双影記 /第7章 -4



 耳元にささやく声にルデスの足が止まる。
「おかしな事を言う」
 返す、声は何処かうつろに響いた。エリの腕に力がこもる。
「こうなると見込んで、俺をここにとどめ置いたのだ。違うとは言わさぬ」
「それが、不服か」
「身体は開いても心は開かぬ、いつまで待っても俺は道具に過ぎぬか」
「思うさまこの身を玩弄する者の言葉とも思えぬな」
「おのれ――」
 呻くようにその声が歪む、エリは両腕に根かぎりの力を込めてルデスを抱き拉いだ。
 やがて、
「いつまでこうしている」
 静かな声が落ちる。エリの腕が解かれ、何ごともなかったようにルデスは歩き出す。緞帳をめくり豪奢な寝室に入り、着衣を解きだすルデスに、今は無言でエリが従った。
 そして、また、幾たびくり返されたか知れぬ夜が、新たに始まる。熱く、淫らに。


 晧と白い裸身はうっすらと汗ばみ、なめらかな下腹は妖しくうねる。銀色の茂みに屹立した自身を激しくしごき上げられ思わず喉をつまらせる、ルデスはひそめた眉の下にその双眸を閉ざした。
 これ以上は開かぬまでに開かされた両脚の間にのぞく奥処には黒々とぬめる楔が打ち込まれている。
 既に一度果てながら、なお結合を解こうとしないエリのそれは、ルデスへの執着の深さを示すかのように早くもみなぎり立ち、さらなる刺激を求めて脈打っている。だが、エリは自らをも焦らすように腰の動きを止めていた。そして、執拗にルデスのものを弄ぶ。
 仄かに揺らぐ灯火の中にねっとりと息が絡み合う。
 どれ程の時を経たか、たまらず、早く終えよと誘うようにルデスの腰が揺れた。
 ようやくに己が愛撫に応えるようになった身体に自らを滾らせる、エリはそれでもまだ、ルデスを嬲ることを止めなかった。上体をかがめ雪白の胸を吸い舐り、そのわずかな隆起を舌先に転がし甘噛みする。それだけで大きく脈打ちドクリと手の内にあふれ出すものにほくそ笑む、エリは休むことなく動き続ける手に、濡れそぼる先端の窪みを押し広げ、立てた指に穿ち、抉った。その激痛に、ルデスの腰が激しくよじれた。背をたわめ、大きく仰け反った喉を鋭い息が擦る。
「声を出せ」
 胸から耳へ舐り上げた唇がささやく。
「出したらいかせてやる」
 エリの仮借ない手にその根元を扼され、もう一方の手で根元の双珠を揉みしだかれ、達することを阻まれたルデスは灼けるような官能の渦に苛まれ、身悶えた。だが、
 返るものは、喉を突く息遣い――それが、いつしかふつふつと湧く笑声にすり変わる。
「欲深な奴よ‥‥これほどに思う様にしながら、まだに、足りぬか‥‥」
 低くかすれ、不思議な韻律を刻む耳に心地よいその、声――ゾクリと背筋を這い昇る快感は峻烈に過ぎた。たまらず、エリの腰がうねる。
 激しく突き上げられ、打ち合う身体が立てる淫靡な音に、灯火の落ちた闇がこね上げられていった。


