双影記 /第7章 -5
手前の床に手にしていた包みを置く、リーギンは石壇の傍らに跪き、壇上のエリをうかがった。
「エリ――‥‥」
おずおずと呼びかける、声に返る気配はない。微かな安堵の息を漏らし、身を退らせる。その肩に不意に、ずしりと重く、エリの手が置かれた。
息を呑む音が喉に擦れる。その身体が強張りついた。
「何日――寝ていた‥‥」
低く、かすれた声が問う。
「二十一日‥‥に‥‥なります――」
喉にからむ声で応える、リーギンの肩を押さえ込むようにつかみエリは上体を起こした。石壇に半跏したその影の中に双眸が紫金の輝きを放つ。
「水を――」
促され、足下に置いた包みを開き瓶を取りだしたリーギンは紫金の凝視から逃れるように顔を伏せ、エリに差し出す。
ゆっくりと、心ゆくまで水を飲みながら、エリは薄く含むように笑った。
「お前の声に呼び戻された」
思わず顔を上げるリーギンにエリの顔を見ることはできなかった。ふたたび横たわり、放恣に片膝を立てたエリが物憂げに命じる。
「話せ」
「――今、両軍は、チワを挟んで睨み合っています。アルザロは人質としているはずのアテコントを返せない。アテコントでは、主を奪われた家臣共がいきり立っています。死体が見つかればもう止めようがない、王都からの援軍が間に合わなくとも、チワを越えてなだれ込むと――」
「リーギン」
聞くだけのことを聞き、さえぎる声に語尾を呑む、リーギンの恐れていた声が降る。
「こい」
リーギンのほっそりとした背を戦慄が伝い落ちる。
ニルデアの王都オーコールからこのテミンの遺跡にいたり、集めたエク・エランを頤使して両国の対立を煽り機が熟するを待つ間の一月余、幾たび聞いたか知れぬこの言葉だった。
拒むことは許されぬ、さりとて、逃れようなどとは思い及ばぬリーギンだった。それでも、かろうじて声を絞る。
「――しかし、このように、神聖な場所で‥‥」
「神聖?」
返る声はむしろ苦々しい。
「器にすぎぬ。こい」
もはや、あらがえなかった。戦く手で帯を解き胸元をくつろげる。すべて脱ぎ落とすのに手間はかからなかった。
全裸になったリーギンは細いひもで首からさげていた小瓶を手に取る。
小瓶には香油が満たされていた。
それはオーコールの廃墟で二度目にエリに強いられた時に与えられたものだった。常に身につけていよと命じられ、そのことの度に使ってきた、その、灯火を弾いて金色に光るとろりとした液体を手にとり、手早く自らの内に塗り込める。そして、くずおれそうになる脚を踏みしめてエリの横たわる石壇に上がる。
傍らに踞り、震える指でとりだしたエリのものを口に含み、いまだ、たどたどしい舌を絡めていった。
大きさも知れぬ闇の底にともった光、光の中に籠もる淫靡に濡れた音は闇に呑まれる。
エリは懸命に仕えるリーギンには目を向けようともしなかった。ただ中空の闇に視線を据える。内なる熱が高まるにつれて、その双眸からはしだいに紫金の輝きが薄れていくか、やがて熱い吐息とともに常の色を取り戻した双眸を閉ざした。
「入れろ」と。
口の中に育っていくものに懸命に仕えながらも、リーギンの片手はさらに懸命に自らの身体をほぐしていく。
そして投げられる、逃れられぬ言葉に、背筋を伝い落ちる戦慄に耐えながら上体を起こしたリーギンは膝立ちになってエリの腰をまたぎ、ゆっくりとその身を沈めた。
三月前、オーコールを発った時は、まだ雪の残る早春だった。アルザロとオルテリーが交戦状態に入り膠着の様相を呈し始めたことを見定めて戻ったいま、北国のニルデアの地もしたたるばかりの新緑に覆われている。
テミンの樹海を抜けた街道沿いの旅宿に入ったのは早暁、旅人からさえ忘れられたような、さびれた旅宿にも影のように住むものはいた。歴代のエリの頤使に従いヨレイルを経巡るエランと土地の娘との間に生まれた者達だった。身体のどこかにヒタンの血の継承を示す彼等を、純血たるヒタンはフェセと呼び、わずかに蔑みのこもった視線を向ける。
