双影記 /第6章 -4



 左右の手首をとられたままその前に膝を落としたアルデは、ルデスの上に身を寄せようとした。だが、ルデスにとられた己が腕に邪魔をされて果せず、その腕の間に頭を垂れた。

「もう‥‥言わぬ‥‥阻まぬ‥‥お前がいつハソルシャに帰るも自由だ‥‥だから‥‥お願いだ‥‥」
 ルデスは凝然と見据える。目の前に震える肩を。肩から落ちて微かに揺れる髪を。胸元にかけられた指は力を失い、萎えた意志のままにルデスのなすに任せている。
 ルデスの眉がひそめられた。
 一瞬、その顔の上をかすめた苦しげな表情を、だがアルデが知ることはなかった。もし知れば何を思ったか。ただ不意にとらえられていた手首が放たれ、支えを失った体が前にのめる。次の瞬間、アルデはルデスの胸にもたれていた。信じられぬ思いでその胸にすがる、アルデは陶然と目を閉ざす。
「ル‥‥デス‥‥」
 怖ず怖ずとその体に腕を回した。
 だが、
「許されよ。もはや御身を抱くことはできぬ。それにより御身の思いが少しでも癒えるなら‥‥この身を、抱かれるがよい‥‥」
 感情を喪失した声をアルデの耳に落して、ルデスはゆっくりと上体を倒した。喪然と、アルデは顔を上げる。そこに、自らの手で胸元をくつろげ、目を閉ざしたルデスの姿があった。そのまま全身を凍りつかせ、高窓から差し込む明かりを弾いて白い胸を、喉を、眠るような面差しを、見つめた。
「何故‥‥」
 問う声はかすれ、震える。
「抱かれよ――」
 吐息するようにルデスが応えた。
「たった今‥‥お前は拒んだ。いつかも‥‥」
 不意に甦った記憶に、アルデは体を震わせた。それはアルデが城にきて一月目、ルデスがハソルシャに発つと告げた日――書庫の塔に、二度目にルデスを伴った日でもあった。この肌を――燃やしてみたいと口走り、その手に無残なまでに嬲り尽くされた――
 あれは――何だったのか。
 肌を燃やしたい――それは抱きたいという衝動に他ならなかった。
 己れですら思いもよらなかったその衝動に、だが、ルデスが見せた執拗な悪意――あれは、明らかな憎悪だったと。今、アルデは思う。
 己が憎悪を叩きつけるように、何かを、思い知らせるように、アルデを嬲り苛んだ、あの時のルデスは――どうかしていた。
 もしやして‥‥我を失っていたのか‥‥
 そう思わせるに足る、常のルデスからは考えつかぬ、それは狂態といえた。
 そして、そのようなルデスを招きよせたのが他ならぬ己れの、抱きたい――という衝動であったとしたら‥‥
 それ程に厭うことなのだ。ルデスにとって抱かれると、いうことは‥‥
 だが――と、アルデはふと己れを顧みて思う。この身を抱くのがルデス以外の者であったら――
 途端だった。全身が総毛立ち背に戦慄が走り抜ける、アルデは今更ながらに思い知る。
 ルデスだからだ‥‥
 ルデスだからこそ‥‥嫌だとは思わないのだ‥‥
 ルデス‥‥だからこそ‥‥わたしは抱かれたい‥‥
 そのルデスは、だが、もう抱けぬというのだ。己が思いを果したからには、抱く気にもなれぬのだ。アルデはだが王であり、その怒りも不満も黙殺はできぬということか。なだめ、己が意に従わせる為には己れが抱かれようという。あれほどに厭いながら、それでも、この身を抱くよりはよいのだ。――だとしたら、この身はルデスにとって何だったのかと、思いつなぐアルデは、低く呻いた。
 それさえも、幾度思い知らされてきたことか――
 ただ、認めようとはしなかっただけだ。
 認めたくは、なかっただけだ。
 そして、
 嬲られても、苛まれても、その腕に抱かれたい。何度でも、何度でも、次こそは――
 次こそは――
 初めて、ルデスと繋がれた、あの夜のように抱いてくれるかもしれぬ――その思いに己れを欺き続けてきた――
 愚か者めと自らを罵る、アルデは眼前のルデスの姿を打ち消すように目を閉ざし、両腕の間に頭を落とした。
 無駄だった。
 白い影は、なおも冷然と脳裏に居座る。
 いっそ――こ奴の仕向けるままに、その体を抱き、嬲り、苛み尽くしてやろうか――
 その思いは、だが、速やかに萎え果て、索莫たる空虚をあとに残した。
 その空虚のなかに己れを浸すアルデのうちに時が失せた。
