍赤い一本の線が走る。リファンの背を凍らせて扉が開き、漏れ出る弱い明かりのなかに一個の人影が現れる。
 一瞬とも言える逡巡の後で、背後に扉を閉ざした人影は足早に森の中に歩き去った。
 もし、リファンが終夜、塔を見張っていたら既に知るところとなっていたであろう、ルデスの思い人に付き添うものが何者であったか――その者が深夜の一時を、夜毎、あてもない散策に費やしていたことを。
 オダン様‥‥
 細い月の光の中で息を殺し、樹間に遠ざかる気配が消えるのを待つ、リファンは己れを取り戻していった。やがて、息を殺し塔に近づく。
 闇に潜み、薄く押し開けた扉の隙間からうかがう塔の基層に、人の気配はなかった。滑り込み、背後に扉を閉ざしたリファンは、激しく震える全身をその扉にもたせかけ、周囲を見回す。壁ぎわの長椅子の上に置かれた燭台が、鈍い灯りに辺りを照らしだしている。だが弱い光はその中程までも届かず、基層の広間は大きな闇を湛えて静まっていた。
 燭台をとり、奥に、階上に向う。闇と静寂を取込めた塔の内にはさらに人の気配は感じられなかった。それでも一層ごとに確かめながら、四層に至ったとき、再び、リファンは身を震わせる。
 ここに‥‥
 いるのだと。もう、この上はなかった。震える手で、扉を押し開ける。聞こえるのは己が息遣いだけであった。
 眩む視界に、四層の寝房をとらえる。
 一偶に据えられた大きな寝台に目が吸い寄せられる。そこに。薄い体を夜具に被った人影が身を横たえていた。
 夢中に泳ぐように寝台に向かいながら、リファンは腰の鞘から短剣を引き抜く。
 いったい、どのようなものが‥‥
 その顔を、確かめずにはいられなかった。
 傍らに立ち燭台をかざす、リファンはそのまま凍りついた。喘ぎに似た息が口を衝く。
「陛下‥‥」
 応えるように、目蓋が上がり、漆黒の双眸が見開かれる。
 どれほどの時を、そのまま凝固していたのか。
「‥‥どうやら‥‥ルデスの意を受けた者では、ないらしい‥‥。何故‥‥この身を、殺す‥‥」
 低い声はかすれ、弱々しかった。
 それでも、その声に含まれた豊かな響きは聞き違えようがなかった。
 何より、
 見上げてくる双眸に宿る光は――その明澄な光は‥‥
 短剣を振りかざしたリファンの右手が、全身が、その光に射竦められ瘧のように震えた。
 何故‥‥確かめようなどと、思った‥‥
 悔いが胸を噛む。
「違う‥‥御身は違う! 陛下などでは、ない!――!」
 叫ぶ。声は、かすれ、ひび割れる。
 早く! 終わらせるのだ――
 だが、リファンの右手は宙に釘づけられたように、動こうとはしなかった。
 全身を冷たい汗が濡らす。切れ上がった眦に流れこむ汗が目を刺す。それでもリファンは目を閉ざすことができなかった。
 ただ、息を荒げるリファンに、
 つと、黒瞳の光が緩む。
「そうだ‥‥。わたしは王ではない‥‥。己れの身もままならぬ‥‥ただの虜囚にすぎぬ‥‥。殺すがいい‥‥。ただ‥‥己れが殺される、訳ぐらいは‥‥知りたい‥‥」
 静かな声だった。
 だから、こそか。それはリファンを打ち据えた。
 何故‥‥王ではない‥‥などと‥‥
 自ら否定するこの人こそが、かつてオーコールにあり、臣下の畏敬を集めていた王ソルスに他ならぬと、リファンの悟性は告げる。であればこその、王の変容だったのだ。
 王と称し、ソルスと名乗り、今この時も王城に居座る、
 あれは‥‥あの者こそが王ではない‥‥
 リファンは喘いだ。
 殿‥‥あなたは、何ということを‥‥
 それ程までに‥‥この御方を己がものとしたかったのか‥‥
 見詰める黒瞳から逃れるように目を閉ざし、顔を背けた。
「それは‥‥。それは――貴方が殿を――殿の心を――奪ったからだ――」
 敗北感に苛まれ、苦しげに絞りだされた声に、一瞬、唖然として見開かれた双眸が閉ざされた。そして、
 咽び上げるように、ソルスは笑った。
「何‥‥という‥‥」
 低く、空を震わす笑いは、微かな吐息を落して、絶えた。