常に前触れもなく現れるエリに黙々とかしずき、なすべき事をなせば促されるでもなく住居としている奥棟に引き上げるフェセを、かつては人とも思わなかったリーギンだったが、エリの前では面を伏せる彼等が己に向ける視線に気づいたとき、その屈辱に戦いた。
フェセにまで侮られなければならぬ、そのことへの憤懣はやり場のない憎悪となって身内に沈む。
そして、時を合わせたように、あの男が現れた。ラデール侯ルデス。
――いや、ように、ではない。合わせたのだ。エリがその力を使い、この日この地に到るように呼び寄せたのだろう。
それほどに、
寸暇を惜しむほどに、求める相手であるのだ。
じりじりと身内を灼く憎悪に煽られるように、リーギンはゆらりと前に出ていた。
離れがたくなおも肌を貪り続けるエリに身をまかせながら、ルデスはエリの後首にまわした優美な指に癖のある灰色の髪を絡め、すきとくようにまさぐる。
いつからか、癖になってしまったそのしぐさが、つと、止まった。
組み敷かれた白い身体に戦きが走り、弓なりに胸を突き上げる。
思いの知れぬ淡い金の双眸がゆらめき、熱く潤む。
それでも圧し潜められる吐息に、密着した身体の間に差し込まれていたエリの手が無惨な力を加えた。したたかな指にいたぶられる苦痛と疼き上がる快感に身悶える、ルデスは張りつめた五体をたわめ、額をエリの肩に押しつけた。
その口から漏れる熱い吐息に誘われるように、ずくりと脈打ち、ふたたび漲り立っていくおのれに、エリの胸を熱い陶酔がひたしていく。
いつもは冷たく静もっているこ奴が、いま、これほどに熱い‥‥そのことに。
おのれを包み込む、その身の熱さに。
エリはおのれの肩から引きはがすようにその顔を見つめた。
浅黒く染められた肌と褐色の髪は、それでもその面差しの清冽さを失わせてはいない。
そして、汗で貼りついた髪をかきのけた高い額の下、閉ざされた双眸、ふるふると震える睫毛に、薄く開き熱い吐息を這わせる口元に、
熱くうねり上がる戦きに耐えるその姿に、エリは魅入られる。
だが‥‥足りない‥‥
‥‥まだ、足りない。
「目を、閉ざすな、開け‥‥」
言われるままに、ゆっくりと開かれた双眸が灯火の光を受けてぬれと光る。ただ、欲情に濡れる。
――瞳は、心を映すという。この、思い知れぬ双眸はけしてその心の内を映すことをしない。それでも、
光を含む淡い双眸がおのれを映すを見れば、心とられるおのれがいる――思いは苦い。
それを打ち消すように、エリは激しく抉り上げた。繰り返し、繰り返し――
弓なりに反らした喉に苦鳴を飲み込み、戦き堪えるものを、それでもおのれを曝すことをしない、遙かな高みに静もるものを、それにより、おのが内に引きずり下ろそうように、苛み――果てた。
「少しは、治まったか――」
ようやくに身を離し大卓を下りたエリの耳に、低くかすれ心地よい声が、不思議な韻律を刻む。自らも身を起こし、大卓を離れたルデスは椅子に立てかけてあった大剣を手に、戸口に向かう。
「そのなりで何処へ行く」
脱ぎ捨てたものをまとおうともしないルデスに、エリが不審げな声を投げる。
「裏に、泉があったのではないか」
見返りもせずに出て行くルデスを追った、エリの視線がその時初めて、戸口の傍らに佇むリーギンの上に止まる。
エリの視線から逃れるように顔を伏せた、刹那、その上に捉えた表情に、
「おのれは――」
声は凍てるような怒気を孕む。
――見られた‥‥
リーギンは竦み上がった。あらん限りの侮蔑を込めてルデスを見た、それを、エリに知られてしまった――絶望に。
フェセに向けられたと同じ視線を、この、とり澄ました貴族に投げつけてやりたい、おのれがあじわわされた屈辱を、この男にもあじわわせてやりたい、衝動は他愛もないものだった。
