双影記 /第7章 -3
この年、オーコールは例年にない華やぎのなかに春節の祭りを迎えようとしていた。
それもいわれのないことではない。白の公子と名高い、王統八家随一の権家たるラデール家の世子ルデスが同じく王統八家の第二家たるスウォードン家の息女エディックを正室として迎える。今は亡き王太后リスアにより定められたこの婚姻である。盛大にならぬはずがなかった。祝いの宴に向けて周到なる用意がなされていくなかで期待は王都に住まう庶人のなかにまで広がっていた。
ラデール家公邸に日々運び込まれていく荷駄の列に、やがて振舞われるであろう祝いの豊かさを噂するさざめきは、だが、その公邸の奥に遠い。
豪壮な館をとりまく庭園は穏やかな闇をたたえ静まりかえっていた。いつに変わりなく見回る衛士をやりすごし、立木の陰にひそめていた体を起こしたエリは流れるような足取りで草地を横切り館の外壁に身を寄せた。見上げる高さに夜空を切取り、城壁のように組み上げられた切石を猿のような軽捷さでのぼる。その影を見るものはなかった。
知らぬものには迷宮にも似た館の内を、常夜灯の火灯かりをゆらして影は音もなく流れ、やがて一つの扉のうちに消えた。
広間というほどに広い当主の居間に人の気配はなかった。高い窓からさしこむ星明かりのなかを進む、エリは重い緞帳に仕切られた奥の間に入る。息を殺し、うかがう闇は濃い。その闇の底でかすかな寝息が絶える。声もなく、身動ぐ気配もなく、ただひっそりとおりた闇を己が身で押し切るように寝台に歩み寄ったエリは上掛けを引き剥いだ。すでに目覚めていることは、そうまでされてなお声を立てぬことで知れた。探り当てた胸元を力任せに裂き開き、なめらかな肌に両手を滑らせる。
「何しにきた――とも、問わぬのか」
圧し殺した声をきしらせるエリの手がとらえた喉輪にからみついた。そのまま凝として動きを止める。何故――
こ奴は抗わぬ。俺には殺せぬとたかをくくっているのか。それとも、殺しにくるのを待っていた――このまま、黙って殺されようとでもいうのか――
ふと惑乱する、エリの背を氷塊が伝い落ちていった。今はまだ確かな手応えを返すこの体を、永久に失うことになる――その喪失感に。そしてまた、思いは返る。何故、こ奴は抗わぬ――
七年――であった。その間、一度として心を開いたことのない相手であった。が、その身体は常に己れ一人のものであった。だが婚姻ともなれば――ラデール家の世子であれば逃れられぬ責務でもある、それはエリも承知していた、それを、強いて念頭から追うようになったのはいつからか。たとえそれが政略によるものであろうと、人の思いの行方は知れぬ。万一相手の女に心許すようなことにでもなれば――憤ろしさは冷たく凝り胸底を灼く。
自らに認めがたい、それは身肉を苛む嫉妬であり、思いもよらぬ激しい不安だった。
許せぬ――
そのような存在を、許してはおけぬ。かつて知らぬ痛みに駆り立てられるままに、夜を日についでこの地を訪ったエリであったが。だが――
エリの肩から力が抜ける。強ばりついた指を解きはがし、咳込みあえぐ喉をまさぐった。冷ややかな肌に手を滑らせる、エリの上体がゆっくりと伏せられていった。
貪るほどに深まる飢えを満たそうと狂ったように身悶える、エリはもはや荒らぐ息をおさえようとはしなかった。
淫靡な音が闇を震わせる。
いつ絶えるとも知れず、音は闇に満ちた。
そして、夜はあける。
流れこむ薄明のなかに、青ざめた陰を這わせて横たわるものを、エリは引き開けた窓を背に見返る。二人の男が寝てなお余りある大きな寝台、その寝乱れた豪奢な夜具に浮かぶ無防備に四肢をのばし伏せた白い背中を。
