双影記 /第6章 -2
「では‥‥まだ‥‥」
「これからは、公然と会う訳にはいかぬ。お前の助けを借りることもあろうな――」
再び、馬の群れに視線を返す表情を消した横顔に、ダルディの顔が苦しげに歪んだ。
「それ程に‥‥この身を信じてよろしいのか。わたしとて望んでいるかも知れぬ。このまま兄上が男に狂い、子をなさねば‥‥いずれ、この身が当主となれる‥‥とあれば‥‥」
「よいではないか」
「兄上――」
「今でこそ、この身が当主になると誰もが疑わぬが――わたしがリクセルに来るまではお前こそが当主の世子として育てられてきたのだ。恨まれこそすれ、このように慕ってもらえるとは――思わなかった。このまま――お前が当主となったほうが――よいのかも知れぬ」
「馬鹿な。兄上というものがありながら――この身が当主になれると思うほど、わたしは愚かではない――」
「わたしが――それを望むとしたら――」
「兄上‥‥」
「お前なら信じてくれよう。わたしには――ハソルシャと、馬達が、あればよい――」
不意に振り返ったルデスがしみるような笑みを浮かべた。
「埒もないことを言った。行くぞ――」
軽やかに馬を駆る背に従いながら、ダルディは泣きだしたい思いに耐えねばならなかった。
わたしは――この兄を、欺いているのだ。
欺き、裏切り、義姉上と通じた――この罪を――
打ち明けたい――
全てを打ち明け、その裁可を仰ぎたい――
だがそれは、できぬことだった。
エディックまでをも罪に落すわけにはいかぬと、己れを欺く思いの底で、ダルディは悟っていた。わたしは、エディックと別れたくない。この先も、たとえ密かにであれ愛し合いたいのだと。そして、兄の求めをよいことに公然とオーコールに赴き、エディックと会う。
わたしは、卑劣だ――
この、卑劣なわたしを‥‥兄上‥‥あなたは何故、疑わぬのだ‥‥
オーコールに親しめとあなたが招くその留守を狙ってわたしが義姉上と通じるかも知れぬと‥‥どうして、疑わぬ‥‥
それとも、もう知っておられるのか‥‥
知っていながら、おくびにも出さぬのか。
‥‥だとしたら‥‥何故‥‥
自らに問いながら、内に返るものに身を震わせたダルディはそれを振り払った。
いや‥‥違う。思い過しに過ぎぬ‥‥
やはり兄上は知らぬのだ。
知らぬまま‥‥
この身を信じて‥‥おられる‥‥
自ら疑念を打ち消したダルディの脳裏には、かつて知らぬ、陶然と己が胸に男を抱き寄せたルデスの姿があった。鈍い、燭台の明かりに照らしだされた鮮やかに白い裸身。急ぎ被い隠したか、乱れた夜具の下に絡み合った下肢――
妻を持ち子を儲けながら、まだ男になりきらぬ年若いものを相手とし情事に耽る――ダルディには理解も許容もし難いことながら、そのようなものがあるを知らぬではない。
だが‥‥あの者は違う‥‥
白い胸の上にのしかかった浅黒い痩躯は、着衣の上からは思いつかぬ、鋼線を撚り合せたような筋肉に被われていた。歳さえがそう違わぬ。とらえ所ない灰色の双眸、無表情に収まり返った顔は太々しいまでの男の顔だった。
しかも、兄上は、義姉上に触れようともなさらぬ‥‥
ダルディは前を疾駆する背を、その清冽な肢体を必死で追いながら煩悶する。
‥‥なぜなのだ‥‥
何故‥‥あのようなものに‥‥
‥‥この‥‥兄上が‥‥
信じ難い思いのままに、うつつに漂うようなダルディの上を、日々は駆け去る。
やがて年が変り、またの噂がダルディを驚かせた。
あのお方が新しい情人をつくられた――その相手が誰あろう、あのリファン・レン・ドーレよ、と。それを告げるエディックの毒を含んで艶やかな朱唇に、自失したような視線を向けるダルディは、不意にわき起こった疑念に、心を盗られていた。
もし――
初めから、その相手がリファンであったら、あれほどの衝撃を受けたであろうか――と。あの者であったからこそ、そこにただならぬものを感じ、諌めようという思いも失せて逃げ出した――
――そうだ。
わたしは、あの時、逃げたのだ――
逃げたあげく、それを口実として義姉上と通じた――忸怩たる思いのなかに、だが、それでもまだ、ダルディの疑念は兄の思いの行方に止まっていた。
あれほどの思いをかけた相手なのだ。日々会うことがかなわなくなったといえ、僅か三月を経たばかりでどうして――新たなものを求められる――
ただ諜者としての、あの者に会いにいくのか――それとも、まだ情を交わす仲であるのか。だとしたら、兄上の思いはいずれの上にあるのか――と。
