双影記 /第6章 -5



 一瞬にして、見事なまでに静もった双眸を、不意の徒労感に耐えながらダルディは見つめた。
「陛下にも――失念されておいでだったか。ハソルシャから戻った夜、登城し、以来留め置かれたままに――。明日にでも陛下に――」
「――それは。できぬ」
「兄上――」
「わたしは――登城を差し止められた」
「兄上!」
 ダルディの体が揺いだ。
「何故――」
「スオミルドのことでは――やりすぎたらしい。お怒りをかった――」
 端然と佇むルデスの姿に、ダルディは絶句した。何を、どのように――やりすぎたというのか。それは真にスオミルドのことであるのか――いったい何が、陛下との間にあったという――疑念はとめどなく湧き起こる。だが。ダルディには問うことができなかった。もはや兄上の心は閉ざされてしまっている――その、思いに。
 このような時、何を問うても真意を明かす兄上ではない――絶望に似た思いに表情を凍らせるダルディに、つと、ルデスが前に出た。
 次の瞬間、ダルディはその腕の中にいた。
「リファンは――いずれ返されよう。案ずるには及ばぬ。だが――頼む。これ以上、わたしを責めないでくれ。許してくれ――」
 低くかすれた声が抱きすくめられた耳元に静かな韻律を刻んでいた。苦しげに、縋るように、それはダルディの胸に響いた。
 初めてでは、ないのか――この兄上が、このような声を出される――その驚きに、声もなく立ち尽くす。
 それを拒絶と、とらえたか、
「‥‥せめて‥‥エディックを‥‥頼む‥‥」
 微かに震えを這わせる、力ない声だった。身を凍らせて立つ、ダルディにはだが頷くことは、できなかった。ただ、窓の闇に視線を凝らせる。そこに、ルデスの心を読み取ろうように。
 闇は、闇だった。
――兄上‥‥
 どのような顔をして、それを言われる‥‥
 だが、ルデスはもはや、何かを語ろうとはしなかった。背に回された腕が緩められる。一瞬、肩に重くおかれた手が離れ、顔を見せぬまますれ違う、静かな足音が背後を奥の間に立ち去った。
 ダルディはただ闇に見入る。漆黒の双眸を闇に染める、ダルディの肩が重かった。
 エディックを頼む――と、耳に響く声から逃れるように、ダルディは居間を後にした。





 厚い緞帳を隔ててかすかに響く音が、ダルディが立ち去ったことを告げる。その緞帳の前に、ルデスは部屋の奥の闇に視線を据えたまま身動ぎさえせずに立ち尽くしていた。
 闇のなかに、灯火の明かりを受けて鈍く浮かぶ寝台があった。燭台は部屋の入口に近く置かれている、その光の届かない寝台の向こうに。わだかまる影がある。
「邪魔者は去った。来ないのか――」
 揶揄るように影が問う。低く、のぶとい声は馴々しかった。
「ここへは。来るなと、言ったはずだ」
 冷ややかに、ルデスは応える。
「つれないことを言う。だが、来させたのはお前だ――」
 太々しくうそぶく影に、ルデスは無言で淡い双眸を向ける。
「なぜ王は、お前を捕えた? それとも、あれは、茶番か――」
 問いに、返る声はなかった。
 やがて、微かに吐息し、影が動いた。気配が立ち、くすんだ姿が灯りの中に現れる。
「あと三日――戻されなかったら、俺は城に行っていた――」
 背はルデスに比べてもさほど低くはない。くるくると跳ね返る灰褐色の髪を首の後で束ね背に垂らしている。痩せた男だった。
「何をしに――」
 ようやくに返る声に、力を得たようにまた一歩を、前に出る。それは。夜行性の大型獣を思わせる力をたわめた動きだった。
