双影記 /第7章 -2
全身を被う古びた革の外套を肩にはね草の上に腰を下ろした男は、外した大剣を傍らに置き、仰のけに身を倒した。そのまま寝入ったかのように身動ぎしない男に、やがて、エリは身を潜めていた大木の枝を降り、歩み寄った。
その足音を聞いているであろうに、なおも動こうとはしない男の傍らに立ったエリは浅黒い顔を見下ろし眉をしかめた。褐色の髪に縁取られた細面は鋭く整い、あの面影を彷彿させる。
「リクセルから来たものか」
威嚇を含み降り落ちる声にも眠っているように目を閉ざした男は、だが、胸に置いた手を脇にずらした。エリはそこに、ルデスのもとに置いてきた青銅の円牌を見出す。
「では聞こう。何を言われてきた」
「何も――」
低く、答えて瞼をあげる、その双眸にエリは凍りついた。
「まさか‥‥」
その言葉に低く笑いを含む、男が上体を起こした。刹那、エリが数歩を跳びしさる。
「殺しにきたわけではない。わたしにはお前が必要だ。その見返りに求めるものがこの身であるなら、よかろう、望むままにするがよい」
「本気‥‥なのか‥‥」
笑みを消し、凝としてエリを見返す、男はもはや答えようとはしなかった。
「ついて――こい――」
エリは森に向って踵を返す。男は馬を引きその背に従った。しばらく行ったところで立木に馬を繋がせ、エリが導いたのは獣道も絶えた茂みの奥だった。絡み合った枝をかきわけ、どれほど歩いたか、茂みは不意に、崩れかけた石垣に断ち切られる。
エリがルデスを導いたのは森の奥深く埋もれた、知るものもない廃墟だった。
かつては城であったのか、石垣に続く門塔の間を抜け入り込んだ廃墟のなかは小高い丘をなす岩盤をおおって崩れ残った胸壁の作りだす石の迷路だった。ゆるやかな斜面に積み上がる室房、それを縫って折れ連なる回廊、数多の階段が白日の下にさらされていた。その迷路、入り組む胸壁の間を、エリは丘の高処に向って上っていった。
丘を中腹まで上った辺りで、列柱の基部を連ねた大広間にでたエリは横手に逸れ、ひときわ細く胸壁の間に隠されたような斜廊を下る。そして、いまだ四方を壁に囲われた部屋に入った。半ば近く残った天井が昼に近い陽射しをさえぎり、床の一隅に陰をさしかけている。その陰のなかに暗く、方形の穴が口を開き、地に向って穿たれた階段が闇に消えていた。
エリは迷いもなく、その階段に足を運ぶ。岩盤を切り出した階段は崩れることもなく闇の中に続いていた。
そして、どれほどの高さを下りたか、すでに岩山の麓をこえて地に潜っているであろうころ、幾重にも折れ奈落に沈むような長い階段をたどる二人の行手に、薄い光がさす。その光のなかに降り立ったとき、思わずルデスの口を嘆声がついた。それほどに広大な、それは、荘厳とさえ言える薄明の殿堂だった。悠久の時と滴る水によって彫琢された天然の岩屋だった。かつて、ここを訪れたものはその雄大さにうたれたか、わずかに敷き詰められた石畳が人の手になるすべてだった。その石畳が尽きた先は幽昏たる水面が薄明の彼方に消える。辺りを満たす光さえが、見えぬほどの高処より降り注いでいた。
「俺の、城だ」
石畳の縁に隠れていた小さな階段を降り、汀に設けられた広間ほどの敷台に立ったときエリが言った。
「脱げ――」
命ぜられるままに、大剣を置き、外套を外し、ルデスは着ているものを脱ぎ落としていく。一糸もまとわぬ姿になるのに時は要さなかった。薄明を受けて皎たる肌を曝す、ルデスの首から上だけが浅黒い、そのゆえにより艶めいて見える肌を、自らも全裸となったエリの手がなぶった。
向かい合って立てばルデスはエリよりわずかに高い。細いながら鋼線を撚り合せたようなエリに比べ、ほっそりと見えるほどにしなやかさの勝ったルデスの、腰に腕をかけ己れに引き寄せたエリはのしかかるように被いかぶさり雪白の胸の小さな隆起を吸いねぶった。背を大きく反りたわめられたルデスがたまらず膝を落す、その股間を割ってエリの手が差し込まれる。
「足を開け‥‥もっとだ‥‥」
命ずるままにくつろげられる狭間をなぞる、エリは期待に吐息を荒げ、擦りつけるようにぬめり込ませた指でその奥処をえぐった、刹那だった。腕の中の身体を戦慄が走り抜けた。それまで無抵抗に弛緩していた四肢が堅く張りつめ粟立った肌が冷たい汗に濡れていく。
あまりにあからさまな嫌悪にエリの眉が逆立った。