しかし確かに視線を合わせた、相手は眉を動かすさえなくリーギンの思いを黙殺した。そして、その代償がいかに高くついたか、今にして悟る、リーギンは拉がれた思いでエリの手に光る白刃を見遣った。
――殺される‥‥
流れるようなエリの手の動きは、だが、外の闇から投げられた物憂げな声に制される。
「エリよ」と。
「これは、お前には関わりなきことよ」
リーギンに視線を据えたまま苦々しげに吐くエリに、薄く嗤いを含む声は応える。
「つまらぬことをする」
声は風に散り、ひそと静まった闇の中をかそけき足音が離れていく。追うようにエリの視線が流れる、瞬刹、白刃が閃き鋭い音がリーギンの頭上を襲う。
「二度はないぞ」
冷然たる声を残しルデスの後を追う、その姿が闇に消えるのを待っていたように、リーギンの膝が崩れた。全身を冷たい汗が濡らす。知らず、詰めていた息を吐き、頭上の壁に、突き立てられた白刃を喪然と見上げる、リーギンの全身が瘧のように震えた。
そして、しだいに衝撃が静まっていく中で、リーギンは悟らされる。何がおのれを救ったか――あの男が制さなければ、エリは片々たる逡巡もなくおのれを斬り捨てていただろう、その耐え難いまでの屈辱、
――いっそ、あのまま殺されていた方が‥‥
だが、
それがおのれを欺く嘘であることを、リーギンは知っている。
かつて、グーツの宿で初めてエリに犯された夜、
死にたい――と願い、エクの師たるエクルに、自ら死ねよ――と突き放された、リーギンは死ぬことができなかった。できぬままエリに従い、その、気分の赴くままに玩弄され続ける、フェセにまで蔑まれるおのれ――なのだ。だが、
――あの男は、死を願ったこともあるまい、
富も栄誉も一身に担いながら、保身のためには、恥じることもなく男に身をまかせ、その忠節を購う――
それでも、エリが求めるのは、あの男であり、リーギンではない。リーギンは満たされぬ間を埋める、捨て石に過ぎない。リーギンが、あの男に対しわずかに蔑みを向けただけで、エリは虫でも叩きつぶすようにリーギンを殺そうとした。
あの男と、おのれの、なんという違いか――
不意に、リーギンはおのれの頬を伝う涙に気づく。腕を上げ、刮げるように荒々しくぬぐい去った。
――エリだとて、ただの男に過ぎない。
歯軋るような思いで、リーギンはおのれの内に毒突き、立ち上がる。壁に突き立った短剣を引き抜き、二人の消えた夜の中に走り出ていた。
エリが湖岸に至ったときルデスは岸から離れた、細腰ほどの深さの水の中に立ち、旅の汗と埃を、エリとの情交の残滓とともに洗い流していた。気配に、濡れた髪を背に払いわずかに半身を向ける。
濡れた肌の上に仄明るく月光を宿すその姿は暗く、得体の知れぬ戦きをエリの内にもたらした。ふと気づけば、そのまま湖水の中に溶け去ってしまうのではないか――
水を蹴立てるように歩み寄ったエリは、背後から抱きすくめる。先ほど、あれほどに熱かったものはいまは水をまとい冷たく醒め、ただおのが吐息だけが熱い。その熱を移そうようにエリは濡れたうなじを貪った。
リーギンは、エリの残した短剣を手に茂みの中の小径を走る。ほどもなく、
小径は茂みとともに途切れ、行く手には広やかな草地が、その向こうには暗い湖面が広がっている。
その湖面に腰までを沈め、周囲にきらめくさざ波を立てながら絡み立つ二人の姿があった。
殺したいのはエリか、あの男か――おのれにも判然とせぬままに小径を外れ湖水を囲む茂みに身を潜めたリーギンは気配を消し、水から上がってくるものを待った。
湖岸の草むらには無造作に置かれた大剣が降りそそぐ月光を弾いている。あれを、水から上がりふたたび手にする前に、事を、決する――気配を消し茂みの闇に潜む、リーギンに、それは容易いことのはずだった。
いかにフェセが侮ろうと、おのれはエク・エラン――エランとして選ばれたものの中からさらに選ばれた戦士なのだ。徒人であればその影さえも捉ええぬ、戦場でなら知らず、いかに名の知れた騎士であろうと、風のように森を渡り、目指すものを倒す、その技が後れを取るとは思えなかった。