「責められているという噂があった。放っておけるか?――」
「噂に過ぎぬ」
 声は冷たい。
「――そうだな。――見たところ、無傷のようだ――」
「わかったら。去れ――」
 それ以上は取り合おうとせず寝台に向かう、ルデスが男の横を過ぎようとした、刹那、男の腕が伸びルデスの手首につかみかかった。
 しなやかにルデスの手がひるがえる。空をつかんだ男が息を呑む。その手首が逆につかみ上げられた。流れるような動きで男の背に回ったルデスに腕を捻られた男が仰け反った。
「同じ手は、二度と使うなと言ったはずだ。使えば、この指、切り落とすと――」
 己が背に捻り上げられた男の手の中指には一つの指輪がはめられていた。青黒い鉄製の蛇が五重に巻き付き、掌の側に鎌首をもたげている。裂き開かれた顎に、鋭い牙が濡れ濡れと光る。
「本気か?――」
 動きを封じられた男は自由な左手でルデスを捕えようとした。僅かに体をずらしその手をかわす、ルデスの手にいつ抜いたか、白く短剣の刃が光る。
「やめろ――」
 言いざま、男の脚が床を蹴った。
 背中をぶつけるように、ルデスの上に仰のけに倒れかかる。
 ルデスの方が迅かった。大きく後に跳び退きざま、つかんだ腕にさらに捻りを加えて引き倒した。
 もろに背中を床に打ち付けられた衝撃に、一瞬息をつめた男が引き伸ばされた腕の先に首をねじ向ける、視線の先に白光が走り落ちた。床に押さえ付けられた手に鈍い衝撃が加わる。男の顔が凍った。だが、
 痛みは――なかった。
 振り下ろされた短剣は巻き付いた蛇の胴に突き立ち、止まっていた。
「頑丈な指輪だ――」
 息を荒げることもなく、ルデスは立ち上がり短剣を収める。腕を解かれた男はごろりと腹這いになり、床の上から眺め上げた。
「去れ――」
 半面を灯火に照らされた静かな顔は、一瞥すらせずに背けられる。冷然と言い捨てたその声に、だが、男は測るように目を細めた。
 なぜ、止めた――ルデスの力であれば指輪ごと指を断ち切るのはたやすいはずだった。それを、あえて思い止まった。なぜだ――と、思い巡らすまでもなく、男の無表情な顔を太々しい笑いがかすめる。あらためて、己が優位を確信したものの、それは、笑いだった。
 この男に――俺を傷付けることはできぬ。
 スオミルドと、ことを構えようという今、ニルデアの命運の鍵ともなろう我らと、手切れとなるかも知れぬ危険を冒せるはずがない――この、俺を、拒み切れるはずは、ないのだ――と。
 寝台に向かう背に、一瞬、四這いに全身をたわめた男の体が弾ける。刹那、気配を感じたルデスの脚が止まる。だが――
 ルデスは、躱そうとはしなかった。
 数歩の所に寝台がある。二個の体はもつれるように宙に踊り、寝台の上に倒れ込んだ。
 折り重なった己れの下に無抵抗に押え込まれたルデスに、男は目を細める。やはり――強がって見せたにすぎなかったか――その思いに。こうも素直にその身を任せるなら、指輪など使うまでもなかったと。一気に己が内にうねり上がるものに押し流されるままに、男は組み敷いた項から乱れ落ちた白金の髪のなかに顔を埋めた。
「では‥‥いいんだな‥‥」
 しなやかな首筋に唇を這わせ、貪るように吸い舐った。胸元に差し込んだ手で冷たい肌を、その胸の隆起をまさぐる、男の息が期待に震える。
「よいとは‥‥いえぬ‥‥」
 なすがままにされながら、乾き、かすれた声で、力なくルデスは拒む。だが、その肌に触れ、確かな量感をその腕にとらえた今は滾り上がっていく己れを押し止める気は男にはなかった。