「これが、それほどに疎ましいか――」
怒りに駆り立てられたエリの手に残酷な力が加わる。全身を強ばらせてそれに耐える、ルデスは呻くことさえなかった。
「声を――殺すな――」
怒りが喉奥にきしむ。一瞬の沈黙をおいて、脇に落とされていたルデスの腕があがる。しなやかに長い指が己れを犯すエリの手首をつかみ、絞めあげた。思わぬ痛みにエリが眉をしかめた。
「お前は心得違いをしている」
低くかすれた声が、静かに韻律を刻む。
「心得――違いだと――」
「望むままにせよ――とは言った、この身が、お前の望むままになるとは限らぬ、それで承知できぬとあれば――わたしは、諦める」
「諦める‥‥」
反問するまでもなく、あまりに明白なそのことに、たぎり上がっていた血が凍てる。
「お前を失えば、ニルデアは苦しい戦いを強いられようが――止むを得ぬ」
「ニルデアが、ではない、お前がだ。ラデール家の世子ルデス、俺はアルザロにつくこともできる――」
「ゼオルドがお前を喜び迎えようとは思えぬが――止めることは、できぬ」
「お前次第だ」
「奴僕にはなれぬ」
「だが――なぜだ‥‥」
エリは底に光を含んだ淡い双眸を見つめた。そこに、それを強いれば生命をさえ賭して抗うであろう剛質の矜持を見取る、エリの口に思いがこぼれた。
「一度は、その身にかえてまで俺を繋ぎ止めようとした‥‥ラデール公の世子たるものが‥‥」
「わたしは――世子として育てられたものではないからな――」
うすく苦笑を含む、ルデスの双眸の奥を過った一瞬の翳りに気を呑まれたエリの身体を押し離し、しなやかに身を起こしたルデスが脱ぎ捨てたもののうえに手をのばす。
「待て――」
上ずった声がその手を止める。見返す、双眸のうちに表情はなかった。
「それで――承知だ――」
動きが凍る。エリにとっては永劫とも思える時をおいてルデスは身を返した。その時になって、息さえ殺していた己れを知る、エリは立ち、その腕のなかにふたたびとらえたルデスを、満身の力で抱き締めていた。
仄青い光の底に、冷涼なる大気は澱む。そのなかに、ただエリの吐息が熱い。石畳のうえに白く、四肢をなげだして執拗な愛撫に身を任せるものは冷たく静もっていた。いかなる愛撫もその張りつめた五体を解くことはできなかった。それは、初めて抱いた夜と変わらない、エリはただ己が熱情のままにさいなみ、つらぬき、はてたのだった。
「毒のゆえでは、なかった――のだな‥‥」
組み敷いた身体になおも愛撫を加えながら、吸いねぶっていた形のよい耳朶に熱い息をふきかける。
「女と――交わったことは、あるか――」
「ない‥‥」
ただ吐息するように応えるルデスに、エリは顔をあげる。すでに日没だった。薄明の中でかろうじてとらえた双眸が淡い光を含む。
「では――男とは、どうだ――」
エリの下で茫洋と薄闇のあわいにすえられていた視線が揺らいだ。
「知って――どうする――」
背けられる双眸に息をつめる、エリは胸奥にたぎりあがるものを必死で押さえ込む。
「ある――のだな――」
声が、歪んだ。
「お前には、関わりないことよ――」
冷ややかに返る拒絶にエリの脳が煮える、愛撫の手に無残な力をこめながら問わずにはおれなかった。
「何者だ――今でも――続いているのか――」
身を張りつめ、背をたわめたルデスが苦鳴を喉奥に殺す、刹那、鞭打つように腕を上げまきつけた指でエリの首をしめつけた。頚動脈をとらえたしなやかな指の思わぬ強かさにエリの視界が眩み、その手から力が抜ける、転瞬、撥ね除けるように体を入れ替えたルデスはエリを床に突放し、身を翻した。
「この身は、お前の奴僕ではないと――何度言わせる――」
床に這い、咳込むエリの眼前に白光が走り、抜き身の刀身が薄く光った。
「次は、殺す――」
その声の響きに身を凍らせる、エリは薄闇のなかに凛然と立つ仄白い姿を見上げた。
「奴僕だと――」
かろうじて絞り出された声は苦々しい。
「わかっては、いないな――だが、俺は誰かとお前を共有する気はない。どこの誰であろうと、必ず――見つけだして、殺す――」
気を呑まれたような沈黙をおいて、剣を鞘に収める幽かな音が響く。
「無理だな――」
やがて、乾いた声がこたえた。
「無理――だと――」
「すでに、いない。わたしが殺した」
思わず息を呑む、エリの耳にルデスは押しかぶせた。
