双影記 /第6章 -6
石段の底にわだかまる闇を抜け、うねるような光に満たされた広間に出る。
高い天井は半ば崩れ落ち、獣の頤を思わせる闇を裂いて、銀砂を撒いたような星空が頭上を被っている。その星辰を圧して、ようやく天頂にさしかかった月があった。
思わぬ明るさで照らし出された塔の中は荒れ果て、崩れ落ちた切り石の作り出す奇怪な闇がさらにその荒廃を際立たせていた。その広間の対面にはもうひとつの階段が塔の上部に向かって、螺旋状に内壁を這い上る。
その螺旋階段の上方をうかがうように見上げていた少年は、やがて、闇のなかに蹲った。
静かだった。
吹き抜ける風の音、森の梢のざわめきの中に、だが、森のものならぬ熱い息吹が交えられていた。それは上方、天井の亀裂の狭間から漏れ落ちてくる。
少年は全身を耳にして、それに聞き入る。
この日、兄リーギンとともに昼過ぎから城下に出ていたエリが戻ったのは陽も暮れてかなりたった頃だった。戻るなり、二人は奥に入ってしまった。二人の夜食を用意して待っていた少年、シグリーが落胆をかくして二頭の馬の世話をすませ、小屋に戻ったときもまだ二人は奥から戻ってはいなかった。
そして今、シグリーは闇のなかに耳をそばだてる。なされていることは何か、わからぬ歳ではなかった。だがそれが、なぜ――これほどに気にかかるのか――
――これほど、耐え難いのか‥‥
土地に定められた国をもたず、水泡のようにヨレイルの上を漂い流れるヒタンに、人は国があるとは思いもしない。だが。ヒタンは一つの王国の民であった。既に滅び、世にその形骸をさえ止めぬ王国ではあっても、ヒタンはその王国に住み、自らを統べるものをエリと呼び、民として絶対の忠誠を捧げていた。
古老は言う。エリとは古の王の呼称であったと。
しかしヒタンの王は民の前に姿を現すことはなかった。それでも、エリの名で発せられた命には、いかなるヒタンであろうと従わぬものはなかった。
その、忠誠は故ないことではない――と、ヒタンであれば誰もが言ったであろう。
人はヒタンを蔑みながらも畏れる。ヒタンに害を為したものは必ずや報復を受けるという。ヒタンとは、森の神に守られた、触れてはならぬ民であった。
だが、森の神とは何か。
一つの血族からなる群れは弱い存在であったが、数多あるその群れを守るものは確かにいた。エラン――と、ヒタンの民は密かに神なるものを呼んだ。だが、
エランとは――
ある歳に達し、長に選ばれた若者は群れを離れ、伝えられる聖地におもむく。
ヨレイルの地を覆う深く広大な森、その森の奥深く隠され、王族の巫女ヨギがいまなお古の神を祀るこの聖地で、ヒタンの民たる若者は日々鍛えられ、やがて、エリの名のもとに統べられる戦士として、送り出される。
生まれた群れに依らず、人の世に混じりながらエリの頤使に従い、同胞たるヒタンの群れを守る戦士、シグリーの兄リーギンもがそうである、神ならぬ、その呼び名こそがエランであった。
選ばれ、聖地に旅立った兄がいたと、幼い頃より、聞かされて成長したシグリーにとって、十近くも歳の離れた顔も覚えていないこの優れた長兄は、エリに勝る灼けるような憧憬の対象であった。だからこそ、己れも選ばれたい――と、願い続けてきたのだ。エランになって、兄に会いたい――と。
その、念願はかなった。三年前だった。
聖地にはしかし兄リーギンばかりかエリの姿さえなかった。やがて、シグリーは知る。聖地においてさえエリを知るものは数えるほどでしかないのだと。
古の神を祭る巫女たちに仕え、聖地を統べるのは十一人の長老だった。その長老によってエリの意思はエランたちに伝えられる。
そして、エリの意思のもとにヨレイルの地を経巡るエランにとって、聖地とは年に一度翼を休めに帰るねぐらとも言えた。
だが、数多いるエランが聖地に現れるとき、常に、他から離れ密かな畏敬をもって眺められる一団があった。それがエク・エランと呼ばれる、エリに親率されるものたちだった。
その中に、兄リーギンの姿があると知ったとき、シグリーは膨れあがる思いに息苦しさを覚えたほどだった。
ヒタンの総帥たるエリはエランにとって絶対の存在である。まだ群れの子の一人であった頃から、見も知らぬエリに、神に対するに等しい崇敬の念を寄せてきたシグリーだった。そのエリに、畏敬する兄が仕えている。誇らしかった。それにもまして、己れも認められたい――その思いに、シグリーは憑かれた。