明け方まで情痴のかぎりに苛み尽くした身体だった。神の彫琢になるもののように優美でありながら、はかり知れぬ強靭さをひそめたしなやかな肢体はいまは石像のように冷たく静もっている。これが、あれほどに熱く肌を燃やし悶え息をあえがせたものか、ふと信じ難い思いにとらわれる、すべては夜の闇に惑った己が夢ではなかったか。
ふたたび傍らに戻り、肩にかけた手で力任せに伏せた身体を仰向かせた。乱れかかった銀糸の髪をその顔から払い落とし、情事の残滓の片鱗をさえ止めてはいない眠るように目を閉ざした顔を食い入るようにみつめる。
あくまで拒絶するか――ゾクリと、下腹を熱痛が抉る。この冷たきものを燃え立たせたい――白日の下に、悶えさせ、熱く、あえがせたい‥‥返りきらずねじれた下半身をまたぎ、己れを重ねた。
いつか、うすく開いた双眸はとらえどころなく薄明をたたえる。そこに映し出されるものはただ己が飢えだった。エリはあがきにも似た愛撫を加え続ける。やがて妖しく腰をうねらせ、四肢を強ばらせていくものはだがなおも、荒らぐ息を潜ませる。
「己れ――」
いかに責めようとけして声を上げない、その声を、エリは聞きたかった。
「この俺には、殺せぬと見切ったか――」
どこかで、かすかに息を呑み、身動ぐ気配が立つ。弾かれたようにエリが身を起こすより早く、ルデスの腕が上がり、その後首をとらえた。
「今朝はよい。下がれ」
肩越しに投げられたものうげな声に、上擦った声が返る。
「は、はい――」
小走りに立ち去る足音が、閉ざされた扉に断ち切られる。己れを胸の上に押さえこんでいたルデスの腕をはねのけ、エリは上体を起こし、淡い双眸をにらみ据えた。
「どういうつもりだ。あれは何だ――」
「殺したければ、殺せ。今からでも、遅くはない――」
「己れは――」
一瞬、声をとぎらせる、エリは白々とした顔を探るようにみつめた。
「死にたいと、いうのか――」
「お前に殺されるなら、それもよかろう――それだけのことよ――」
「ふざけるな。気紛れで死にたいだと――」
「生きてあれば、妻をめとり、夜ごと交わり、子をなすことになろう。よいのか――」
揶揄るようなその言葉に、一瞬エリの意識が白熱する。その口元に浮かぶ薄い笑いにエリが我に返ったとき、手はふたたびルデスの首にまきつき、締め上げようとしていた。
「許せんな――」
エリの口に声が軋る。
「女は殺す。幾度でもめとるがいい、殺すだけだ」
「それは、困る」
「ほざけ」
「お前を、殺したくはない」
ひやりと、背に刃を押しあてるような言葉だった。エリの眦が切れ上がる。
無言の対峙は長くは続かなかった。既に笑いを消したルデスの視線がそらされる。
「ここで、暮らせ、エリ」
「それは――」
干上がった口に声がかすれる。
「夜ごと、俺のものになってもよいと、いうことか――」
「お前が、飽きねばな」
「知れるぞ」
「かまわぬ」
眩むような思いの中で、エリはルデスにむしゃぶりついていた。
そのエリがルデスの意図を悟ったのは、後のこと。
ルデスの居間の控えの間に居所を与えられたエリが片時も離れず扈従するようになって、オーコール公邸に仕える家臣の間にその噂が密かにささやかれるようになるのに時は要さなかった。
公式には、リクセルから呼び寄せた従者であったが、もはや誰もエリをただの従者とは信じなかった。
だが、何故このようなときに――
家臣たちの不審をよそに、ルデスはエリとの仲を秘めようとはしなかった。そのルデスを諌めるものもあったが、入れられることもなく、やがて婚姻の日を迎えた。
王宮に伺候し王の祝福を受け盛儀が果てたのち、その余韻のさめやらぬ王都オーコールのざわめきをよそに、公邸の奥では小さな破局が訪れていた。