 静寂が――下りた。
 その笑いはだが、さらにリファンを打ちのめした。
 何故――何を笑う――
 この身を嘲るか――
 屈辱に眩む目を見開いたリファンの眼下に、だが、輝ける黒瞳はなかった。眠るように目を閉ざした顔が、ただ静かに己が命運を待ち受けている。刹那。リファンは憎しみを叩きつける相手を見失った。
 振り下ろしかけた右手が、宙に泳ぐ。視線がその顔の上をさまよう。そして、
 この時、ようやくにしてリファンはその変りように、思い至る。
 やつれ、削げたった頬に。その片頬を無残に爛れさせた火傷の痕に――リファンは胸を突かれ、身を凍らせた。その双眸、輝かしい光を宿す黒瞳だけは、
 変っては‥‥おられぬ‥‥
 だが、
 ‥‥何という‥‥
 痛ましい、姿だった。
 そして、この姿になさしめたのがルデスの手に他ならぬとは――
 殿‥‥どうして‥‥
 リファンの脳裡を、塔の間で覗き見た情景がかすめる。
 あれほどの執着を見せた相手に――
 自ら仕立てたとはいえ、仮にも王たるものの命をも拒み、己れを失うほどに思いをかけた相手に、どうして‥‥
 このような仕打ちができる‥‥
 惑乱する、
 リファンの内で、時が、止まった。
 その胸に初めて、ルデスに対する怖れが根ざす。
「早くせよ‥‥。オダンが戻る‥‥」
 静かな声に促され、ゆるりと、時が流れだす。移ろわす視線の先に、何かに耐えるように闇に据えられた双眸を見る。
 その、背けられ光を失った黒瞳に、ようやく苦悩の影を見取る、リファンの右手が、落ちた。深い吐息が空を震わす。
 わたしには‥‥殺せない‥‥
 踵を返し、打ち拉がれた足取りで扉に向う、背に、声が追い縋った。
「待て‥‥待ってくれ‥‥」
 リファンは寝房から踏み出しかけた脚を止める。
「殺しては‥‥くれぬ‥‥か‥‥」
 その声に含まれた絶望に、緩慢に頭をめぐらせた。
「貴方は‥‥死にたいと、いわれるか‥‥」
「今‥‥悟った‥‥。これ以上は‥‥耐えられぬ‥‥」
 ソルスは横たわった上体を捩り、青褪めた顔をリファンに向けていた。
 救いを求めるように、その腕が力なく夜具の上に投げ出されている。
 強い光を宿した双眸の内に、押え込まれていた激情が、今、溢れだそうとしていた。
「目覚めたと知れれば‥‥又、鎖に‥‥つながれよう‥‥いずれにせよ‥‥この体では、逃れられぬ‥‥。オダンは、いずれ‥‥知ろう‥‥。今でさえ‥‥疑っている‥‥」
「わたしに‥‥貴方を殺せと?‥‥」
「わたしは‥‥もう、二度と‥‥嬲られたくない‥‥」
 低く押し殺された声だった。辛うじて耳に届いたその言葉に、リファンは身を震わす。
「嬲る‥‥? 殿が、か?‥‥」
「頼む‥‥」
 苦しげに見上げてくる、ソルスの眦が赤く染まる。弱々しく、哀願するようなその眼差しに、リファンは初めて思い至った。
 この方は‥‥わたしより若かったのだ‥‥
 その若さを周囲の者に感じさせない英明さで、常に、王として君臨していたソルスだった。それが――
 このように貶しめられ‥‥死さえ、願うか‥‥
 リファンは振り切るように顔を背けた。
「許されよ‥‥わたしには、できぬ‥‥」
「せめて‥‥」
 逃れる背を、必死の声が追う。
「せめて‥‥その短剣を‥‥」
 リファンは息を詰めた。扉を背に縋り立ち半身を向ける。そして。
 闇のなかに仄白く浮かび上がる顔、その頬に光る条に、憑かれたような視線を据えて立ち尽くす。
 その場に凝固したようなリファンに、やがて、ソルスの忍耐が尽きた。
「リファン――」
 哀願する、その呼びかけに、だが、リファンの体が貫かれたように、硬直した。
「‥‥貴方は‥‥この身を‥‥」
 その狼狽ぶりに微かな驚きを示しながら、ソルスはうなずく。
「リファン・レン・ドーレ‥‥かつて、近侍の者に‥‥聞かされた。お前が、この身を憎み、殺したいと思う‥‥わからぬでは‥‥ない‥‥。だが。わたしとて‥‥願って、こうなったわけでは‥‥ない‥‥。お前というものが‥‥ありながら‥‥どうして‥‥この身まで、求めねば‥‥ならぬのか‥‥」