「では‥‥なぜ、躱さなかった。‥‥お前なら、躱せたはずだ‥‥」
 男は半ばうつつに応える。帯を引き外し、緩めた胴着の下に強引に押し込んだ手は求めるものを探り当て、嬲り始めていた。男の下で、ルデスの体が戦く。
「人が‥‥必ず死ぬように‥‥。国は‥‥必ず‥‥滅ぶ‥‥。死なぬものが、無いように‥‥滅びぬ国は‥‥ない‥‥」
 低く、かすれる声は微かな震えを帯び、不思議な韻律を奏で始める。その声に、得体の知れぬ戦慄に貫かれた男の全身がざわめく。男は、呻いた。
 たまらん‥‥何という声だ‥‥
 声に酔う、男の意識の上を言葉が滑り落ちていく。
「今、この時が、ニルデアの滅ぶときであって‥‥何が‥‥悪いのか‥‥。支配するものが‥‥変わるにすぎぬ‥‥。民も‥‥土地も、森も‥‥変わりは、しない‥‥」
 後抱きに抱きすくめたまま、愛撫の手を休めることなくルデスの体を跨ぎ膝をついた男は腰を浮かした。
「よくはないが‥‥。したければ‥‥好きにせよ。それでその命、取るとは、もう言わぬ‥‥」
 妨げるもののなくなった腰からルデスの、次いで己れの着衣を毟り下ろす。そして、露になったルデスの腰を荒々しく引き寄せ、固く漲った己れを擦り付けた。途端、ルデスの全身を戦慄が走り抜ける。それまで無抵抗に弛緩していた体が固く張りつめ、粟立った肌が冷たい汗に濡れていく。
「これが‥‥最後だ。思う様‥‥慰むがいい‥‥。エリ・フリギル・エリ‥‥森の王の名を持つ男‥‥そして、森に帰れ‥‥。もう‥‥意にそまぬことはせぬ‥‥策を弄し、人を操ることは‥‥せぬ‥‥。お前を‥‥使うことは、せぬ‥‥」
 深々と差し込み内股を割った手にその強ばった体を揉み解そうとしていた男の動きが止った。
「何‥‥だと‥‥」
「わたしは‥‥一介の武人だ。ただ、武人としてこの命、戦い終えたくなった。‥‥そういう、ことよ‥‥」
 男――エリ・フリギル・エリは、凝然として、押し黙った。
 何、だと――
 この男は、何を言っている――解りたくなかった。解ろうとも思わなかったが、言わんとすることは明らかだった。
 こうして俺に身を任せながら――そのくせ手切れだというのか――
 ――馬鹿な!
「‥‥それは。何の、戯れ言だ――」
 やがて。男の口に言葉が軋んだ。
「ハソルシャのこと大目に見たからと‥‥図に乗るなよ‥‥俺をオーコールに呼び寄せたのは己れ自身だ‥‥。これに見合う働きはしてきている。聞けばお前も納得するはずだ。それを――手切れだと? 戦い終えるだと? ‥‥強がるなよ――」
「‥‥強がる‥‥か‥‥」
「何を嗤う‥‥」
「エリ‥‥お前には、もう、わかっていよう‥‥」
 その言葉に、とらえ所のない灰色の双眸が滾った。
「俺から‥‥逃れようと、いうのか‥‥」
 男は自らが熱を孕ませたものを、再び手の内に嬲り始めていたが、その手に、不意に、荒々しく力を加えた。
 鋭く。ルデスの喉で息が擦れる。投げ出されていた四肢の筋が捩れ、硬直した。
 それでも抗う気配を見せない体を寝台との間に押し拉ぎ、男はその耳に口を寄せた。
「許さんぞ‥‥お前の体は俺のものだ。金輪際、手放す気はない――」
 言い終わるや、襟元に手をかけ肩先まで引き下ろした。鮮やかに白い肩が露になる。その肩に、男は貪るように食らいついた、刹那、低く、声が走る。
「やめよ。‥‥わたしに、お前を殺させるな‥‥」
 傷ひとつない白い肌に、思うさま歯を立てようとしたエリの体が凍った。
 抗い得ぬ意志を、孕んだ声だった。