直向な思いのままに励むシグリーが同じ年頃の少年のなかに頭角を現し、エクの雛として見いだされたのはそうして二年目を迎えたころであった。
二、三人で組をつくるエランと異なり、エク・エランは聖地を離れれば常に単独で行動する。それが破られるのは雛の導者となるときだけである。導者となることは、エク・エランとして完全に自立したことを認められた証とも言えた。たまたま、その時を迎えたリーギンがシグリーの導者と定められた。
ともかくも、兄と同様、恵まれた資質の少年であった。
エク・エランの見習いたる雛となったシグリーは、導者たる兄の教えを受けながら、ヨレイルを転々することになった。そして、
一年を経たころ――
シグリーは知ることになった。
エリといえども一人の男にすぎないことを。そのエリに、思いを寄せる兄の姿を。
シグリーはその時の衝撃を今でも忘れることはできない。
それは――
リーギンにとってもはじめての雛となったシグリーを伴い、ニルデアの地に至ったときであった。
リーギンはこれまでにも必ず月に一度、数日にわたってシグリーの前から姿を晦ました。何も知らされず一人おき捨てられ、はじめは不安のうちに兄が戻るのを待ったシグリーが、それを悟ったのは何度目のことか、
兄さんはエリ様にあいにいくのだ‥‥
雛であるシグリーがエリに会うことは許されない、だが、そうと悟ったときシグリーには己れを止めることはできなかった。
エリ様とはどのような方か―― 一目でよかった。陰ながらでも見たいと思った。
リーギンがシグリーの前から姿を晦ますとき、必ず一つの予兆があった。それはシグリーでなければ見落としたかもしれない、一瞬の表情だった。不意に時を失ったかのように凍りつく兄の顔にそれを見取ったとき、シグリーは兄の後を追っていた。だが、巧みに行方を晦ます兄の前に、シグリーがそれを果したのはようやく三度目において、ささやかな偶然に助けられた結果であった。
森の中に見失った兄を捜してさまよっていたシグリーは、風に乗って流れてくるかすかな声を聞いた。すがる思いで声をたどるシグリーの前に不意に森が途切れる。満月の夜であった。目の前に開ける小高い丘の上に、崩れ落ちた石組みがあった。その中央、一際大きな石壇のうえに、皎たる光を受けてからみあう人影に、シグリーの全身が凍った。
一糸もまとわぬ裸身を晒して女のように抱き拉がれた兄の姿に。その兄を悶え泣かせながら、つと己れに向けられた男の双眸に。
月光を吸って紫金に輝くその双眸に射竦められたシグリーは逃れ去ることさえできなかった。喪然と目を見開き、どれほどの時をそうして凝固していたのか、不意にリーギンの身体が男の腕の中でくずおれた。その身体を突きのけるように立ち上がった男も、また全裸であった。その手に鋭く白刃が煌めいたとき、シグリーの膝が崩れた。声もなく草のうえに腰を落とし近づく男を見上げるシグリーの耳に、その時、絶叫が響いた。
「お止めください――エリ――それはシグリーだ――わたしの、弟だ――」
無造作に振り上げられた剣が一瞬、止まる。ついで振り下ろされた剣尖が眼前を掠め、風が頬を薙ぐ。
「シグリーか。兄に感謝するんだな――」
かすかに笑いを含んだその声がゆっくりと意識に降り落ちる。離れていく男の背を呆然と見つめる、冷たい汗に濡れたシグリーの全身が瘧のように震えていた。
このことがあってから、だがエリはシグリーの前にしばしばその姿を見せるようになった。その度ごとに、シグリーなどないようにリーギンを犯すエリに、いたたまれぬ思いで逃げ出してきたシグリーはだが、やがて知らされた。たとえそうであってさえ、それは兄にとって喜びであるのだと。
そして今――
闇のなかに二人の姿を思い描く、シグリーは滾るような思いに胸を噛まれながらも、そこを立ち去ることができなかった。
その二人、エリとリーギンは――
階段を伝い壁を上ればかつては幾層にも積み上げられた室房があったのであろう、その最下の一つ、外壁と床の半ばだけを残す房のなかに、二個の裸体を絡み合わせていた。
皎と降り注ぐ月光の中に、しなやかに反りをうって若い体が揺れる。大きく股を開き跨がった腰の上で、自ら腰を使いながら金褐色の長髪を旗のように激しく打ち振っていた。
「あぁ‥‥ッ‥‥」
限りまで仰け反らせた喉の奥から声が迸しる。
「エリ‥‥エリッ―――!」
小刻みに腰を揺する若者は今昇りつめようとしていた。だが、
「黙‥‥れ――」
