双影記 /第7章 -1



 かつて――

「お前は、森よ‥‥森とは頭上をめぐる月を、ただ見上げるだけのもの‥‥決して、己が内にとらえ込むことはできぬ‥‥」
 ニルデアの王都オーコールの郊外、古の民が祀ったという古趾の廃墟に、久々にエリがその姿を見せたおりに、ヨギが告げた。
 十年前のことであった。
「月だと――何を、突然――」
 狼狽し口篭もるエリに、つと顔を背けたヨギが嗤った。
「ニルデアの月よ‥‥森は月に焦がれ‥‥月は、日に焦がれる‥‥だが、甲斐ないことよ‥‥哀れよな‥‥」
 嗤いながら、その声には深い寂寥が響いた。そのことに身を凍らせる、エリが呻いた。
「馬鹿な‥‥」

 一人廃屋に棲む老婆――を、ときに訪れるヒタンは深い畏敬もあらわにヨギ様と呼び、神に対するように接した。だが、ヨギとは名ではなかった。ヒタンの王統に連なる最高位の巫女の尊称がヨギであった。
 いま目の前に蹲る老婆と少女の顔を持つものの名をエリは知らない。かつては聖地にあり類無き星読みの巫女として、巫女たちの頂点に立ち一族の尊崇を一身に集めていたというヨギが、どのようないきさつでこのニルデアの辺地に住み着いたか、エリが物心ついたときにはすでにこの廃墟に埋もれていた。だが本人の意思とはかかわりなく、訪れるものが絶えることはなかった。聖地において他に星読みの巫女はなく、ヨギはなおヨギであった。
 十代の半ばでエリの称号を継いだエリがはじめてヨギにまみえたのも、その託宣を受けるためだった。
 聖地から十数日、知識として識るだけだった地上の王国を旅して訪れた若きエリの前に、かつては王の第一王女として深窓にかしずかれていたヨギが襤衣をまとい自ら夕のものを炊ぐ。
 戯言めいて語られる言葉が一国の命運を予告した。
 以来、聖地にはない自由を求め、エク・エランとともにヨレイルをめぐり歩くようになったエリが、年ごとに証されていく託宣の確かさにいつか戦慄さえ覚えるようになったヨギへの訪いに、足繁くニルデアの地を踏むようになって数年――
 その年の託宣のままに、ふたたび激化したアルザロとの抗争のなかに、月が――出現した。ルデス・ラデール、王統第八家の世子だった。
 かつてグレン・セディアによってニルデアの領有に帰したイルバシェルの地、その奪還を目して侵攻したアルザロ軍の前に敗色は濃かった。グレン・セディアによって築かれたオルガラの城がなければすでに敗退していたであろうニルデアが敗退をまぬがれ、国境を守り得たのは、一軍を率いたルデスが長駆してアルザロに侵入、アルザロ軍の後背を突き後方を撹乱、兵站を断ったためだった。
 それまではハソルシャの館に逼塞したように、世に姿を現わさなかったラデール家世子のあまりに華々しい登場に、ニルデアは震撼した。
 大功を立てた弱冠十八才の貴公子は戦場から凱旋する行軍のなかに白く異彩を放っていた。エリは群衆に紛れそれを見送った。
 ニルデアに月が昇る――ヨギの言葉のままに、その姿は皎たる光で、エリの脳底を――貫いた。