新たな情人を得てのちも、およそ月に一度、二月とはあけずに姿をやつして行方を晦ます、それは変らず、今にいたるまで続いていた。
それが――
この春のアルザロの侵攻――それにより、ダルディは己が疑念のたあいの無さに気付かされた。
これまで、ルデスが使う諜者の、その真価を考えたことなどなかったダルディだった。
成果が見える形で現れぬ、それこそが成果だと聞かされれば、そんなものかと受け流す程度の関心しかもてぬダルディに、ルデスも如何なるものが使われているかは明かしたが、それ等の者がどのような働きをなしているかは、何も語らなかった。
だが――と、めぐらす思いには戦慄がともなう。もし、それ等の者の働きによりアルザロの真意を知り得なかったら、このニルデアはどうなっていたであろうか――と。
王都を落され、野に背腹に敵を受け、それでこのニルデアが滅ぶとまでは思わなかったが、どれほどの苦戦を強いられることになったか――
それ程の、働きをなすもの達なのだ‥‥
もしそれ等の者がおらねば――ましてや、敵方につかれたら――慄然として、ダルディは悟っていた。
僅かに二才しか違わぬ身でありながら、己れの何という甘さか――兄ルデスの初めての情人がこともあろうにエリ・フリギル・エリ――その男であった、そのことの持つ、別の相を。
忌まわしい記憶が――その主がいかなる者だったか、時の底に埋み忘れていた、声が、耳に甦る。
あれは、そそる御方よ――
当主の世子でなくば、おもうさま泣かせてみようものを――と。騎士たちの酒席で酔い乱れた中に語られたその言葉の淫靡な響きは、意味は解らぬながら、不快な刺となって長く心に残った。ルデスが十代の半ば、リクセルの館に暮らすようになってじきの頃だった。
口中にえずく苦いものを噛み締める。今のダルディに、その言葉の意味は明らかだった。
あの、兄上を‥‥そのように見るものがあったのだ‥‥信じ難い、許しがたい劣情を兄に対し抱くものが‥‥
確かに、十代のルデスは匂い立つような優美な姿態をもつ貴公子だった。だがそのような劣情をはねつける、凛冽たる覇気を既に身に備えていた。剣を交えて勝るものがリクセルにないことはじきに知れた。戦場に立って以来、その勇猛な戦いぶりと沈着怜悧な指揮で、当時頻繁に繰返されていたアルザロとの抗争に頭角を現すに時は要さなかった。ラデール家の白の公子と――二十歳にならずして異名をとったルデスが、いつまで、そのような情欲の対象として見られていたとは思えなかったが。
だが――
今になってダルディは思い当る。実の弟たる己れでさえ、ふと胸を騒めかせる何かを――今なお、兄上は持っておられる。とすれば。在り得ぬ事ではないのだ。あの者が兄上に懸想しようことも――その挙句、己が思いを遂げようために、兄上に――
思わず上げた呻きに、傍らを行く従士が不審の視線を向ける。己が声に我に返りダルディは背後を見返る。従う麾下の重く押し黙った隊列が長く、続く。昼近くオリュドを渡河しロセムからリクセルへの半ばを過ぎた道は緩やかながら間断ない斜面を登っていた。
日は既に西に傾き始めている。
起伏に富む、リクセルの宏漠たる原野が深い陰をたたえ行手に横たわっていた。
ダルディは気を取直し、いつか弛みを見せていた騎馬の脚を速めた。
道を急ぐ一行がリクセルに帰り着いたとき城館は高い壁を残照に染めて闇のなかに沈もうとしていた。
首尾を知るために出迎えた重臣たちを従え広間に入ったダルディを待ち受けていたのは末弟ウォリファの揶揄に満ちた声だった。
「これは――兄上、お一人でお戻りか――ルデス兄上を、お連れするのではなかったのか――百人もの手下を引き連れ散歩でもしておいでだったか――」
父カラフをして、その容姿、先代セイカーに最も似ていると言わしめたウォリファのいつもながら癇に触る物言いに、この時ばかりは重く沈んだ視線を返しダルディは無言で椅子に腰を落した。
この年二十四になるウォリファは椅子を傾げ放恣に大卓に脚を投げ上げたままダルディの動きを追っていたが、取り合おうとしない相手に、椅子を揺すり鼻先で笑った。
「――で。この先、どうなさる、おつもりだ――」
「兄上は。何があろうと、決して、王に背いてはならぬと言われた。では、帰られるを待つ以外――あるまい」
「素直なことだ。だがもしお帰りのないときは――?」
「あり得ぬ! そのようなこと――」
「ラデール家の当主が王の手のものに捕えられる――皆、あり得ぬことだと、言っていたように思うが――わたしは願望を聞いているのではない。覚悟を――お聞かせ願えぬか」