 己れが、何をしたいのか――アルデには思いつかなかった。ただ、今は抱けない。それだけが思いの内にあった。
 これ以上は――こ奴の思いのままに踊りたくない――
 もし抱けば己れがどのように変るのか――計り知れぬその不安を、だが――それさえもが、ルデスに読まれているのではないか――
 怖れに――思いは。凍る。
 どこまでいっても‥‥こ奴の影からは、逃れられぬのか‥‥
 アルデが塔に上がったのはまだ昼前だった。いつか陽も傾き、薄闇の澱りはじめた塔のなかに、どれほどの時を移ろわせたか。
「――あの、夜――」
 冷え冷えとした声で、アルデは呟き、ルデスの上にのりかかっていた己れの上体を立てた腕に押し離した。
「お前は言った。わたしの体は――お前をそそる――
――嘘だ。お前は――かつて、一度としてわたしにそそられたことなどない。――そうだな」
 アルデは立ち、ルデスを見下ろす。
「満足だったか――。お前に抱かれたい――それだけの思いで、己れの、意のままになる木偶を手に入れた――」
 暗い双眸は夜の湖面を思わせて静まる。ルデスは聞いているのか、眠るような面差しはそれさえも映そうとはしなかった。
「少しは――哀れと思ってくれたか――」
 何も応えようとはしないルデスに、だが、アルデは静かに続ける。
「お前には――これは、裏切りでさえないのだろうな。操るべく欺き、操ってきたに過ぎぬのだ。欺かれたわたしが愚かだっただけのことだ――」
 そして、着衣の隠しに収めてあった鍵束を取り出しルデスの胸の上に投げ落した。
「城から出ていけ。二度と、登城するには、及ばぬ。――いずれ。抱きたくなった時には呼ぶ。それまでは。――その姿、わたしの前に晒すな――」
 言い尽した、アルデは静かに踵を返し立ち去った。
 その気配が絶えて、ようやくに、ルデスは瞼を上げた。茫洋とした視線が宙に凝る。
「‥‥御身は気付いておいでか‥‥今の御身こそは‥‥まさしき、王だ。ようやくに‥‥王として、踏み出されたな‥‥」
 低く、呟かれた声は、その場にあったとしてアルデの耳には届かなかったであろう。だが、もし届いたとしていかなる慰めとなったか、それでも、口にせずにはおれぬ己れを嗤うかのように、刹那、ルデスの面を苦く自嘲が流れ落ちた。
 やがて。
 胸の上の鍵束を手に取ったルデスは、緩慢に体を起こし、足首の鎖を外す。
 妨げるもののないままに、塔を下り主塔の基層の広間に出たルデスを、その佩剣と上着、長靴を手にエイゼルが待ち受けていた。
 それ等のものを無言で身につけるルデスに思わず痛ましげな視線を投げたエイゼルは、失意の影さえ止めぬ常に変らぬ静かな相貌に恥じるように顔を伏せた。
 身形を整えたルデスを、エイゼルは西翼の一室に導いた。
「こちらに。ダルディ・ラデール様がおいでです。ともに、お帰りになられるよう、陛下の仰せです」
 驚かれるであろうか――つと身構えるエイゼルの前に、ルデスはただ静かにうなずき返した。無言で室内に消える背に、エイゼルは何かを言い忘れたような心許なさを覚える。しばし、その場に佇み閉ざされた扉を見つめていたが。やがて、王に復命すべく踵を返した。
 この時、ダルディは窓際の椅子に腰を下ろし沈痛な視線を空に向けていた。
 拝謁ののち、この客間に軟禁され既に一日が暮れようとしている。為すすべもなく時を移しながら、思いだけが空転していた。
 陛下は、兄上をどうなさるおつもりか――不安は打ち消しようもなく、重く、胸に凝る。それは、王ゆえの不安だった。
 噂に、変られた、とは聞いていた。だが、これほどとは――胸底の冷えるような驚きのなかに拝謁を終えたダルディだった。
 リクセルにあってこそ重きを置かれてはいたが、本来、庶子であるダルディが親しく王に接する機会はなきに等しい。そのダルディが王を知るのは、子のないルデスが継嗣と定め、求めて機会を与えてきたからだった。だが、その数少ない機会の中で知った王であれば、今覚えている不安は起きなかったのではないか――
 いや、それ以前に、このような疑いを得ることすらなかったであろう――と。
 何故あのように変られたか――思い沈むダルディの耳に、その時、扉の開閉する音がかすめた。床を踏む気配に顔を向ける。次の瞬間、弾かれたように立ち上がっていた。
「兄上‥‥」