初夜の床を前に、花嫁エディック・スウォードンは豪奢なその衣裳を解こうともせずに冷たく整った面を向ける。そこに、乙女の恥じらいはなかった。あるのはただ、スウォードン家の息女たる矜持、そして傷つけられたものの怒りをひそめた燃えるような黒瞳だった。
「殿に、お聞きしたいことが、ございます。あの、噂はまことでございましょうか」
「噂――」
「お隠しになるな。この身にも、耳目たるものはいます。殿には、すでに思い寄せるものがおいでとか」
「それが、御身とどう関わる」
「どう――とは。では否定もなさらぬのだな」
「否定するが、御身の望みか――」
「白々しいことを。婚姻を前にわざわざリクセルから呼び寄せるほどのものをお持ちの殿に、口先だけの否定など、望んではおらぬ。お返しください。そのもの、リクセルにお返しください」
「あれは、有用のもの。帰すことはできぬ」
言い交す言葉を聞きさえしなければ、微かに笑を浮かべ向き合った両者の間に横たわる隔意を疑うものはいまい。ルデスの思いの知れぬ双眸はあくまで静かだった。
「では、この身も、殿と褥をともにすること、お断わりもうしあげる」
「御身はわが正室。嫡子をもうけるはその責務と思われるが。すみやかに果されよ。さすれば後のことは問わぬ。いかなるものを、身近く置こうと、咎めはせぬ」
不意に、玲瓏たる美貌が歪む。見開いた双眸からあふれ落ちたものが燭台の光を受けてきらめいた。
「わたしは――子を産む道具ではない。思いものを、同じ館に置かれながら、そのような、――できぬ」
失意にひずむ声は、苦しげにかすれた。ルデスの顔から笑が消え、その双眸に刺すような光を加える。
「それが、通ると思われるか」
「力ずくでなさるか。では、お覚悟なさることだ」
「覚悟――」
「嫁いだ身であれば帰るわけにはいかぬ。だが、男を嗜むようなお方に、力ずくで汚されたとあっては――」
「――死ぬ、とでも、いわれるか」
「この婚姻、今は亡きリスア皇太后の意になるもの。王家に対しいかなる弁明をなされるか、ラデール家の面目は泥に塗れましょうな」
沈黙は重くよどむ。無言の対峙は、だが、長くは続かなかった。静かに、背を向けたのはルデスだった。
「無理強いはせぬ。ゆっくり、休まれるがよい」
当主自らが立ち去った、当主の寝室に一人残されたエディックは立ち尽くす。凛然と立てた面は、すでに乾いていた。
やがて静かに頭をめぐらす。遠く異国より運ばれてきたものであろう、王家をさえしのぐ金襴におおわれた豪奢な寝台に虚ろな視線を向ける。その膝が崩れた。
はりつめていた糸が切れたように寝台の傍らにうずくまった、エディックはたおやかな両手に顔を埋めた。
エディックに背を向けたルデスは宿直のものが控える表の間には向かわなかった。寝室の奥の厚い緞帳に隠された扉を開く。闇の降りた続き部屋には、ひそりとたたずむ影があった。無言のままその傍らを過ぎ、さらに奥に向かう。いくつの続き部屋を抜けたか、やがて大きな窓のある一間の、壁ぎわの寝椅子に放恣に身を横たえた。流れるような足取りで付き従ってきた影がその傍らに立つ。
窓から射し込む仄明かりのなかに浮かぶ姿に、ルデスは物憂げな視線を向けた。
「己れは――何を考えている――」
常にはない紫金の輝きを帯びた双眸がルデスを見据える。
「何を?――」
かすれた声が低く反問する。
「体よく俺を利用して女を遠ざけたな――」
ルデスの腰を跨ぎ、鷲掴みにその両肩を押さえこむ、エリの口に声が軋む。
「何を――苛立つ。それがお前の望みではなかったか――」
鷲掴みにされている肩にエリの爪が食い込む、その痛みも感じぬように応える、声は薄く笑いを含む。