「この身に手をだすものは殺す。お前は――唯一の例外だ」
耳奥を滔々と血流が打つ。石畳に座り込んだエリは唐突に己れを押し包んだ陶酔に身を浸していたが、やがて、
「そうか‥‥」
笑い含むように呟いた。なぜか、疑念は湧かなかった。己れがルデスにとり唯一のものであるという、その思いに満たされ、全裸であることも忘れ薄闇のなかに座り込むエリを、自らは身仕舞いを終えたルデスが促した。
「いつまでそうしている」
我に返り立ち上がった、エリは鋭く口笛を吹く。
やがて、闇の奥に光がさし、ひそやかな足音が近付いてきた。
「エリ――」
声に、松明の光輪のなかに進み出たエリは無言のままルデスを導き、遺跡を後にした。
以降――
エリはルデスのために諜者として働き、その見返りとして時たまの逢瀬を我がものとした。ルデスはもはや己が館にエリを迎えることはなく、求められるままに姿をやつし、エリのもとを訪った。
たびかさなる逢瀬のなかで、氷のような身を解き、わずかにでもエリの愛撫に応えるようになったのはいつのころか、それによりさらに執着を深めるエリのなかで、思い知れぬ相手へのもどかしさも深まっていった。
その身を許し、エリの愛撫にその肌を燃やすまでになったルデスの心は、だが一向に解ける気配を見せなかった。いつかは身も心も受け入れ求め合うときがくるであろう――エリの思いはかなえられることなく、ルデスは冷たく静もるままだった。ヨギの託宣のままに――
「エリ――」
不意の声に我に返る、エリは闇の下りた露地から視線を上げる。
「戻ったか。で――」
そこに、灯火を手に音もなく立ち現われたリーギンの姿があった。ゆれる炎の光を受けて波打つ金褐色の長髪にふちどられた細面は旅の疲労だけではない陰を宿し、暗く沈んでいた。
「噂は――まことでした。すでにリクセルを離れ、オーコールの公邸に。挙式は来月の十日と――」
窓枠に腰を下ろし放恣に片膝を立てたエリは無言だった。彫像のように動かないエリを見つめるリーギンは硬質の光を宿す灰色の双眸の凝視にたえかね、視線を落とした。
やがて、
「脱げ――」
降り落ちる乾いた声に弾かれたように顔を上げる。一年前、雛の時を終え、エク・エランとしてエリに従ってきたリーギンはこの年十九だった。エク・エランとしての自負をよそに与えられる任務は軽い。エリの従者として身近く仕えながら、思い満たされぬものがあった。それにしても、これは――
「え‥‥」
その意図するところは明らかだった。あまりのことにとまどい、口篭もる。だが。
「何をしている、聞こえなかったか」
ふたたび、冷酷にその意志を響かせるエリに強張る顔を伏せる、リーギンの手が力なく上がった。
エリに、逆らうことなどできない――命じられるままに着衣を脱ぎ落とした、灯火に浮かび上がる金褐色の裸身を、エリは凝視する。かすかな震えを這わせる、ほっそりと引き締まった裸身は彼のものとは異なる優美さをそなえていた。たとえて言うなら、それは陽光を受けて躍動する健やかな若鹿の美しさだった。ゆるやかにうねる筋肉におおわれたしなやかな下腹、小暗い陰を宿した小さな茂み、そこに、まだ幼さを残すものを見つめるエリの双眸に不意に、燠がともる。
「リーギン」
声に顔が上げられる。顎先でうながされ進みでたリーギンはエリの前に跪き、はだけられたその股間に口を寄せた。たどたどしく仕える舌に満ち起っていくものに瘧のように身を震わせる、リーギンの頭上に声は降り落ちる。
「立て」
さらに命じられるままに、立ち、部屋の中央に据えられた机に上体を伏せる。背後に立ったエリの手が荒々しく抱え上げるように太股を左右に割り開いた。両足が宙に浮き、支えを失ったリーギンは机にしがみつく、刹那、股間を襲った切り裂かれるような激痛に悲鳴を迸しらせていた。
「エリッ――」
だが、エリは容赦しなかった。ずんと、抉るような衝撃に下腹を突き上げられ、息がつまる、リーギンの悲鳴が途切れる。
「ああっ――あっ――あ――」
リーギンは歪む顔を涙で汚し、切れ切れに悲鳴を上げ続けた。