 力尽きたように、ソルスは腕の間に顔を埋めた。その、尖った肩が小刻みに震えている。
「違う――」
 苦渋に満ちた声が、その耳を打ち、
 ソルスは顔を上げた。
「違‥‥う?‥‥」
「殿は‥‥この身を求めたことなど‥‥一度としてない‥‥。求めるのは‥‥常に、わたしだった‥‥。殿は、それに応えてくだされるだけだった‥‥。殿が求めたのは‥‥。唯一‥‥求められたは――貴方だ!――」
 その言葉に、喪然と、ソルスは目を見開いた。
 驚きに声もないソルスを凝然と見詰めていたリファンが、何を思ったか、不意に、足元に燭台を置いた。そして寝台の傍らに大股に歩み返す。
「気が。変りました。貴方をお連れする。お起きになれるか?――」
「だが‥‥何故‥‥」
 我に返ったソルスが問う。
「貴方は――殿に、抱かれたいのか――」
 あまりにむきつけな言様に、一瞬、息を呑む、ソルスが首を振った。
「これ以上は‥‥動けぬ‥‥」
 頷くと短剣を引き抜き、夜具の端を切り裂いた。二本の長い帯を作り、その一本で投げ出されたソルスの腕を括り合わせる、リファンは上体を抱え起こし、腕の輪のなかに己が肩を入れ、ソルスを背負い起こした。他の一本でその身体を己れに縛り付け、寝台を離れる。
 一歩を踏み出して、リファンは背負う体の思わぬ軽さに胸を突かれた。己れより、僅かながら上背のあるソルスだった。
 それが‥‥
 唇を噛み締める、リファンは扉の前で燭台を取り上げ、階段に向う。ゆらぐ灯火の中、奈落へと落ち込むような階段をゆっくりと下り始めた。
 いつ戻るとも知れぬオダンに脅かされ、塔の外の闇に逃れ出たとき、リファンの全身は冷たい汗に濡れていた。
 だが、ここで休むわけにはいかなかった。時に急き立てられ、生い茂る薮のなかをねぐらの空地に向って己れを励ます。
 森の中は暗かった。
 見失いがちな標の樹影をたどって空地に帰りついた時、リファンは、そのまま崩れるように蹲った。
 やがて。気を取り直し、ソルスを背から下ろす。終始無言で木偶のようになすがままに草の上に横たわったソルスを、傍らに腰を下ろし、窺うように見下ろす。星明かりに浮き上がる仄白い顔に表情を見取ることはできなかった。
 陛下‥‥
 言葉にはならなかった。声にすれば、己が逡巡を聞き取られよう――その怖れに、息を潜め、思い惑うリファンに、
「ここでよい‥‥」
 静かな声が返る。リファンは息を呑んだ。
「ここなら‥‥しばらくは、見出されることも‥‥あるまい‥‥。ここに‥‥置き捨ててくれ‥‥」
「何を‥‥言われる‥‥」
 打ち消す声が、狼狽に擦れる。
「殺せずとも‥‥ただ、置き去るなら‥‥できよう‥‥」
「何を――言われる。そのようなことの為に、お連れしたのでは――ない――」
 声に怒気を孕ませながら、だがリファンは、己が惑いを見透かされた――その思いに胸を噛まれた。――その、慚愧に。
 しかし。それすらも見透かしたようなソルスの声はなおも続く。
「お前は‥‥わたしを‥‥抱かせたくは、なかった‥‥。恥じることはない‥‥。無理からぬ‥‥思いだ‥‥。わたしは‥‥ルデスの手の、届かぬところへ‥‥連れ出してもらえた‥‥それだけで、充分だ‥‥」
 リファンは呻いた。
「何を言われる。――貴方は、再びオーコールに、戻りたくはないのか――戻り、貴方を騙るあの者を――滅ぼしたくは――ないのか――」
 その一瞬、リファンは忘れていた。それをすることがルデスをも滅ぼすことに他ならぬのだと。
 だが。
「それは――できぬ――」
 不意にソルスの声調が変った。苦しげな、だが、決然としたその響きに、リファンは一瞬、気を呑まれる。
「何故‥‥です‥‥」
 安堵と、不安の綯い交ぜられた吐息に、問う。
 何故‥‥できぬのです‥‥
 ‥‥それは‥‥殿のゆえか‥‥
 真に問いたい思いを、リファンは口の内に噛み殺した。