 そして三年――
 久々に顔を出したオーコールの廃墟で、全てを見透かしたようなヨギの言葉にエリは身を凍らせる。
 森に、月をとらえることはできぬ――ヨギの口から告げられればそれはすでに託宣だった。だがそれは、このときすでに傭兵として入り込んでいたリクセルでルデスのもとに仕え、ようやくその信任を得るまでになったエリにとって、決して肯うことのできぬ言葉でもあった。
 ヒタンの王たる歴代のエリは、そのほとんどが聖地に安座して、そこを離れようとはしなかった。だが、王とはいえ聖地を、そしてヒタンの民を直接その手に統べるわけではない。王と民の間にあってそれをなすのが十一人の長老と、エリの名において頤使されるエランの群れだった。しかし、それに飽き足らず自らエク・エランを頤使し、ヨレイルを巡るエリがなかったわけではない。が、いずれにせよ、
 エリなどは、名だけがあればよいのよ――
 何かの折りに、ヨギが言った。生身のエリを目のあたりにすれば、民の畏敬も潰えよう――と。
 確かに、この身などはその程度のものよ。民の前に姿を現わさぬことでその畏敬をつなぎとめ、古老どもが統べる基となしている。あの者等に必要なのは星を読み、導く標となすヨギだけよ――
 エリの言葉にヨギは嗤った。
 ヨギによって導かれエリによって統べられた王国の末裔たるものがな――
 ヨギなどいようが滅ぶものは滅ぶ――言葉の裏の深い諦観を聞く、エリが眉を上げる。
 それ故か。婆が聖地を捨てたのは――
 ヨギはただ片頬を薄く歪め、こたえようとはしなかった。ともかくも、
 その気になればエリに時はあった。それも潤沢といえるほどに。その時を費やして傭兵を装い、リクセルの城に入り込み、繰り返されるアルザロとの抗争の中で手足たるエク・エランを頤使して手に入れた情報をもちい、ルデスの関心を買い身近く接するまでになった、それを――
 いまさら、全てをなげうち、諦めねばならぬのか――
「婆が――色事の先まで読むとは、知らなかった――」
 行き場のない忿懣に声をひずませるエリに、
「なに、ほんの老婆心よ――」
 人を食った言いざまだった。
「では聞くが――いかなるものなら、とらえ得るという――」
「月を、とらえ得るは――泉よ」
「それは――神話だ――」
「そうよな――月神ルダの妻なるは泉の女神アルディタ――唯一、その静かなる水の表に変幻たる彼の姿を映しとらえることの、できる、ものよ――」
 しばし絶句したエリが、やがて苦しげに声を絞った。
「そのようなものが――すでに、いると――」
 再び、ヨギは思いの知れぬ視線を向ける。いまは嗤いさえ消したその顔がさらにエリを脅かした。だが――
「――ただの、神話よ――エリ――」
 ふと、吐息するように告げ、微笑んだ。
 エリ・フリギル・エリ――この時、まだに二十四であった。





 アルザロの王都をグーツという。ニルデアの王都オーコールから騎行七日、ニルデアの南東に国境を接する、その国土の大半を広大な沃野におおわれたアルザロはニルデアと拮抗する国力を持つ国だった。それが、イルバシェルの地を失うことでその拮抗は大きく崩れた。かつては両都のほぼ中央にあった国境はグーツに迫り二日の距離をおくだけとなった。
 それ故にか、イルバシェルの奪還はアルザロの悲願となった。だが皮肉なことに、繰り返される戦乱はさらなる疲弊をもたらし、思わぬ敵を呼び込むことになった。
 それがスオミルドだった。
 アルザロの北に国境を接する辺境の大国がその国境を越え、怒涛のように侵入してきたのはイルバシェルを失ってから十五年目のことであった。
 これによりアルザロは国土の三分の一を失い、スオミルドの属国として、かろうじてその命脈を保つに至る。そして、その時の戦いで王ばかりか四人いた王子の二人までも失い、末弟であったわずか十一才のゼオルドが傀儡の王として立てられたのである。
 大陸ルードの中央を占めるのは広大な草原地帯ワラシャだった。そこに住むのは剽悍な遊牧の民。国境を持たぬ数多の部族が盤踞し、互いに拮抗する力を競い合っていた。
 そのワラシャの西端、ヨレイルとの境をなして横たわるのが大山脈ハルツァだった。スオミルドとニルデアの国境ともなっている峻険なる山岳地帯はアルザロ北部で高度を下げやがてヨレイル南部を領して東西に横たわる大アピネーラ山脈に続いていく。アルザロはハルツァとアピネーラのはざまにあり、東西の接する要衝の地でもあった。ともかくも、この大山脈によって隔てられるのは、風土ばかりではない、そこに住む者等をもまた、異なる習俗へと形成し交わることもない時を経てきた。
 だが。西で古の王国が滅び数多の国が興亡を繰り返している間に、東でも周辺の弱小の部族を傘下に収めることでいくつかの有力な部族が台頭し、より熾烈な抗争のなかにのめり込もうとしていた。
 その一なるがスオミルドであった。ワラシャの西の領袖として覇を唱えるスオミルドは王をもたず、一つの血脈から別れた七つの氏族、七人の首長による合議制のなかで選出された盟主のもとに支配の翼を広げようとしていた。はるか、ヨレイルまでも。そして、その端緒となったのがアルザロ侵攻であった。
 だがヨレイルにとっては幸いにも、その覇権はまだに絶対のものとなってはいなかった。抜きんでて他を制圧しようとすれば必ずそれを牽制しようとするものが現われる。隣接する他の部族国家との間においてのみか、それはスオミルドの内部にも言えた。その脅威がアルザロ一国に止まった背後にはいまだ統一されきらぬスオミルドの支配権をめぐる七氏族の暗闘があった。
 傀儡の王となったゼオルドはその間隙に長じ、やがて、スオミルドの軛を脱する。失った国土の半ばまでを回復し、さらにイルバシェルをも奪回しようとするまでに国力を充溢せしめた、そのゼオルドのもとにあって、グーツは生新の気に満ちた都であった。