 静かに歩み寄ったルデスはその腕のなかに絶句するダルディを抱きしめる。
「案じさせたな。だが疑いは解けた。公邸に戻るぞ――」
「兄上――」
 その声に、背に回された腕の伝える温もりに、潮のように満ちる安堵の中に、ダルディは兄の体を抱き返していた。





 ルデス等が帰邸したのは、その日もまだ暮れ落ちぬうちだった。

 この宵――
 ラデール家公邸は、一脚先に駆け戻った従者の知らせで浮き立つような騒めきに包まれた。
 一月近い不在ののちの帰還であった。ハソルシャで病を得た当主が王都にとらえられた、その後の帰還でもあった。
 だがこれほどに――迎え出たものたちは、そのやつれたった面差しに、だれもが一様に衝撃を受けた。それ故に、どこか沈痛な陰をたたえ、押し黙るダルディに不審を抱くものもなかったのだが。
 それ等のものの衝撃をやわらげるように、ルデスはやわらかな微笑を刷いた。
「見る程のことはないのだ――」
 玄関の間から続く広間だった。ダルディを先頭に数人の主立った家臣、従者等がそこにつき従っていた。
 このような所は、変っておられぬ――
 ようやくの安堵に表情を緩める者等の前に、続ける。
「すまぬな。皆を案じさせる。ただ、今しばらくは、一人になって休みたい。ハソルシャに戻るわけにもいかぬ。森の館に移る。ダルディにはその間ここで、この身に代わり、務めてもらう。明日、リクセルに使いを出しその旨、知らせるが、皆もそのつもりでいてくれ」
 その言葉に、少なからぬ驚きが走る。
「兄上――」
 顔色さえ変えたダルディが咎めるように声を上げた。カラフの代から公邸の全てを宰領していた家宰のオドー・マグデルが厳つい顔を曇らせる。
「それ程にお悪いのか。とあれば森の館では手も行き届きませぬな。このままこちらでお休みになるわけにはいきませぬか――」
「困らせるな。オドー」
 ルデスが苦笑を含む。
「体はもうよいのだ。手は要らぬ。ただ――人の気配が――疲れるのだ。頼む」
 王都の西に小高い丘をかこいこんだ広大なラデール家公邸。その邸館の北、より丘の頂きに近い野生の森を残した一画に、僅か数室の小館を建てたのは先代ラデール侯カラフだった。公邸に正室ベルファ、リクセルに二人の側室を置くカラフは後年に近く、今一人の妾を持った。その妾の為の館であった。
 ルデスが世に出た頃から健康を害し始めたカラフは五十を前にして当主としての実権を全てルデスに委ね、この小館に療養と称して引きこもった。身の回りを世話する娘ほどの歳の侍女に手をつけてじきのことであった。そして、その小館を離れることなく世を去った。侍女から妾となった娘はカラフの死後、望むままにその郷里に荘園を与えられて帰され、以来、小館は住むもののないままに放置されてきた。
 そこに、今また療養と称してルデスが住もうという、少なからぬ不安を感じるも、止むなきといえた。
 だが、頼むといいながら鋭さを加えた淡い双眸を前に何かを言い得るものはいなかった。今は、もうよい――と促すルデスに従い、オドー等が広間から下がっていった。
 一人、ダルディだけが凝然と佇む。
 思いつめた黒瞳の前に、だがルデスは何かを気取った気配も見せず背を向けた。
「わたしは休む。お前も休め」
 そのまま、奥に向かうルデスの背を、ダルディは追う。そのダルディが口を開いたのは、ルデスが居間の扉の前に立ったときだった。
「兄上は――知っておられた――」
 その言葉に、扉を開け中に入りかけた、ルデスの脚が止まった。
「何故です――すべて、知りながら何故、このように――」
「何のことだ」
 向き直る、ルデスの前に、決意に張りつめ、青褪めた顔がある。
「おわかりのはずだ。義姉上から――お聞きした――」
 低く押し殺された声だった。
 時が、止まった。
 ルデスは凍りついたように、沈痛な光を宿した黒瞳を凝視する。
 だが。無言の対峙は長くは続かなかった。視線を逸らしたのはルデスだった。不意に踵を反し室内に去る。ダルディの前に開け放たれたままの扉があった。室内の対面、窓に向かって立つ後姿は、拒んでいるのか、待ち受けているのか――