「先走るなよ! ウォリファ!」
押さえた怒気に、ダルディの声が擦れる。
「――だが、それはお前たちも知りたかろうな――」
怒気を鎮めて、迎え出た五人の男たちを見回した。家宰のゲルク・イアキン、そして、二人の騎士団長とその副官だった。
「お聞かせいただこう。ルデス様がこのようなことになられては、万一のことも考えておかねば――なりますまいからな」
ゲルクが応える。その声が軋んだ。代々ラデール家の家宰を務めてきた初老の地方貴族の首長は不安に勝る怒りをその褐色の双眸に凝らせる。
その怒りがルデスに対するものと知るダルディは吐息を噛み殺した。
「兄上の言葉は、伝えた。わたしはそれに従う」
「それは――万一の時は見殺しにするということだな。それで兄上が当主となり王家に恭順しラデール家は安泰というわけだ――」
毒を含んだウォリファの言葉だった。
椅子を蹴ってダルディは立ち上がる。荒ぐ息を押し静める間、挑戦的に見上げてくる末弟を睨み据えていたが、つと視線を逸らし大卓を離れる。
「万一のことなど――起こらぬ。わたしは明日オーコールに行く。城に行き陛下に、訴える。全て誤解なのだ。わかっていただけよう」
「馬鹿な――そのようなことをして、あなたまで捕えられたら――」
ゲルクが狼狽え、声を荒げる。
「その時には、ウォリファがいる。いずれにせよ、騒ぐには及ばぬ。王家に対する忠誠は変らぬ。お前たちもその心積もりでいてくれ」
立ち止まり、四人の騎士を見返る。その顔にはエディックの前に見せる気弱さの片鱗さえなかった。
不意に。哄笑が弾けた。ウォリファだった。椅子の背に仰け反り、身を震わせて嗤う弟に苦い一瞥を残しダルディは広間を立ち去った。ゲルクが追う。二人の騎士がそれに続いた。
四人が立ち去ると同時に、断ち切ったように哄笑が止んだ。
残った第二騎士団長アルウェル・ハドイーが手を振って副官を去らせる。苦笑を含み、凝然と宙を見据えるウォリファを見下ろした。
「ダルディ様は素直すぎる御方だが、あなたは素直でなさ過ぎる。いずれにせよ困った方々だ――」
「兄上は‥‥ルデス兄上は、どうなのだ‥‥」
顔を向けたウォリファの眦が赤い。アルウェルは椅子をとり腰を下ろす。
「あの御方か――。あの御方は、素直であることを許されなかった――わたしにはそのように思えるが、いかがなものかな――」
一瞬、唖然と見開かれた漆黒の双眸が疑わしげに細められる。
「お前の言うことは――いつも、よく解らぬ。許されぬとは――どういうことだ――」
「それがお分りになれば、あなたも、一人前と言えような」
ウォリファは、傲然と腕を組み、背もたれに寄りかかった魁偉な男を睨み据えた。
「わたしが、まだ子供だというのか――」
「むきになるところは――充分に――」
薄く笑いを含んだ厳つい顔のなかに、菫色の双眸が笑ってはいない。出かけた言葉を喉につかえさせたウォリファが苦しげに眉をしかめた。やがて――力ない笑いに口元を歪める。
「――そうかもしれぬな。で。アルウェル、お前は何故ここにいる。何故、行かぬ――むずかる子供をあやそうつもりか――」
「それも、ないとは言えぬな。あなたのことを任された身であれば。それに。あなたには、話すことがおありではないのかな――」
人を食った薄笑いに口の端を歪めた男に、ウォリファの顔から笑いが消えた。
「お前のような憎体な男の――どこが、気に入られたのか――兄上の気が知れぬな」
「このような所が――であろうよ」
「何にせよ―― 一介の小領主の小倅がラデール騎士団の一方の長に引立てられたのだ。兄上でなければあり得ぬことだ。少しは恩を感じていような――」
「恩か――。それなりの働きはしてきたと思うが。かえって驚かれような。この身が恩を感じているなどと申せば――」
「では――わたしに加担はできぬか――」
「――まったく。あなたという御方は――敵をつくることも巧みなら、味方を失うこともお上手なことだ。――加担する気がなくば、ここにはおらぬ――とは、思われぬか」
「――わたしは。――まだ、何も言ってはおらぬ――」
「言ったも、同じよ。――要は、お救けしたいのであろう――」
「では――」
「恩を感じているといえば嘘になるが――気には入っている。得がたい主であることは確かだ。そう申せば納得なさるか――」
まだ幼さの残るウォリファの才走った顔に微かな怯えが走った。一瞬のことだった。凝然と見据えてくる菫色の双眸から、逃れるように視線を逸らした。