かつて、導者たるエクがリーギンに教えたのは戦士としての技ばかりではなかった。雛の時を終える最後の技とは男としての技であった。目指す女を誑し意のままに従える――その技を習得する具として供された数も知れぬ女たち、手練た娼婦にはじまり無垢な村娘、淫蕩な人妻、高貴の子女まで、ヒタンならぬあらゆる女がその相手とされた。それによってリーギンはあらゆる性戯を教えられ、男としての快楽を知った。それが、いまリーギンはそれら名も知れぬ女たちと同様に犯されている。涙は苦痛のためばかりではなかった。たとえその相手がエリであってさえ、己れが女として扱われる、屈辱――に。
やがて、リーギンのなかに放ったエリがその身体を離して、悲鳴はようやくに絶える。
すがりつくように机に伏せた背をあえがせるリーギンを、だがエリはそれで許そうとはしなかった。力なく床に落ちた下肢の間に差し込まれた手が、リーギンの男たる証をつかむ。
「ヒッ――」
喉が鳴り、伏せられていた顔が仰け反る。無残な手は愛撫とは程遠い仮借なさでリーギンを責め立てた。根元に実るものを擦り合わされ揉みしだかれる痛みに、背をたわめ額を机に押しつける、リーギンの喉を嗚咽が突く。
「おやめ‥‥ください‥‥エリ――おゆるし下さ――ああっ――」
手にしたものをそのままにエリが肘を上げていた。その腕に押し上げられた片脚が浮き、開いた、すでに血塗れ汚された股間を熱痛が圧し塞ぐ。嗚咽はすでに悲鳴だった。
「エリッ――」
さらなる苦痛を加えて、ふたたび繰返される責め苦にリーギンは悶える。その背を不意に逆撫でされるような悪寒が貫き走った。いつのまに添えられたか、エリの左手が萎えうなだれた己れをしごき上げその極みを擦り撫でる。そこから湧き起こり背骨をからみ上がってくる悪寒、それはまぎれもない快感だった。かつて味わったことのない苦痛に綯い交ぜられたその快感にいたぶられ、いつか淫靡なあえぎにすり替えられていく嗚咽に、仰け反った喉を震わせる、リーギンは眉を寄せ目を閉ざした。
早く――
「エリ――ああ――」
早くいかせて――エリの動きにあわせて己れも腰を使いはじめていたリーギンの動きがふと止まった。己れをとらえたまま、エリは動きを止めていた。すでにみなぎり立ち、こぼれ落ちた滴りにエリの指を濡らしている己れが焦れ、うずく。たまらず、リーギンは促すように腰を捩りエリの手に己れを擦り付けた。
「エリ――ヒッ――」
刺すような痛みが走り、哀願は悲鳴に呑まれる。満ち上がった頂のくぼみを抉り割って圧し嬲られる快感はもはや苦痛だった。机にしがみついた腕が捩れる。
ふたたび、繰返される衝撃に喉を突かれ、その嗚咽を弾ませる。打ち込まれる楔から必死で逃れようというのか、背をたわめ首をふるリーギンの喉を突く衝撃が空を震わせた。
流れこむ夜気に炎が揺らぐ。
燃え尽きようとしてなお消えぬ灯火から顔を背け、苦痛の余燼がいぶる腰をかき寄せた衣服に覆い、リーギンは冷えきった身体を床に横たえていた。
己が内にたぎり上がったものをリーギンの上に叩きつけるように、その身体を苛み尽くしたエリはすでにいない。崩れるように床に臥したリーギンをおき捨て、ふらりと部屋を出ていってどれほどの時が過ぎたか、開け放たれた窓の外に人の気配はなかった。しんと冷えた夜気がリーギンをひたす。リーギンの意識にはなかった。ただ視界をとらえる闇のなかで無情に立ち去ったエリの気配をまさぐっていた。耳底にこだまする足音を聞き続けていた。
「己れ‥‥いつまでそうしている‥‥」
不意に声が響く、そこに、流れこむ夜気が凝ったかのようにうずくまる影があった。
「エリは発ったぞ‥‥追え‥‥」
「‥‥発った‥‥」
ものうげに呟く、床をなめるように顔を伏せたリーギンはだが動こうとはしなかった。ただ唇が震える。
「死にたい‥‥」
もれ落ちた吐息が床に流れた。吐息に吹き消されたかのように灯火が尽きた。
闇のなかでさらさらと風が流れる。風にのり気配が動く。
「では‥‥死ね‥‥」
頭上から降り落ちる声に、ひやり――と、首筋に走る灼熱感に息をつめる、リーギンの耳元に硬い音が響き、絶えた。それきり声もなく気配が消えた闇のなかで不意に吹き出した汗が全身を濡らした。
やがて、リーギンはのろのろと身体を起こした。新たな灯火がともされる。床に突き立ち、炎に照らされて鈍く光を弾く短剣を引き抜き、薄く己が血に染まる刃に指を這わす。そして、
「エクル‥‥」
かつて雛であるリーギンを教え導いた導師――エクル――の姿を追い求めるように暗い視線を窓の外の闇にさまよわせた。
ふたたび、その灯火の尽きたとき、そこにリーギンの姿はなかった。