双影記 /第6章 -3



「ゲルク――」
 笑みを消したダルディの眉が沈痛に寄せられる。
「お母上も――それを望んでおられる。明日――オーコールに行かれてはなりませぬ」
「それは――できぬ」
「なさらねば――ならぬ」
「離してくれ――」
「いや――ご承知くださるまでは、お離しできぬ」
「夜通し、こうしているつもりか――」
「では――どうあっても――」
「王は誤解しておられる。わたしは、それを知っている――」
「――そうかもしれぬ。だが。あなたが、知らぬことも――ある」
「それは――そうだろう。何によらず、全てを知るなど、人の技ではない」
「そのようなことを――言ってはおらぬ。あなたは――あなたこそが、当主たるべき御方だったと――わたしは――」
「ゲルク。お前の気持ちは有難いが――母上の望みもわからぬではないが、わたしはこれで、よかったと思っている。兄上ほどの御方をおいて――どうして、この身が当主たれようか――」
「違う――」
「違う?」
「確かに。あの御方は、優れた御方だ。だが――」
「だが?」
「だが――あの御方に、その資格はない!」
「ゲルク!」
 初めて。押し殺した叱声を上げるダルディに、ゲルクは尚も押しかぶせる。
「あの御方は、カラフ様の胤ではない!」
「やめよ! ゲルク。――あのお姿だ。誤解するものもいよう。だが――お前までが、つまらぬ憶測に、惑わされてはならぬ」
 その声に、突放すような響きを聞く、ゲルクの顔がもどかしげに歪む。
「あなたがお生れになったとき、カラフ様は言われた。ラデールの世子として育てよと。そしてこの身に托されたのだ。既に、あの御方というものが在りながらだ。何故と――思われる」
「生後すぐに大病を患われた。それ以後ずっと病弱であられたのだ。育たぬものと思われていたのであろう――丈夫に、なられはしたが、髪の色、目の色は戻られなかった。それを――つまらぬことを。二度とは、口にするな。お前でも許せぬぞ」
「わたしは――医師に、確かめたのです。いったい、どのような病が、黒髪黒瞳のものをあのように変え得るか――あれは。生れつきのものだ!」
 吐き捨てるように言い切った。
 そのまま重苦しく押し黙ったゲルクが意地強い視線を据えてくる。
 ダルディは息を詰め、表情の失せた顔で見返した。どれほどの時を――そうして凝固していたか。
 やがて大きく息をつき、肩を落とした。
「だが――世子と認め、当主と定められたは父上、御自身だ。お前は――それに、異を唱えようというか――」
 静かな、声だった。それ故こそか、その言葉に、初めてゲルクの視線が揺いだ。その、頑なな顔が、僅かにたじろぐ。
 ダルディは腕をつかんだゲルクの手のうえに己が手を重ねた。
「行かせてくれ――ゲルク」
 穏やかな漆黒の双眸を見上げる、ゲルクの手から、力が抜けた。その腕が離れる。
 ゆっくりと身を引いたダルディは、喪然と立つ、忠臣に背を向けた。
 自室に戻ったダルディは、剣も外さぬまま、寝台の上に体を投げ出す。
 仰向いた顔を、両腕で被う。
「‥‥兄上‥‥何ということだ‥‥」
 今、まざまざと思い起す。
 エディックに、互いの仲はルデスの知るところと、聞かされた、夜を――
 聞きたい‥‥聞き質したい‥‥
 真は何を、思っておいでなのだ‥‥
 真に、兄上の思いは‥‥義姉上のうえにはなかったのか‥‥
 それを思う、ダルディの脳裏に灰色の影が揺曳する。
 初めに、求めたのはいずれなのか‥‥
 ロセムからの帰途、まさかと打ち消した疑念は再び頭をもたげていた。あれほどに買っていたあの者の求めであれば、兄上は拒めなかったのではないか――
 ただ、あの者を――その忠誠を、己れに引き繋ぐために、兄上は――己れを、あの者に与えたのではないか、と。
 当時未だしといえラデールの当主たるべき身が、己が実子を断念してまであのような者の意を止める――