「己れは――この俺を手駒に使った――だが、なぜだ――」
「今更のこと――いい加減にせよ」
低い呟きに似た声が切って落とす。エリは絶句した。言われるまでもなく、これは、得るべくして得た結果だった。だが、ではこの胸内にたぎる憤懣は何なのか。形の上では確かに、おのが望みのままに、従っているように見えるルデスだったが、
――月よ。
と、飛翔する蜂の羽音のように耳底に響き続けてきた声が嗤う。移ろいゆくその光に似て指の間からすり抜けていくこの白きものを、いかにすればおのが手の内に捉えられるのか――
指は苛む。せめて、その苦鳴のうちに心の底を吐露させようとでもいうように。
返るものはただ、押し殺された息遣いだけであった。
そして夜は明ける。
幾夜くり返されたか知れぬ、夜がくり返される。
婚姻の夜から半年、噂を知りリクセルからかけつけたダルディの前に、ことさらにエリを抱き寄せて見せたルデスが自室へのエディックの訪いを受けたのは、それからさらに三月ほどがたった一夜――
形ばかりの婚姻に、同じ邸内に暮らしながら顔を合わせることもまれな二人だった。自らルデスの元を訪れることなど一度としてなかったエディックが、妖艶な微笑を湛えてルデスの前に立つ。甘やかな唇をついて出るのは呪詛に満ちた言葉だった。
「申したいことは一つ、殿は思いものを身近く置かれている、この身もそれに倣うことにしました」
「倣う――」
「この身にも、思うものができましたゆえ」
「――何故、それを明かされる」
見返すルデスの思いの知れぬ静けさに、エディックの声がわずかに激する。
「なぜ――隠さねばなりません、かく、し向けたは殿、当然のことに、その成り行き、お知りになりたかったのではないか」
「――是非もない」
「それだけですか」
「それだけとは――」
「子が――できるやも知れぬ」
「――その時は、認めよう。それがラデールの嗣子であると」
「何処の、誰とも知れぬ者の子を、お認めになるか」
「スウォードンの息女たる御身が、その名を汚す者を相手にするとも思えぬ」
「ずるいお方よ。そう、確かに、下賤のものにこの身を委ねることなどできぬ。我が相手たり得る者など、そうはおらぬ。なれば、殿にはもうご承知らしい。リクセルのダルディ殿がその人と」
昂然と言い放つエディックにけぶるような視線を向ける、ルデスが長い沈黙をおいて告げた。
「そのこと、決して公にはなさるな。御身ばかりではない、我が弟を、処罰させたいのではなくば」
「当然のこと」
艶やかな朱唇に嘲嗤を刻みエディックは踵を返した。しめやかな衣擦れの音が遠のきやがて消える、その室内に取り残されたように立ち尽くしていたルデスがわずかに首をかしげ、背後に声を投げた。
「いつまでそうしている」
厚い緞帳の陰にうそりと気配が立つ。
「そういうことか」
苦々しい嗤いに口元を歪めたエリの姿が燭台の光の中に歩み出る。ゆっくりと半身を向けたルデスのうなじを捉えその長身をひしぐように口を寄せた。
熱い舌が口腔を嬲り、みだらな指が股間をまさぐる。ひっそりと静もるルデスは身動ぎすらしなかった。だがそれが余計にエリを煽り立てるのか、その手に無惨な力が加わり、仰け反らされたルデスの喉が震える。心ゆくまで貪ったエリの唇はうなじを這い、耳朶を噛み、胸元へと吸いねぶっていく。
「はやるな」
自由になったルデスの口から物憂げな声が落ちる、とともになす事もなかった手でエリの手首をつかみ身を返した。一瞬のことだった。エリの腕の中から逃れ出た白い影は、だが、急ぐでもなく奥に向かう。付き従うように後を追う、エリの腕が背後から抱きすくめた。
「それほどに、おのが血を分けた子、見るのが怖いか」