その体の下から不興げな声が返る。
上部を失い大きく傾いた内壁に背中をもたせかけ片膝立てたエリはその頂に頭をのせ、仰向いた顔に月光を受け、その双眸を月に染めていた。
月‥‥
俺の‥‥月‥‥
あの男は、決して、声を上げない‥‥
自らも荒い息を口元に漂わせながら、思いは冷たく冴えていく。
「いや‥‥だ‥‥」
その、エリの思いを聞き取ったように、声は憎しみにひずむ、
「俺は‥‥あなたの、月とは‥‥違う‥‥」
エリの思いに抗うようにことさらに、自らを悶えさせる若者の下で、その時、エリが息をつめた。若者の動きが止まる。すぐに、焦れたように腰を揺する。
「エリ‥‥」
促す声は悲鳴に近い。おざなりな手が若者を極みに追い上げる。やがて、啜り泣くように呻く、若者の上体がエリの胸の上に崩れた。
そのままエリの肩をつかみ、縋りつく若者の胸がゆっくりと上下する。
乱れた息は収まっていく。が、若者は離れようとはしなかった。
「どけ――」
声は静かだった。乾いて冷ややかな声に縋りつく思いを突放す。
「あなたは‥‥勝手だ‥‥」
弱々しく応える、若者はかえって腕に力をこめた。
「俺は‥‥たまったものを吐き出すための道具ではない‥‥」
「いまさらだな‥‥わかっているはずだ‥‥それを承知で、抱かれたはずだ‥‥」
「‥‥そうです‥‥俺が望んだことだ。あなたが他の奴を抱く‥‥たまらない‥‥そんなことはあの男一人で充分だ。だからこそ‥‥あなただって‥‥わかっているはずだ‥‥」
「いいかげんにしろ」
「なぜ‥‥あの男でなければ‥‥なりません‥‥やっていることは淫売と同じだ‥‥尻を使って、手に入れるものが金ではないだけだ。偉ぶった貴族が――嗤わせる――」
そこまでだった。その言葉を断ち切るようにエリは若者を荒々しく突き飛ばした。
「二度は許さんぞ」
仰け反って床に倒れこんだ若者には見向きもせずに、立ち上がったエリは脱ぎ捨ててあった衣類をつかみ裸のまま階段に向かう。
「あの男は知っているのですか。我らが――あなたが、奴の望みをかなえるために、命さえかけていることを――」
エリは応えなかった。無言で階段を下りていく、しなやかな裸身が闇に呑まれ、消えた。
喪然と、それを見送ったリーギンは床に腰を落したまま、シグリーによく似た顔を両手に埋めた。
「エ‥‥リ‥‥」
エリが下の広間に降り立ったとき、半身を月光に濡らしてシグリーが闇の中に立っていた。見開いた両目がぬれと光る。視線を合わせたエリは無言だった。歩調を緩めることもなくその傍らをすれ違い、小屋に去る。その気配を背後に聞きながらシグリーは凍りついたように、立ち続けた。
下穿を付けただけの半裸の姿で、エリが炉の傍らに腰を下ろしたとき、ヨギはまだ小鍋を火に掛けていた。
「それは、何だ――」
エリが聞く。気のない声だった。
「エリよ‥‥」
顔を上げたヨギの強い視線が絡みつく。同じ、灰色の双眸――それは、血の相似を思わせた。
「月は欠ける‥‥やがて‥‥闇に、呑まれよう‥‥」
「だが‥‥月は又、満ちる‥‥」
「真の‥‥月で、あればな‥‥」
見つめ合う、二つの顔に表情はなかった。思いの知れぬ視線を交わしながら、沈黙する。どちらも己れから視線を逸らそうとはしなかった。だが、沈黙を破ったのはエリだった。
「前から聞きたかったのだが‥‥ヨギよ‥‥何故このような処に棲み着いた‥‥」
その問に、ヨギは風が吹き抜けるように嗤った。
「わしは‥‥墓守よ‥‥」
「誰の――」
初めて、声に微かな驚きを滲ませるエリに、ヨギは視線を鍋に戻した。
「もうよいわな。これは、惚れ薬よ。市でよう売れる――」
言いながら腰を上げるヨギに、エリが疑わしげな目を向ける。
「利くのか――」
「わしの作ったものに、利くかとはな――」
「利くなら、のませたい奴がいる」
「こんなものが利くくらいなら――お前はとっくにリーギンのものよ」
「かなわんな‥‥」
心底おかしそうに笑うヨギに、エリの顔の上を苦笑がかすめる。一瞬だった。
「ヨギよ――」
鍋を壁の前の台の上に置き、奥に去ろうとするヨギに、
「俺は、見切られた。もう、使う気はない、森に帰れとな‥‥」
再び表情を消したエリが告げた。ヨギがゆっくり頭をめぐらす。
「‥‥だが‥‥引き下がる気は、ないか‥‥」
エリは無言で見返す。
「やめとけ、と言うて‥‥聞くお前では、ないわな‥‥」
ヨギは吐息した。
「死ぬるぞ‥‥」
灰色の双眸に光を凝らせて、エリは微かに頷いた。