 その夜から程なく、
 久々の晴天に雪の野に野駆けに出たルデスは王都オーコールの南郊の丘に騎馬を止め、随従するエリを見返ることもなく言った。
「お前を、長く、止めおきすぎた。そろそろ潮時であろうな」
「それは、オーコールを去れと言うことか」
 刺すように冷たい風の中、悠然とエリが馬を並べる。見晴るかす人影もない野の果てにはなだらかな山嶺が横たわり蒼穹を画している。エサリア山地だった。その彼方にイルバシェルの沃野があり隣国アルザロへと続いている。宿縁の地であり国であるイルバシェルとアルザロ、その為に過去幾たび開かれたか知れぬ戦端がこの数年封じられてきた裏にはエリと、その頤使する一族の存在があった。ルデスの求めに応じてその国情を探り、さらには内紛の火種をまき続ける、それによってニルデアから戦火を遠ざけた、確たる自負がエリにはある。腕を伸ばしルデスの後首を捉えると強引に引き寄せのしかかるように唇を重ねた。
 熱い舌が口腔を舐り吐息さえも貪り呑む、エリの視線の下に、硬質の光を弾く淡い双眸が閉ざされることはなかった。
 やがて唇を離す、エリの声が焦れる。
「目的を達して用済みか」
「目的‥‥目的とは何か――このニルデアの安寧を保つ、それを達し得る日が果たして来るのか――」
「己は――」
「ニルデアの隣国はアルザロばかりではない。オルテリーがあり、デルーデンがある。遠くハルツァの山嶺を隔てばスオミルドがある――」
「そうよな、今でこそ治まっているが、どの国が牙を研いでいても不思議はない――これは、大事にしてもらわねばならんな――」
 太々しく嘯きふたたび唇を重ねるエリに、ねっとりと絡みつく舌が蹂躙するにまかせ、ルデスは蒼穹に視線を遊ばせた。
「今年は豊作になる――」
 そろりと襟元を割る手を押さえ、首をひねりおのが口を取り戻したルデスがエリへともなく呟く。
「オルテリーに、動いてもらわねばなるまいな」
「オルテリーだと――」
「アピネーラ山脈の北麓にあり、その国土はニルデアに匹敵し眠れる羆とも称される。国土の大半を山林に占められ、人口は少ないながら兵は強悍、もし国境にテミンの樹海がなくばオルテリーの矛先はニルデアに向かっていたであろうが、幸いにして、その地勢はアルザロに向かって開けている。あのゼオルドがあえて手を出そうとはしない、そのオルテリーに――」
 不思議な韻律を刻む低い声が耳にしみいる。エリは陶然たる心地に引き込まれそうになるおのれを苦々しく吐き捨てるように毒突いた。
「おのれ――正気か」
「眠る羆も蜂に刺されれば叩きつぶそうと腕を上げような」
「我らに蜂になれ――とか」
「蜂はすでにいる。あとは羆に向かって逐ってやればよい」
「簡単に言うことよ。どの藪をどうつつけと言う」
 ひらりと見返った白い貌が微笑んだ。
「お前の力をもってすれば、あながち、無謀とも言えまい」
「何――」
「紫金の瞳を持つ森の民の王よ」
 愕然と視線を据えるエリの前に銀の髪をひるがえし、ルデスは馬を駆った。
 我に返って後を追うエリが激しく馬をせめる。が、悠然と馬を駆っているように見えるルデスに追いつくことができなかった。
 やがて、エリは忌々しげに舌打ちし、あきらめたように手綱を緩めた。
 この翌日、エリはオーコールの屋敷から消えた。そして、その存在が家人の念頭から消える頃、アルザロとオルテリーの国境の北辺、テミンの樹海のとぎれるあたりに小さな火の手が上がった。その報がニルデアにもたらされた頃、季節はいつしか春から夏に変わっていた。

