双影記 /第8章 -1



 王都オーコール、その王城の西、ラデール家公邸の丘を、ゆったりと馬を打たせて登る騎影があった。
 遠目にもその雄偉さが窺える人と馬はやがて、丘の頂から中腹近くまでを被う森に呑まれる。黒く歳ふりた木々の間には踏みならされた道が通っていた。
 道をたどる男の髪が樹間を漏れる西日に明るい金褐色の輝きを放つ。ラデール第二騎士団長アルウェル・ハドイーだった。
 この日、ルデスが城から戻されて数日が過ぎていた。報せを受けリクセルから駆け付けたウォリファは、迎え出た家令のオドーにルデスが森の館に暮らしていると聞くや、ダルディとは言葉も交わさず公邸を飛びだした。
 気の急くままに馬を駆るウォリファが従者一人を従えたまま、悠然と随従するアルウェルを遅れるに任せ、置き捨てるように森の中に姿を消して久しい。
 道はやがて小さな草地に、そこに佇む小館に行き着く。館の横手の厩にはすでに見覚えのある二頭の騎馬が繋がれていた。館の前で馬から下りるアルウェルを待ち構えていたように、厩から迎え出たウォリファの従者が手綱を取った。
「ウォリファ様が、待ちかねておいででしょう――」
 軽く頷いたアルウェルは、それでもゆったりとした足取りを崩すことなく歩廊を上がった。
 背に扉を閉め、小暗い屋内に目を細める。そのまま何かを待つように脚を止めるアルウェルに、玄関に続く広間の控室から姿を現したウォリファが僅かに癇だった声を投げた。
「遅いぞ。何をしていた。眠り込んで馬から落ちたかと案じていた」
「真にな。このような陽気には草の上で昼寝でもしたくなる。もう少しで眠り込むところでは、あったな――」
 相変わらず人を食った物言いにウォリファの眉がしかめられる。陽は既に西に傾いている。
「昼寝だと? へらず口を――」
「左様さ。――で。ご様子は――いかがかな――」
「確かにおやつれだが――馬に乗れぬ程とも思えぬ――」
 後ろにアルウェルを従えて控室から広間に戻りながら、ことさらに声を高める。
「目と鼻のハソルシャで病になりながら我らには何ひとつ知らせて下さらぬ、ダルディ兄はこちらにお止めになりながら、ただ、休みたいだけだなどと――だが、それであるならリクセルにおいでになればよろしかろうに――何故、このような処に引きこもらねばならぬ? わたしには、わからぬ――」
 大卓のまわりに並べられた椅子の一つにかけながらウォリファは対面のルデスに睨むような視線を送る。深々と椅子に身を沈めたルデスは、目礼するアルウェルに微かに頷き返した。薄く苦笑を刷いた顔は、変らぬ静けさを湛えている。
 アルウェルはウォリファの横に少し離れた椅子を引き腰を下ろす。目の前の大卓の上には酒瓶と杯が手も付けられず並べられていた。
「ところで、殿にはカヴェスの噂をお聞きか――」
「カヴェスだと?――」
 唐突な問いに、訳がわからず苛立たしげな声を上げたのはウォリファだった。アルウェルは意に介したふうも見せずに大卓の上の酒瓶に手をのばす。
「先年、王が夭折し、デルーデンから嫁いだ王妃が幼王を立て国政を壟断して家臣と対立していたそうだが、ついに一騒動もちあがったとな――。家臣等の領袖であった先王の弟が何者かに襲われ命を取られかけた――」
「そのようなこと――今、話さねばならぬことか!」
「しかしウォリファ様、我らは見舞いにまいったわけだ。世間話などしてお慰めするは臣下の務めよ――」
「わたしは違うぞ。真は、兄上の存念――お聞きしたかった。この度の王の仕打ち、あまりのこと――兄上はどう、思いか――」
「だが。それはもうお聞きになったのであろう」
 押し黙るウォリファの、それが応えとばかり、アルウェルは勝手に注ぎ分けた杯を手に取った。
「それにこの話、面白いのはこの先だ。当然、王妃の手のものの仕業であろうと、今度は王弟侯が王妃を襲った。王宮に急襲し王妃を幽閉、自ら幼王の摂政として立ったのだ。ついでに王妃の息のかかった者どもが一掃された。デルーデンでは放置もしておけぬ、かの温厚をうたわれたドーク・シュタッファル王もこれを謀反と断じ、鎮圧を名目に兵を起した――」
「そ――のような話‥‥どこで仕入れた‥‥」
「懇意にしている商人が、先頃デルーデンより戻っての噂――、王ドークが動いて怖れを為した王弟侯は南のサーロキアに救いを求めた。今ではカヴェスを挟んでデルーデンとサーロキアが睨み合っているとな――まったく、面白いことがあるものよ」
「他国のことだ。いかようにも嗤えようさ」
「左様さ――何故に今頃、カヴェスごときをかまわねばならぬかとデルーデン王も頭を抱えていよう。何者の仕業かはわからぬが、王弟侯を襲うなど消えかけた火に油を注いだようなものだ。いかにも愚かしい所行とな――」