 その、王都グーツの場末にありふれた安宿の一つ、一階が居酒屋になった三階建ての二階、もっとも奥まった一室に所在無げに窓外に行き交う人群れを眺める、エリの姿があった。
 ルデスに仕えてすでに七年、今ではリクセルを離れ諸国を巡りながら、諜者としての働きを為しているエリだった。
 数年前、ヨギに己れの思いの虚しさを告げられたエリは一つの決意を胸にルデスのもとを訪った。
 暮れなずむ露地裏の雑踏に視線を遊ばせながら、エリの思いはそのことのうえに回帰する。
 その頃すでにラデール家世子としての地歩を固めたルデスはリクセルの実質の主として、その広大な城館を支配していた。
 初めてニルデアを勝利に導いて以来、年ごとに繰返されるアルザロとの戦いで卓越した戦功をあげるルデスへの信望は高く、ラデール家の白の公子はニルデアを勝利に導く戦神よ――とまで、世に唄われるようになって久しい。その陰で敵の動静を探って多大な働きを為した一群れの諜者の存在があった。その多くがハソルシャから仕えていたものたちだったなかで数少ない新参の一人、でありながら密かにエク・エランを頤使するエリの働きは際立ったものだった。
 それゆえに、いつ、いかなる時でも自由にルデスに拝謁できる特権を与えられたエリがその居室を訪ったのはすでに夜も更けてからだった。
 まだ二十一になったばかりの年若い主は一人、床にもつかず書斎にしつらえた一間で机上に広げた地図に見入っていた。訪ったエリに、詳細に記されたアルザロとの国境地帯から視線を上げる。
「戻ったか。待ちかねていた」
 何の不審も見せずに向ける双眸は光を孕み、エリを魅了した。わずかに頭を下げるエリにかすかな笑いを含む。
「何があった。アルザロのことではないらしいが」
「そう、向うでは御身の思惑どおり――このままことが運べば今年はゼオルドもニルデアどころではない」
「そうか」
 歩み寄ったエリは机の前に立つ。
「今日はいとまを告げにうかがった。その前に、渡したいものがある」
 地図の上に掌に収まるほどの青銅の円牌を置く。かすかに眉を寄せたルデスは、それでも円牌に手をのばした、刹那、エリの手が走りルデスの手をつかむ。その手をはねのけざま立ち上がったルデスは腰の短剣を逆手に切り上げる、その白光が大きく後ろに跳びしさったエリの残影を裂いた。
「己れは――」
 その言葉がわずかにもつれる。片手を机に支え凝固したようにエリを睨み据える、無言の対峙は、長くは続かなかった。刃のおよばぬ先に立つエリは思いの知れぬ視線を向ける、その右手の中指に青黒い蛇が巻きついていた。小さな鎌首をもたげた鉄の指環は針のような牙を血に濡らしている。ルデスの血だった。
「刺――客か‥‥」
 手から短剣が滑り落ちる。机に支えた右手の甲に小さな歯形が血を滴らせていた。小蛇に擬した指環に仕込まれた毒は速やかに体内を巡る。膝が崩れ、ルデスは机にもたれるように床にくずおれた。
 なおしばらくを立ち続けたエリが歩み寄り、床に横たわるルデスの上に屈みこむ。額に乱れかかり、床に散り敷いた白金の髪を掻き退け青褪めた顔を見下ろした。
「死にはしない。痺れるだけだ」
 確かに、ルデスは気を失ったわけではなかった。淡い双眸が力なくエリを見上げる。エリは萎えた身体を両腕に抱え上げた。そのまま緞帳に仕切られた奥の間に運び込み、壁際に据えられた大きな寝台に横たえる。そして荒々しく、襟元をはだけさせていった。