 この年、アルザロとオルテリーの間に開かれた戦端はその後長く尾を曳き、終息するまでに数年の時を要した。





 テミン――それは樹海の名であるとともに、ニルデア、オルテリー、アルザロの三国を画する山脈の名であった。峻険とは言えぬ山並みは、だが複雑に入り組む無数の谷と山脈全体を覆う鬱蒼とした樹林によって広大な迷宮と化していた。
 ひとたび踏み込めば二度と生きては戻れないという、この迷宮を、ヒタンだけは我がもののごとく行き交うという。ともあれ、その樹海の果てるニルデア南部を東西に走る街道の近くに一軒の旅宿があった。街道に沿う集落からは外れ、行き暮れた旅人が一夜の宿りを求めるのもまれに違いない、そんなさびれた気配を漂わすその旅宿に、その宵、一人の旅人が馬を寄せた。
 門を入れば大きな中庭があり、切石を組み上げた井戸がある。右手には厩、左手に母屋の影が四角く夜空を画している。門を開け招き入れた人影に手綱を渡し、その指し示すままに旅人は母屋の扉を入る。
 宿の食道を兼ねた広間の灯りの中に見る旅人はぬきんでた長身を薄汚れた革のマントで覆っていた。腰に大剣を下げ長い褐色の髪を首の後ろで束ね背に下げている、一見して流れ者の傭兵を思わせるその浅黒い顔はだが端正に際だち、見るものを圧した。他に客もないのか宿の中は静まり返っていたが、広間には人影があった。
 広間の中央を占める大卓に放恣に脚を上げ椅子の背に身を委ねている。
「遅かったな」
 物憂げな口調を裏切ってその目は欲情にぬれている。エリだった。見返す淡い金の双眸は思い知れなかった。無言で前に進み、マントを外し、大剣を立てかけた傍らの椅子の背にかける。
「食事は出ぬのか、昼から何も食べていない」
 椅子を引き腰を下ろす相手に、床を鳴らして立ち上がったエリが歩み寄り大卓との間に立つ。頤に手をかけ思いきり仰のかせた顔に口を寄せ、貪るようにその口腔を犯した。その間にも手は上着を脱がせ胴衣のひもをゆるめ、ベルトを外していく。やがて晧と白い肌が露わになっていく。肩から胸、そして下腹までが露わになった時、ようやくに唇を離した。首から上だけが浅黒いその身体はそれ故により艶めかしくエリをそそる。
「貴様の餓えなど、どれ程のことがある、これが先だ」
 エリの険しい口調に、ルデスはわずかに唇を歪めた。
「ここで、やるというのか」
「かまうまい」
 言うなり一歩を踏み出し、ルデスの大腿を腰の左右に抱え上げた。やむなしというようにルデスの腕がエリの首に回される。
 そのまま身を返したエリはルデスを大卓の上に据え、左右の脚から長靴と下履きを引き抜くと自らもむしり取るように着衣を脱ぎ捨てた。全裸になったその股間は黒々とぬめりを帯び、既に雄偉に漲り立っている。薄く含んだ笑いを消し、ルデスは静かに上体を倒した。自らも大卓に上がったエリは手にした小壺から金褐色の液体を滴らせる。かぐわしい香りを放ちながら、それはとろりと、ルデスの股間を伝い落ちていった。
 迎え入れるように立てられたルデスの膝をさらに大きく割り広げ、身を進めたエリは片手をその奥処に這わせながら上体を伏せた。もどかしげに香油をすくい取った指に抉られ、ルデスの全身が張りつめる。いまだに慣れようとはしない身体に愛おしさと同時に苛立ちを募らせながら、エリは粟立つ白い肌を貪る。首筋から胸へ、その小さな隆起へと、吸い舐る。舌先で転がし、甘噛みすると弾き上げるように仰け反った。
 だがわずかに息を荒げながらもその端正な顔は無表情に静もったままだった。
――この貌を、思うさま歪めさせたい――
 啼き悶えさせたい――思いは常に熱いうねりとなってエリを押し包む。まだ解し切れていないそこにおのれをあてがい、一気に押し進めた。
「くうっ――」
 思わず口を突く呻きはエリのものだった。まだ全てを収めきったわけではない、いつまでたっても慣れようとはしないその身体の締めつけのきつさに、自らの痛みさえが陶酔を誘う。それでも、見下ろす双眸は淡く金の光を弾き、張りつめた顔は苦痛の影さえ押し潜め何も語りかけてはこない。エリの顔に険しさが増す。大きく、うねりを利かせて腰を突き上げた。
 自らの楔で抉るように、繰り返し、繰り返し――
 広間の四隅に点された灯火の中に、押し殺した息遣いと肌を打ち合う湿った音が籠めていった。


 宵に訪れた客の馬を手入れし、水と飼い葉を与え厩を出たリーギンは母屋に入ろうとして足を止めた。開きかけた扉の前に凍りついたように立ちすくむ。扉の隙間から漏れ出てくる音は聞き違えようもなかった。そして、そこに覗く光景は、目を奪い、耳を犯す。
――エリ‥‥
 大卓の上、左右に大きく割り広げられた大腿が晧と白い。その狭間にのしかかり激しく律動をくり返す金褐色の身体、その背が不意に硬直した。律動が止み、満ち足りた太い吐息とともにその背が弛緩し、前に傾ぐ。
 だがエリは果ててなお結合を解こうとはしなかった。雪白の胸の上におのが上体を重ね、うつうつとその肌を愛撫し続ける。そして、
「強情な奴よ――」と、
 肌を吸い舐る音の合間に響いた、それはリーギンがかつて耳にしたこともない、睦言と言ってよい、甘いエリの声だった。その声に、リーギンは打ち据えられたように立ち尽くす。
 情事とも言えぬエリとの咬合、それを望んだことなどないリーギンであったが、おのが身内をじりじりと灼き焦がす何かに、リーギンは砕けるほどに奥歯を噛みしめていた。





 既に一年がたつ。アルザロの王都グーツでの、あの忌まわしい一夜。
 雛の時を終えエク・エランとして一年、エリに従ってきたリーギンはこの年十九だった。オーコールからの報せを持って立ち戻ったリーギンを強引に犯し、置き捨てるようにオーコールに発ったエリ、その時の苦痛、屈辱、おのれが崩壊するような喪失感を耐え、エリを追ったリーギンは、ラデール家の公子に影のように従うおのが主を見た。
 それ以来、身近く呼び寄せようともせず季節がめぐった三月前、突然、王都の東の廃墟に戻ったエリに従い、ヨギに仕えながら待っていたリーギンは、ふたたびアルザロの地を踏んだ。


 テミンの樹海を抜けたゆるやかな丘陵地帯、次第にまばらになる樹間を縫って細い流れがある。チワと名付けられた浅く細いそのたよりないほどの流れが、アルザロとオルテリーの国境の北辺をなしてから、幾世代を経たか、チワを挟んで小競り合いは絶えなかった。小さな火種はつねにあったのだ。ただ、暗黙の了解のように、その火種に油を注ぐ者はいなかった。この年、までは。