 逡巡はなかった。あるのはただ愛惜だった。口にしてしまった以上、これまでのようには対せない――思いを、振り切るように室内に入り後ろ手に扉を閉ざす、ダルディは無言で歩み寄った。数歩の所に近づいても見返らぬ背に、じっと待ち続ける。
 そのダルディに、声は、唐突だった。
「許してくれ。お前を――苦しめたくはなかった。エディックにも――すまぬことをしたと、思っている――」
 ダルディの双眸、その眦が切れ上がる。
「何故――兄上が、謝る? 謝罪せねばならぬは、わたしではないか――」
「そうではない」
 丈高い後姿を浮き上がらせて、窓の中にいつか闇が下りていた。その闇に、何を見るのか、
「ラデールの世子とスウォードンの息女。その婚姻を定めたのはリスア皇太后だった。わたしが――おとなしくハソルシャに暮らしていれば、エディックはお前のものだった」
「馬鹿な――世子たる兄上を差し置いて、何故わたしが――」
「父上は――そうは思っておられなかった。わたしは――父上の胤ではない――
――だが‥‥母上は‥‥。わたしは‥‥母上の言葉を‥‥証さねばならなかった。‥‥わたしは‥‥父上の子だと‥‥認めさせねばならなかった‥‥」
 低く、かすれた、声は、かろうじて聞き取れるほどのものだった。ダルディは息を殺して聞き入る。
「だが‥‥世子であれば、妻を迎え、世継を儲けねばならぬ。‥‥しかし‥‥もし、エディックにわたしのような子が生まれたら‥‥。‥‥恐ろしかった‥‥。‥‥とても‥‥耐えられぬと‥‥思った‥‥。お前が‥‥婚姻の席で、エディックに心を寄せたことは‥‥明らかだった。エディックはあのような性格のものだ‥‥」
 ――やがて、
 微かに吐息したルデスは、静かに向き直った。
「罪は――わたしにこそ、ある。どのように責められても――言訳は、できぬ――」
 灯火の光を受けて淡く輝く双眸を、感情を削ぎ落した白晢の顔を。凍りついたように凝視するのは、今は、ダルディだった。
 ‥‥では‥‥わたしは、兄上の手で、踊らされていたに過ぎぬのか‥‥
 その思いが、鈍く胸を噛む。だが、
 怒りは、恨みさえが、湧き起ころうとはしなかった。ただ、胸が、痛かった。
「兄上は‥‥馬鹿だ‥‥」
 長い、沈黙を置いて、
 吐息するようにダルディは呟いた。
「そうよな――」
 ルデスは、静かに同意した。その、あまりの、静かさゆえだったか。
「おやめ頂きたい――」
 不意にうねり上がったやりきれぬ思いに、我を忘れ叫んでいた。
「兄上は――何故そのように、自らを追い詰める――兄上は、それでよいかも知れぬ。だが、義姉上は――」
 声を呑む、ダルディの顔が歪む。ルデスの眉がひそめられる。その視線を拒むようにダルディは顔を伏せ両拳を目に当てた。
「わたしではだめなのだ。わたしでは――義姉上を満たすことはできぬ。義姉上は――兄上を愛している――」
 細く、むせび泣くような声が絶える。
 ルデスは無言だった。
 逞しい、ダルディの肩が、ゆっくりと、強ばりを解いていく。
 やがて。顔を上げたとき、激情は押え込まれその双眸に僅かに余燼を残すだけだった。その黒瞳の前に、ルデスは身じろぎすらしない。それは、どこか、断罪を待つ姿を思わせた。その、内なる思いの何をも伝えぬ、淡い、金の双眸に向かって、
「兄上の――望みには、そえぬ――」
 ダルディは、静かに言い切った。
 ルデスの視線は揺がなかった。
「錯覚だ。男しか愛せぬものを。どうして愛せる――」
 微かに諦観を滲ませた声は静かだった。
「では――兄上は、真にあの者たちを愛したと――言われるか――」
 むしろ哀しげに、ダルディは問う。
「愚かなことを――聞くな」
 感情を喪失したような声に、再び、ダルディの内に熱い潮がうねり上がった。
「エリの名を持つ男――兄上は諜者たるあの者を手放したくなかった。そして、リファン。何故お聞きにならぬ。未だ、兄上の前に姿を現さぬ――不思議とは、思われなかったか。失念されていたのでは、ないか――」
 重い、問いだった。ルデスの双眸が、初めて、微かに揺ぐ。
「兄上は――愛するものを、失念できるのか――」
 己が動揺を打ち消すように、ルデスはゆっくりと瞼を閉ざし、開いた。
「リファンに――何があった――」





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