 燭台の上で大きな炎をあげる蝋燭の光をはじいて、露になった胸が皎と白い。その胸を包むようにエリは両手を置いた。ひやりと冷たい肌が掌に吸い付く。小さな隆起をすり潰すようにその肌を擦り撫でる、その感触に、エリはたまらず吐息を荒げ、被さるように顔を寄せた。胸から項へ、ねつい唇を這わせる男の耳にかすかな呻きを落として、ルデスは目を閉ざした。
 抗うこともできず、ただ木偶のように嬲られるルデスの首筋から肩へ、肌を吸い舐りながら、エリはさらにその着衣を引き剥がしていく。腰帯が解かれ、毟り下ろされた着衣を大腿にまつわらせたまま剥き出された下肢に這う手に、細く引き締まった下腹が妖しく震える。手が股間に落ちたとき圧し殺された悲鳴に鋭く喉が鳴った。
 貪って、貪り尽くせぬもどかしさに、狂ったように貪りつくエリの口が露になった肌を這いまわる。すでに覆うものもない身体を抱きひしぎ、捏ね上げるように弄びながら、エリは飽くことを知らなかった。幾度、果ててはまたみなぎる己れにルデスを犯したか、ただ灯架に積み上がる蝋涙が秘めやかな時の長さを告げていた。
 今、エリは窺うようにルデスの顔をみつめる。わずかに眉根を寄せ目を閉ざした秀麗な顔は眠るように静もっている。夜は長い。だがルデスの自由を奪った毒はじきにその効き目を失おう。時は迫っていた。それでも、大きく割り開いた身体の奥に己が思いを放ち果ててなお離れようとはしない、エリの執着は深かった。
 この一夜で、長年つのらせてきた飢えをすべて満たすことはできない――その認識が苦く口中にしこる。幾たび犯そうが思いは埋まらない。重ねた身体が解け合うことはない。それでもなお重ねつづけていた身体を、やがてエリは引き剥がす。その身体の自由を取り戻した時、この男はこの身をどうするか、決して許すまいことだけは知れていた。臣下の身で主に対し凌辱の限りを尽くしたエリだ。嬲り殺したいとさえ思って不思議はない。あるいはその思いの前に身をゆだねるも一興かも知れぬ――自虐的な思いを胸に転がしながらも、手早く身じまいしたエリは惜別の思いに最後の一瞥を投げる。
 寝台に、エリが離れたときのままに下肢を開き、力なく横たわった身体は強引に受け入れさせられたエリによって裂かれ、流れ出た血に白晢の肌を汚していた。その明眸は閉ざされ、いかなる思いも伝えてはこない。
 愚か者め――自らを叱咤し、踵を返す、足早に立ち去ろうとしたエリの背に、その時、低くかすれた声が響いた。
「木偶のようなこの身を思うさまにして、満足であったか――」
 静かにといかける声に怒りはなかった。弾かれたように頭をめぐらすエリを射て、鋭く光をやどした双眸があった。
「満足――せねばなるまいな。これでも、生命は惜しい」
 答える声は硬い。
「この身は、男を喜ばす術を知らぬ。お前が望むなら――習い覚えよう」
 絶句したエリは凝固したように立ち尽くす。耳を打つ言葉は信じられぬものだった。
「それを――信じよと‥‥」
 絞り出される声は低くかすれる。
「この場で、信じよ――とは言わぬ。三日の後――東の森の古趾に傭兵を一人、差し向ける。そのものと、話すがよい」

 三日後――
 東の森の古趾に待つエリの前に、その傭兵は現われた。伏兵を危ぶんだエリの警戒は杞憂に終わった。ひそかに随従する兵もなく、ルデスの言葉どおり単騎で訪れた男は古趾の前に開けた広い草地の中央に馬を止め降り立った。





   back top next