そして、
リーギンはエリの腕の中で執拗な愛撫に身を震わせるものが、つと、エリの肩にあずけた首を傾げ、おのれの方に顔を向けるのを見た。
わずかに仰向いた顔のなかで淡い双眸が月の光を吸って冷たい火を点す。
見えているはずはない――
だが、
――だが‥‥
不意に惑乱する、リーギンが我に返ったとき、身を返すようにエリの腕を逃れ出たものは岸に向かって歩き出していた。微かな震えが背筋を走る。動けなかった。滾り上がっていた激情がシンと凍てる
「待て――」
焦れたようなエリの声が追う。
「続きは中に――してもらおう」
すげなく応えたものは、草の上から大剣を取り、後も見ずに行手の茂みの中に消えた。
あの夜――俺はあの男に二度までも命を救われたのだった――
廃墟の瓦礫の散乱する床に腰を落したまま天空を見上げる、リーギンの目に、いつか、涙は涸れていた。
かつては、憎いのは、あの男か、エリか、それともおのれでは死ぬこともできぬおのれ自身であるのか――それさえがよくはわかっていなかった。
ただ、その胸の滾りを叩きつけたかった。
――だが、
銀沙をまいたような夜空に、皎として他の星辰を圧する月――その光を含み、おのれを見据えた双眸、その双眸に射すくめられ、身を潜めた茂みの闇に、ただ、居竦むしかなかった――思い返すリーギンの胸を疼痛が噛む。
所詮、勝てるような相手ではなかったのだ、その、持てる、すべてにおいて――
それなのに、今、リーギンはなしようもなくエリに囚われている。
「どうして――」
こうなったしまったのか‥‥その、自らの思いが言葉になったような突然の声に、愕然と、リーギンは視線を向けた。
壁を伝う螺旋階段の闇に半身を沈め立つシグリーの姿があった。その双眸に、強い光を宿してリーギンを凝視している。
「シグリー‥‥」
緩慢に立ち上がったリーギンに応えられるわけはなかった。
「‥‥何を――」
いっている――と、反問する言葉を呑み、リーギンは視線を逸らした。脱ぎ捨ててあったものを手早くまとっていく、兄の姿を見つめる、シグリーの顔が歪む。
「――いやだ‥‥」
満ち上がった思いが吐息にこぼれ落ちたか、シグリーは押し殺した声で叫んでいた。
「こんなのはいやだ! 兄さんがしないならオレが――」
言いざま、身を返したシグリーが階段を駆け下りる、刹那、リーギンの身体がはじけるように奔った。
シグリーは階段を下りきることはできなかった。一気に下層の広間に飛び降りたリーギンが身体をぶつけるように、駆け下りてくるシグリーを壁との間に押さえつけていた。その腕が頤の下で喉を圧迫する、苦しさにシグリーがもがいた。
「何を――しようという、シグリー」
「兄さんこそ、なぜ、何もしない――いっそ、相手を――」
絞り出すようなシグリーの言葉は、かすれた悲鳴に途切れた。
この頃、急に上背を増してきたシグリーはすでに兄と並ぶほどになっていた。だが、ほっそりと見えても無駄のない筋肉に鎧われた兄に比べれば、いまだしなやかさの勝る少年の身体を持つ。技でも、力でも抗すべくもない。喉元を押さえる腕を押し返そうとするシグリーを、その腕の一振りで、リーギンは床に叩きつけていた。
それでも意地強い視線を向けるシグリーに、つと背を向け、階上に足を運ぶ。
「なぜだ――兄さん‥‥」
「――それをして、どうにかなると思うのはお前がガキだからだ。それでも、無駄死にしたいというなら、止めはしない。だが、この程度で何ができる。おまえはまだ、雛に過ぎない」
声は乾いてそっけなかった。
振り返りもせず階上に消えるリーギンを視線で追う、シグリーの顔が切なげに歪む。
――わかっている‥‥
そんなことは、痛いほどに、わかっている――その場に座りこみうつむいたシグリーの背が強張り、膝をつかむ両手が握り込まれた。