 ありうべきことか――と反問する思いの底で、疑念は、半ば確信に変っていた。そして、
 それ程までにしてニルデアに尽す兄上が、何故、スオミルドに通じねばならぬ――
 怒りは鈍く執拗に胸を噛む。
 陛下は――いったい、どうされてしまったのか――と。

 同じ夜――
 深更に近く、ドワルの一行は王都オーコールに帰着した。





 出迎えた侍臣の導きで広間に通されたドワル等が待つ間もなく、既に寝室に引き上げていた王が現れた。ルデスが、ドワルが跪く前に、夜着の上を長上着で被い、手に剣をさげた王が座につく。
 疲労に青褪めたルデスよりさらに白く、血の気を失った顔に切れ上がった眦が赤い、王は無言だった。無言で、ただ眼前のルデスだけを凝視する。重い、沈黙が広間を被っていた。侍臣、衛士、ドワル、そしてルデス、身じろぎすらしない、それら全ての視線が王の上に集まっていた。
 否、ルデスは、その視線だけはアルデを通り過ぎてその背後に向けられていたが、
 王は――アルデは、意識すらしなかった。
 その意識にあるのは、ただルデス、その削げたった頬、何も語らない、鈍く灯火の光を弾き、アルデの思いを弾き返す、淡い金の双眸――だった。
 己れに向けられながら、その何をも見ていないであろう淡い双眸に意識を灼かれ、目眩くままに、アルデは気が付けばルデスの前に立っていた。
 わたしは――縋りつきたいのか――
 責め苛みたいのか――それすらもわからぬままに、ただ瘧のように体を震わせる。
 手の中の剣が熱く脈打つ。この剣で‥‥
 思う様、打ち据えてやりたい‥‥
 惑乱する、アルデの意識を衝いて、その時声が走った。
「陛下――」
 エイゼルだった。
 この頃、もはやアルデはエイゼル以外のものを近侍させようとはしなくなっていた。
 この夜も影のように寝室から付き従ってきたエイゼルだったが、ただならぬ王の様子に思わず声を発していた。
 その声に、アルデは我に返る。我知らず上げた剣の先がルデスの肩の上で震える。そのアルデに臣下の視線が重くからみつく。背を、冷たい汗が伝った。喘ぎがせぐり上げる。それを喉奥に噛み殺し、目の前に、無言で跪く姿を見下ろした。
 わずかに目を伏せた、ルデスはアルデを見上げようともしなかった。
 それだけのことに、胸を灼かれる。アルデは、剣先をその顎の下に差し入れ、ルデスを仰向かせた。
 淡い双眸は冷然と静もる。
 何の思いも伝えてはこないその双眸に焦れる、アルデは再び目眩くうねりに押し流されかけて、辛うじて踏み止まった。
 ここでは‥‥だめだ‥‥
 振り払うように剣先を外し、踵を返す。
「こ奴を――塔に――」
 ドワルに対する労いもそこそこに、寝室に戻ったアルデのもとに塔の鍵が届けられたのはそれからじきのことだった。
 だが、我を失うほどに焦れながら、アルデが塔にルデスを訪ったのは、その夜より、三日の後のことだった。
 その間、ラデール侯のことは置き忘れたように日々の日課に勤しむ王に、周囲は不安と不審をつのらせていった。だが誰もが、その名をいい、その処遇を問うことにためらいを覚える何かが、王にはあった。
 人前に平静を装う、アルデは密かに身を震わせる。
 今、会えば‥‥わたしはルデスを、どうするか‥‥わからぬ‥‥
 その思いに。
 殺して‥‥しまうかもしれぬ‥‥
 その、恐れに。
 無理強いにハソルシャより連れ戻させたルデスが、己れを許し、己が意に沿うとは、思えなかった。
 そのルデスを前にした時、わたしはどうするだろう‥‥
 一度は、苛み殺したいとまで思ったルデスだった。幾度も。幾度も、その胸のうちに苛み殺してきたルデスだった。だが、再びその姿を前にしたとき、アルデは惑乱した。目眩く意識の底に滾る、己が渇望に。
 そして今、アルデは怯え、身震わす。ルデスの出ようひとつでどう転ぶかわからぬ己れに。己が手の内にある王としての力。その力がもたらすかもしれぬ破局に。