 その意志に逆らって歯を立てれば――この男は本当に俺を殺そうとするだろう‥‥では、このまま引き下がるか‥‥結局は、この男の意志の前に屈するのか‥‥
 肩を銜えたまま折り重なった男は手負いの獣のように唸った。そして、悶えるように口の中の肉を貪り吸った。
 やがて。息が尽きる。ぐったりと、銜えた肩に頭を預ける。だがなおも両腕に抱える体をあらん限りの力をこめてきつく締め付けた。
「何故だ‥‥。王との間に、何があった‥‥。あれは‥‥茶番ではなかったのか‥‥」
 声に、太々しさは失せていた。
「いや‥‥」
 苦しいとも言わず、細く吐息したルデスは片手を上げ、男の髪のなかに差し入れゆったりと梳き解くように愛撫を加えた。
「それで‥‥このニルデアを、滅ぼそうというのか‥‥」
 その手元から紡ぎだされる、痺れるような快感の糸に絡め取られていく己れに抗って、エリは低く呻いた。
「‥‥滅ぶ‥‥わたしが何かを為さなかった、故に‥‥このニルデアが滅ぶか‥‥」
 ふたたび、その声に笑いを含む。
 不意に、男は腕を解き上体を起こした。優美な指に絡み、灰褐色の髪が肩から縺れ落ちる。愛撫するものを失って、力なく、その手が落ちた。
 エリは。立てた両腕の間に俯せたその姿を見下ろす。部屋の奥の闇に向け背けられた顔は乱れかかった艶やかな髪に隠れ、その心の内を見取ることはできなかった。露になった右肩には、エリによって押された刻印が赤く浮き出している。
 束の間の刻印に過ぎぬ‥‥それは、そっと指を這わせるエリに、雪に落ちた血の滴りを思わせた。その一瞬、全身を切り刻まれ朱に染まって伏す姿が脳裏をかすめる――刹那、中断された欲情が、ズキリと重熱く疼き上がった。
 抱き拉ぎたい‥‥
 思うさま抉り、苛み果てたい‥‥
 嬲り‥‥舐り‥‥貪り尽くしたい‥‥
 それでも、エリは再びその体に挑もうとはしなかった。その思いを必死で押え込み、掠れた声を絞る。
「では‥‥本気なのか‥‥」
「‥‥人は‥‥いずれ、死ぬ‥‥。この体が失せれば‥‥お前の迷いも、消えよう‥‥」
 本気――なのか――
 ゆっくりと、己が体を引き離したエリはルデスの肩をつかみ仰向かせた。顔に散りかかった髪をかき退け、真っ向から、その顔を覗き込む。削げたった顔のなかから、淡い双眸が虚ろに見上げていた。戦慄が背筋を貫く。
「‥‥許さんぞ‥‥」
 静かな声が、微かに軋む。ルデスは目を閉ざした。
「わたしは‥‥疲れたらしい‥‥。もう、よかろう‥‥」
 そこにあるのは、ルデスが初めて見せる傷み疲れた顔だった。凝然と、その顔を見据えていたエリの唇が、歪む。
「いや‥‥お前が、何を思おうと‥‥俺はこれで終らせる気はない。また、来るぞ‥‥」
 エリは体を起こした。影が流れるように寝台を下り、部屋の奥に、その闇の中に姿を消した。窓が開き、閉ざされる、微かな音をルデスは聞いたか。束の間、細い吐息を吹き流して、風が部屋の中を吹き過ぎていった。





 ヨレイルに、ヒタンと呼ばれる民がいる。金褐色の肌と髪を持ち自らを森の民と称するヒタンは、国を持たず、定まった住処さえ持たぬ流浪の民だった。小さな群れをなして森に棲み、人里に出ては芸を売り占いをして糧を稼ぐ。国境を越えて森から森へと流れ歩き、祭礼や市が立てば寄り集い、果てれば各地に散っていった。
 人は家さえ持たぬ、この漂泊の民に畏れの綯い交ぜられた蔑みの目を向ける。それを嘲りをもって見返す、ヒタンはまた、自らを、古の民の末裔と称した。
 古の民――