 チワの清流の西岸を領するオルテリーの辺境伯爵シャブワ・アテコントはその日も数人の供を連れ狩りに出た。日も西に傾こうという頃、いまだ一匹の獲物もないままに森を行く、シャブワの精悍な顔には苛立ちの色が濃い。森は眠るように静まって山鳥の影さえなかった。だが既に、城の塔さえ見えないほどに遠くまで来たことで、ようやくにあきらめの気持ちが湧いたか、手綱を引き騎馬の脚を止めた。刹那だった。行く手の茂みから一頭の巨大な牡鹿が現れた。午後の日差しを浴びて金褐色に輝く毛並、見事に枝を広げた鋭い角、爛と輝く双眸に、おお――と、一瞬息を呑む、次の瞬間、我に返り矢をつがえるシャブワに背を向け、牡鹿は大きく跳躍する。供の者が制止の声をかけるより早く、シャブワは馬腹を蹴っていた。
 牡鹿はシャブワの弓の射程のわずかに先を悠然と駆け逃れていく。不猟の一日の果てだった。これほどの獲物を、逃してなるか――と、牡鹿を追うシャブワの内に歓喜が踊り、時が失われた。
 
 いつか、日は大きく西に傾いていた。
 追いつめると歩速を上げ、あきらめようかと馬速をゆるめれば、立ち止まり見返りさえする牡鹿の走り方に、まるで誘っているかのようだ、ふとシャブワが思った時、不意に視界が開け、夕日にきらめく水面が目に映った。
――チワか
 思わぬほど遠くへ来た、と、一瞬、狼狽にも似た思いが脳裡をかすめた時、牡鹿は渡りかけた川の中程でまたも立ち止まりシャブワを見返った。
 夕日に半身を染めたその雄偉な体躯の、影になった半顔に川面の反射を写して片眼が鈍く光った。その瞬間、半日近く引きずり回された苛立ちが頂点に達したか、シャブワの中で、理性の糸が切れた。
「おのれ、畜生の分際で、この儂を嘲笑うか!」
 怒声と供につがえた矢を放つ。距離がありすぎた。矢は牡鹿の肩をかすめて力なく川面に落ちる。次の矢をつがえながら更に馬を進めるシャブワの前に、だが、牡鹿は身じろぎすらしなかった。落日の赤光を浴びて傲然と立つその姿は禍々しいまでの威圧感にシャブワを圧した。一瞬のことだった。素早く首をめぐらせた牡鹿の蹴立てた水しぶきが煌めく。刹那、紫金の光に燃え立つ牡鹿の双眸を意識の切片が捉える、が、見えない糸で牡鹿につながれたように、シャブワ・アテコントは、越えてはならぬ、境の川を渡っていた。
 その意識は、流れ去る景色の彼方に押しやられていった。


 テミンの樹海、その南の果て、チワの上流の小高い山の南面にその遺跡はあった。かつては山腹を覆っていたであろう威容もいまは崩れ果て、樹海の浸食を許している、その遺跡の北端、最も山頂に近く、それだけは直に岩盤を穿った巨大な洞窟が数層の高さに及ぶ口を広げていた。わずかに浸食をまぬがれた壁面には精緻な文様が彫り刻まれ在りし日の威容を忍ばせる、古の民の神殿の遺構だった。洞窟に入ればさらに高く広大な空間が、樹間を漏れてわずかに差し込む光の及ばぬ、底の知れぬ闇を湛えていた。
 その、闇の奥に小さく、光が点る。
 光の中に、人影があった。
 そこは祭壇か、四方から中へ向けて幅広い階段状に高くなった方形の台上の中央、胸の高さほどもある紫金の煌めきをちりばめた黒曜石の石壇が据えられている。灯火はその檀上を照らすように立てられた円柱の頂き、一抱えほどもある石盤の上に灯されている。人影は壇上、炎のつくりだす光輪の中に横たわっていた。
 黒曜石の石壇は闇に溶ける。夜空に浮かぶように見えるその人影――エリは、どれ程の時をそうして横たわっているのか、灯火の光に浮かび上がる、目を閉ざし、屍のように横たわる、その顔はやつれ削げ立っていた。
 森のざわめきさえ遠いその闇の底に、その時つと、密やかな足音が忍び込む。波打つ金褐色の長髪、金褐色の肌、その輪郭が樹間をもれる背後の光を浴びて一瞬、明るく輝く、片手に布包みを提げたリーギンだった。
 微かな逡巡に束の間、脚を止めたリーギンは、重い足取りで、ひそりと、奥の闇、エリの元へと向かった。




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