 ソルスは。応えなかった。
 長い、沈黙の後、リファンは告げた。
「わたしは貴方をカルセンにお連れする。わたしの所領ではないが、かつてわたしの乳母だったものがいる。その者に、貴方をお預けしようと思います。貴方の体が――癒えるまでの間――」
 やがて。
 白々と明らむ空の下、ソルスを乗せた乗騎の手綱を引き、リファンは北に、森の中にその姿を消した。

 この日、日暮近く――
 オキルは突然館に現れたオダンに身を竦ませた。
 返るであろう応えを思って声もなく立つオキルに虚脱したような視線を向け、オダンは告げた。
「昨夜――あの御方が、何者かに連れ去られた。わたしが砦を空けた、一時ほどの間のことだ――」
 思いもしなかった応えだった。オキルは愕然と顎を落す。
「かなり離れたところに野宿の跡を見付けた。うかつよな。ずっと見張られていたらしい。そこからは騎馬で北に向かっていたが――川で、跡を断たれた。そのまま北に向ったものか――わからぬ」
「オダン様‥‥」
 辛うじて声を絞るオキルに、微かに頷き返す。
「明日――オーコールに発つ。お知らせせねばならぬ――」
 昼の間、ソルスの跡を追い求めて森の中を歩き続けたであろう、その疲労もさることながら、そればかりではない何かに、拉がれたように椅子に腰を沈めていたオダンが、不意に、歪んだ笑みに口元を引きつらせた。
「わたしは‥‥迷っていたのだ。オキル。迷い、夜毎に森の中をうろつき回った‥‥そのことが、このような結果を‥‥招こうとはな‥‥」
「何を‥‥迷われたと‥‥」
「あの御方はな‥‥意識を、取り戻していた‥‥ように思われる。なすがまま――木偶のようにと、いわれたが‥‥僅かながら、わたしの手に、反応しておられた‥‥」
 その言葉に、オキルは凝然と目を見開く。
「いつから‥‥どの、ように‥‥」
「初めからよ。触れると、微かだが、身を強ばらせて――おられた――」
「だが‥‥あなたは、何も‥‥」
「明かさなかった。‥‥明かせば‥‥。そして充分に手当てを加えれば、あのお方も癒えられたであろうな。あるいは‥‥。それで、殿の心は救われたかも知れぬ‥‥。だが‥‥我らは、永久に、殿を失うことになったであろうよ‥‥。身勝手な話よな。殿がいかに苦しもうと‥‥先立たれることには、耐えられぬ‥‥。いずれ、時が癒す‥‥虫のいい言訳よな‥‥」
「では‥‥では、あなたは、殿に知らせぬまま、あのお方を‥‥」
「そうだ――」
 断ち切るようなオダンの言葉だった。
 オキルは息を呑む。
「知らせぬままに――闇に葬る。迷わずにそうしておれば――このようなことには、ならなかったものをな――」
 無意識のうちに、オキルは舌で口を湿そうとした。だが。干上がった口は潤わず、嗄れ、耳障りな声が絞りだされる。
「あなたは‥‥それを全て‥‥殿に告げる、おつもりか‥‥」
 オダンは微かに頷いた。
「自ら告げずとも‥‥察して、しまわれよう‥‥であるなら、同じこと‥‥」
「だが‥‥だが。そのようなことをすれば、殿はあなたを‥‥」
「いや。それでも、殿は。この身を許されような。このような‥‥者でもな‥‥。殿とは‥‥そういう御方よ‥‥」
 俄に老いの深まった顔を、不意に自嘲に歪めたオダンを、オキルは声もなく見詰めた。やがて、呻くように呟く。
「この先‥‥いったい‥‥」
「どうなるかは――殿にもわかるまい。ことは、我らの手を――離れてしまった――」
 虚ろに乾いた声が応える。
「殿は‥‥どうされておいでか‥‥」
 オダンはただ、虚ろな双眸をオキルに向けた。オキルは。戦慄した。初めて目のあたりにする、オダンの自失した姿だった。
 そのオダンを、今は問う言葉も尽きたオキルはただ、見詰め続けた。

 この夜、
 ルデスがオーコールに拘引された夜から六日がたっていた。
 僅かに、六日が――




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