「救けたい――そのとおりよ。ダルディは王を説得するつもりらしいが――なまぬるい限りだ。万一のことが起こらぬ前に、王を倒し兄上を救い出す――そして――」
自らの言葉を恐れ、押し殺しながら、なお言い切れず絶句する。それを引き取って、安穏とした声が続けた。
「王におなりいただく――か――」
弾かれたように見返す、漆黒の双眸が意を求めて無意識に縋る。
「――そうだ。兄上こそが。王にふさわしい。わたしには解らぬ。あのような王に、何故、兄上は唯々として従われるか――」
「何故――か。確かに。分かってはおらぬな。お救けするはかまわぬが――王に手を出せば、お許しにはなるまいよ。それは、やりすぎというものだ。もっとも、わたしとしてはその方が面白いが――あれは、こちらの思惑に乗って踊ってくださるほど可愛げのある御方ではないのでな――王は殺すわけにはいかぬ」
その、あまりに緊張感にかけた言様に、ウォリファの顔が怒気に染まった。
「――もし。殺せばどうなるという。殺さねば、国中の、全ての諸侯を敵とすることになるではないか――」
「まったく――それ程にお分りにならぬか。――よいか。あの御方にはな、大きな欠点が二つある。ひとつは、野心の片鱗をもお持ちにならぬことだが、いまひとつ――それは、縋るものを突放せぬ弱さをお持ちだということよ――」
「野心がないことくらい、わたしにもわかる。でなくば、王を救うために、己れが死ぬほどの傷を負う、ありえぬことだ。だが、弱さなどと――あの兄上に限って――」
「その弱さゆえにな、あなたを手にかけることはすまい。代わりに己が命を断ってしまわれようよ」
「馬鹿な――」
「まったくな――。その上、誰より先の見える御方ときている――度しがたい御方よ」
「何故――わたしが王を殺したことで、兄上が死ぬ――」
「王を失えば――あの御方は、もう戦えぬ。――戦神かと、言われるほどに戦う御方がな。あの御方を戦わせるためには大義が、必要なのだ。それがニルデアの平安であり、つまりは王の為――ということになる。ラデールの名は、値しない――」
「馬‥‥鹿な‥‥」
「王さえ生きてあれば、一時は攻められようと望みはある。なんとなれば、世に国はニルデアだけではないからな。ニルデアが乱れればまずアルザロが、スオミルドが、デルーデンが――国境を窺おう。内乱どころではなくなる。和解が――求められる。王あればこその、和解がな――」
壁に並び灯された燭台で蝋がはぜる。その微かな音が耳に響く。つと、ウォリファは男の金褐色の髪に視線を向けた。その髪が背後の灯火の光を吸って明るく輝く。
こ奴の髪は、これほどに輝かしかったか――雄偉な五体は椅子に掛けていながらウォリファを威圧したが、今、身分を越えた畏怖に、微かに身を震わせた。
言うべきことは言い切ったか、アルウェルは言葉を継ごうとはしなかった。菫色の双眸を翳らせ、無表情に沈黙する。
静寂の中にどれほどの時を対峙していたか、逡巡を払うようにウォリファは立ち上がった。
「いずれにせよ――兄上には、お許しいただけそうにないな。それでも、お前は手を貸すか――」
その言葉に、初めてアルウェルは目元を緩めた。
「わたしも。あの御方を、王が殺すを座視する気はない。――だがな。全てはダルディ様の首尾如何よ」
そのダルディは、
噛むような足取りで自室に向かっていたが、その通廊の半ばで追い付いたゲルクに腕をとられ止められた。
「母上様に――お会いなされぬのか――」
ダルディは体を返し、見上げてくる褐色の双眸を見詰めた。
「今宵は疲れた。お許しいただきたいと、伝えてくれ」
「何故――放っておかれぬ――」
ゲルクの声が軋る。
「ウォリファ様の申されることなど、気になされることはない。なるに任せるがよいのだ。それで、万一の時は――あなたが――」
目を怒らせるゲルクに、ダルディはどこか哀しげに見える笑みを含んだ。
「わかった。お前の言い分はわかったゆえ、手を離してくれぬか――ゲルク」
「いや。あなたは、何も分かってはおられぬ」
言いつつ、腕を取った手にさらに力をこめる。
「もしあの御方が刑されることとなっても、それは神の仕置きというもの。何事によらず、我らにも知らせず独断でなされておいでだった。全て、あの御方お一人でなされたことと、あなたがなさらぬなら、わたしが――王に拝謁し申し述べます。あなたは、気になされず当主となられるのだ。それこそが、あるべき姿だ。そうなるべく、わたしは、あなたをお育てしたのだ」