 かつて、ヨレイルはその全土を一つの王国によって支配されていたという。古き神を祀り繁栄を誇ったその王国。だがそれもやがて衰亡し、戦乱の世が訪れた。数多の国が興り、また滅びを繰り返す中で、いつか古き神は打ち捨てられ、それを祀った人々も流亡し時の底に埋もれ去った。その人々を、ヨレイルの住人は伝承の中に古の民と呼ぶ。
 その古の民こそが始祖である――と。ヒタンは激しい矜持をもって、自らに伝える。
 だが、打ち捨てられた古き神が森の古趾に朽ち果てて久しいように、古の民の記憶も、人の心に風化し果てた。ただヒタンだけが密かな誇りのもとにその結束を守り、森の中に草に埋もれた古趾をたどりヨレイル中を経巡り続ける。ヒタン以外のなにものも顧みることのない、そのような古趾の一つが、このオーコール郊外の森の中にもあった。いまは間近まで迫った木立の壁に囲まれた小さな空地。そこに半ば崩れ落ちた塔とそれを囲む列柱、胸壁の残骸が、生い茂った草薮のなかに深い陰を宿しうずくまっていた。
 だが。この古趾には、住むものがあった。やはりヒタンなのか、巡り来るヒタンに追われることもなく、崩れた塔の根方に、半ば草に埋もれ粗末な小屋が差し掛けられていた。小屋の正面には木の扉が立てられ内と外を仕切っている。
 この夜――
 小屋には訪う者があった。
 風に騒ぐ草叢に低く、馬のいななく声が聞こえてくる。やがて崩れた胸壁の後ろから一つの影が現れ小屋に向う。扉が開き、中からの光でほっそりとした姿が闇に浮かぶ。その髪が後光のように輝いた。
 十五、六だろう、波打つ金褐色の髪に縁取られた顔は幼さを止めながらも、くっきりとした目鼻立ちに意地の強さを表わしている。少年は素早く小屋のなかを一瞥した。中央の土間に切られた炉の前に一人、襤褸をまとい老婆のように蹲る姿に、微かな落胆を示し肩を落とした。
「ヨギ様――エリ様はまだ‥‥」
 言いよどむ少年に、ヨギと呼ばれた老婆――は顔を上げ、灰色の双眸を向けた。それは、少女のようにも、老婆のようにも見える、歳の知れぬ不思議な顔だった。そして、その顔のなかで、心を吸われるような不思議な輝きを宿すその双眸が少年を呪縛する。一瞬のことだった。すぐに目元を緩めた老婆――ヨギは微かな笑みを含み己が手元に視線を落す。そこに、炉にかけられた小鍋の中に何かが煮詰まっていた。
「そのように気になるなら、行ってみたらよかろう――エリは気にせぬよ」
 笑いを含んだヨギの言葉に、炉の前に腰を下ろした少年の金褐色の顔が赤らむ。
「でも‥‥」
 言いよどみながらも少年の視線は奥に向けられた。石を積み上げた壁にかけられた布幕が奥への入口を仕切っている。だが、その布幕の向こうからは何の気配も伝わっては来なかった。
「また、塔に上がっているのであろうよ。罰当たりな者どもよ――」
 ゆったりと鍋のものをかき回すヨギの手を見つめ返した少年は、不意に立ち上がった。
「俺‥‥寝ます‥‥」
 おかしそうな笑声を上げるヨギから逃れるように、少年は仕切りの布幕をめくり奥に滑り込んだ。
 寝間として使われているのであろう板敷の床には使い古された毛布がたたまれている。
塔の基部がそのまま壁となっている小部屋に人影はなく、その壁沿いの床に暗い穴が口を開けていた。常には隠されているらしいその穴のなかに、塔の結構の一部と思える古びた石段があった。それ故にこそ、ここに小屋が差し掛けられたのであろう、石段は深く地に潜り塔の中に続いていた。少年は休もうとはせず、暗い穴のなかに下りていった。





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