 わたしを‥‥
 絶望‥‥させないでくれ。ルデス‥‥
 それは、なんとささやかな、だが、望み薄い願いであったろう。己れに怯え、ルデスの頑なさを恐れ、塔を訪うを逡巡する、だがそれもいつまで続くものか。早晩、耐え切れなくなることはわかっていた。
 ‥‥会いたい‥‥
 会って、その腕に抱かれたい――渇望に、夜々、寝台に身を悶えさせる、三日目、
 ダルディ・ラデールが拝謁を願い出た。





 居並ぶ者等のなかに剣さえ帯びず跪くその姿を見たとき、頭を立て真直ぐに見上げてくるその黒瞳に視線をとられたとき、アルデの血が凍った。
 それまで強いて意識の内から遠ざけていた姿が立ち帰り、アルデを打ち据えた。
 ソルス‥‥
 両者が、その面差しが、決して似ていたわけではない。だが互いに同じ血を分けた兄弟――弟でありながら、その双眸にこもる思いは、
 このものは‥‥
 己れを捨てて兄を救おうとしている、それにひきかえ、己れは何をした。
 己れは‥‥
 ルデスを得るために、その情人を操り刺客として送り込んだのだ。
 あの者は、どうしたのだ‥‥
 何故‥‥戻ってこない‥‥
 ソルス‥‥お前は、殺されてしまったのか‥‥
「陛下――」
 その時、アルデの思いを断ち切って声が発せられた。王の下問もないままに口を切ったダルディにざわめきが走る。アルデは片手でそれを制し、夢から呼び醒まされた者のように、己が前に跪く男の顔を見る。どこかルデスに似た、黒髪黒瞳の王統の徴を具えた顔を。
「ダルディ・ラデール、ルデスの継嗣たるお前が、何故の拝謁だ」
「いかなる証を以て、当主を捕えられたか、お聞かせ頂きたい。我らには覚えなきこと。その忠誠は――陛下も、よくお知りになっておいででは、なかったか――」
 静かな決意を響かせるその言葉に、ルデスのような鋭さは感じられなかった。だが、ルデスにはない、被いようもなくにじみ出る誠実さがあった。
 この身との‥‥何という違いか‥‥
 アルデは、不意に、痛みに似た悲しみに襲われる。それでも、その語調は冷たく乾いていた。
「証は――ない。あれば、既に処刑を待つ身となっている。罪の証はないが――罪なき証も、また――ない。疑念は去らぬ。その疑念、ルデスの口から晴らされることを――願っている」
 ダルディは微かに笑った。
「では――罪なき証、差し出せばお受け頂けるか。当主を、お返し頂けるか――」
 アルデは目を細め、しばし押し黙る。
 やがて、
「そのようなものが――あるのであれば。真に、証というに、足るものであれば――否やが、あろうか」
 ダルディはその声に微かな動揺を聞く。眉が、訝しげにひそめられる。だが、そのことに思い巡らす暇はなかった。
「その証――どこにあるのか――」
 鋭さを加えた王の声が促す。ダルディの表情が改まる。
「ここに――」
 決然と応える、黒瞳を。アルデは一瞬、気を呑まれたように見詰めた。
「ここ‥‥だと‥‥」
「この身を――当主の罪なき証として、どうか、お受け頂きたい」
 時が。止まったか――
 居並ぶものたちの間に、微かな騒めきさえ絶えていた。
 ああ‥‥
 と、アルデは胸のうちに呟く。
 予想はしていた。その、予想通りのなりゆきに、何の、衝撃を受けるのか。
 だが、
 このものは‥‥何と、真直ぐにこの身を見る‥‥
 そのことに、不意に泣きだしたい思いに駆られ、アルデは立ち上がった。
「その者――城に留め置くように――」
 軋るように言い、踵を返す、背を、
「では――」
 微かな期待と不安を綯い交ぜた声が追う。
「いや――確かに、証たるに足ると――知れるまでは、ルデスは返せぬ」
 見返りもせぬまま、冷然と言い捨てる王に、ダルディの顔が凍る。アルデは、駆け逃れようとする脚を懸命に押え、広間を出た。影が添うようにエイゼルが続く。次第に早まる脚で小暗い回廊を抜け、主塔の基部に至ったとき、ようやくに立ち止まった。
「お前は――ここで待て」
 眼前に、背後の塔に続く小さな扉がある。アルデは、この三日間、肌身離さず携えていた鍵を取り出し、その扉を開けた。





 塔――
 城の主塔の北に並び立つ小振りの塔を、ただ、そう呼び慣わす。王に背く貴人を捕え置くに使われてきたその塔が、だが人を住まわせるのは――四十年前の、かのグレン・セディア以来のことだった。
 その再来かと、密かにささやかれるラデール侯ルデスがそこに捕え込まれた――その噂は瞬く間に広がり、聞くものを震撼させた。
 だが――
 それがどのような波紋を呼ぶか――この時、アルデの念頭にはなかった。
 あるのはただ、彼我の間に横たわる越えようのない深淵――僅かに数歩を歩けばその体に手を掛けることができながら、アルデはただ扉を背に立ち竦む。五層にわたる階段を上り詰め、ようやくに今、ルデスを前にしながら、かける言葉を探しあぐねていた。
 ダルディが登城し手の内にあるを告げれば、あるいは、容易に己が意に従わせることができるかもしれなかった。その思いが皆無だったとは言えない。だが、それを阻むなにものかがアルデの内にあった。
 それこそが、自らは意識すらせぬ高潔さの発露だったが、アルデには思い及ばぬことであった。そのアルデに、
 ルデスは。裸足の足首に鎖を打たれ、粗末な寝台に端然と腰を掛け、冷ややかな視線を向ける。
 どれほどの時を、そうして無言の対峙を続けていたか、しだいに荒ぐ息に耐えかねたように、アルデは一歩を踏み出していた。
「立て。ルデス。立って、わたしを抱け――」
 意識もせぬままに口走る。
「お断わりする」
 ルデスの答えは言下だった。刹那、己が言葉が意識の上に落ちた。一気に全身の血が滾り上がる。
「――己れは! 望みのものを手にしたら、この身は用無しか! 不要のものは――顧みもせぬのか――」
 アルデの口から怒気が迸った。
「抱け!――」
 ルデスは、応えなかった。三日前、アルデに衝撃を与えたやつれ削げたった顔は心の見えぬ静けさの中にアルデを黙殺する。
 アルデはその顔を、己れに向けられながら内なる何かに心をとられた淡い双眸を、眩む視界に睨み据える。
 滾り上がった熱流が波が引くように足裏から吸われていった。
 シンと、頭の芯が凍りつく。
 やがて、
「お前が――この身を抱けぬというなら、わたしがお前を抱く――」
 低く押し殺した声がアルデの口に軋んだ。
「それも――お断わりする――」
 静かな声が、さらに拒絶する。
 ぐらりと、視界が揺ぐ。崩れ落ちそうになる己れに耐え、大股に歩み寄ったアルデはルデスの胸元に両手をのばした。力任せに引きはだけさせようと上着の合わせ目に指をかける。端然と脚のうえに置かれていたルデスの手が上がり、その手首をつかむ。アルデの眦が切れ上がった。眼下の双眸を睨みつける。淡い双眸は僅かに上げられた顔のなかで無機的なまでに冷ややかな視線を返した。
 このようにやつれた体のどこにそれだけの力があったのか。そのまま胸元を押し広げようとしてびくとも動かせぬ手に抗い、力をこめるアルデの肩が、腕が、よじれる。息が荒いだ。
 無言のせめぎあいはだが、長くは続かなかった。アルデにはわかっていた。
 これでは‥‥だめなのだ‥‥
 たとえその力が己れにあったとして、ルデスを、力で拉ぎたいわけではなかった。
 求めるものは、肉の充足ですらなかった。
 ただ‥‥あの温もりが‥‥欲しいだけなのだ‥‥
 それが、できぬというなら‥‥肌を重ね合わせるだけでよい‥‥
 それなのに‥‥それさえも、許さぬというのか‥‥
 張り詰めていた糸が切れるようにアルデの顔が歪む。
「ルデスッ‥‥」
 悲痛な呻きに声を絞った。





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