「何者といって、王妃の手の者ではないか」
「それはどうか。刺客がとらえられたわけではない。たんに襲われた王弟侯がそう断じたまでのこと。存外、両者を争わせデルーデンの力を削ぐために他国の手が動いたとも考えられる――」
「では、サーロキアが――」
「それも――あり得る――」
「――いずれにせよ、憶測の域を出ぬ。我らには関わりのない――」
「――とも言えぬ。サーロキアとデルーデンが角逐している隙にと、その東のオルテリーがアルザロを窺いだしたとあれば――我らも寝てばかりはおれぬかも知れぬ」
「その商人、デルーデンから来たくせに、よくオルテリーの動向などわかったな――」
 アルウェルは太平楽な笑声を上げた。
「オルテリーに関してはさもありなんと推察したまでだが――」
「――何故だ。デルーデンと、あるいはサーロキアと結んでいずれかを攻めるとは、思わなかったか――」
「この春ニルデアに大敗して以来、アルザロの国力はまだ整ってはいまい。王ゼオルドをはじめかなりの主立ったものを失った挙句、新王ランベートには信望がない。国境の領主にはグーツを見限ってオルテリーに誼を通じようとするものもあろうからな。まずアルザロの辺境を取り込み、次いで――ということになろうかな。その間、両者には力を削ぎ合わせておけば、オルテリーには願ったりであろうよ――」
「――恐ろしいことをいう‥‥だがそれも憶測に過ぎぬではないか。いかに信望がない王とは言え、己が国を見限るか――」
「いずれ滅ぶと思えば、そのような者も現れよう」
「――だが、大敗といっても滅びるほどのものではなかった。時を置けば、また――」
「それは国を修めてのこと。そのような国情も顧みずスオミルドと結び、一気にニルデアを攻め獲ろうと謀れば逆につけこまれ、スオミルドに食われようとな――」
「まさか――」
「だとよいが。そのような策を弄していたことが漏れ、知れ渡ったのは事実らしい。宿敵ニルデアを撃つためとはいえ、狼を屠るために獅子を呼び込むようなものと危惧するものは少なくなかろう」
「スオミルドが獅子で、我らが狼か――」
「巧いたとえだ」
「どこが!」
「ゼオルドの前王の代に一度滅ぼされかけたアルザロのものには当然の思いであろう。ゼオルドによって失地の半ばを回復したとはいえ、スオミルドに対する怖れは根強いものがあろうからな――それをあえてスオミルドと結ぼうとはランベートも面白い男よ」
「――だが。それであるなら、何を案ずる? オルテリーには勝手に取るに任せ、我らはそれこそ寝ていればよかろう」
「スオミルドさえ動かねばな――」
「スオミルドが――ランベートに泣付かれ、たとえ動いたとして、そうなれば相手はオルテリーだ。我らまでは手が出まい。違うか?」
「そうなれば――当然のことに、オルテリーはニルデアと結び、アルザロを衝くと、スオミルドは思うであろうな。であるならいっそ、オルテリーと結び、互にアルザロとニルデアを分け獲りにするが得策――」
「あきれたな! カヴェスの騒乱が、どうしてそうなるのだ? スオミルドだと? オルテリーがアルザロを侵すさえ推量に過ぎぬのに――」
「九分方――侵そうな――」
「たいした――自信だ――」
「さて、どちらが先であるのか。スオミルドとオルテリー――ハルツァの西に出るはスオミルドの宿願とも言われている。アルザロにランベートのような王を得たこと、スオミルドにはまたとない好機といえよう。いずれにせよ、ランベートもつまらぬ真似をしたものよ――」
「つまらぬ――というなら、カヴェスの刺客よ。まさかニルデアまで飛火しようとは思わなかったであろうが――」
「いや――」
「いや?――」
「何者であるかは知らぬが――このニルデアには救いの神――」
「――何故だ」
「オルテリーのことがなくともスオミルドは動いたであろうからな。となれば、ニルデアはスオミルドとアルザロ両国を相手にし、さらには背後をデルーデンに窺われる――ということになったであろうよ。だがカヴェスの刺客のおかげでアルザロはオルテリーに、デルーデンはサーロキアに手いっぱいでニルデアにはかかれまい。相手がスオミルド一国であれば何とか勝算が立たぬでもない――」
 ウォリファは凝然としてアルウェルを見た。広間にはいつか薄闇が下りていた。その薄闇の中で薄笑を含んだ菫色の双眸が光を含みじっとルデスを見据えている。見返す、淡い双眸には何の感懐も現れてはいなかった。
 獣――得体の知れぬ獣がそこに蹲っているような怖れがウォリファの背を冷たい流れとなって伝い落ちる。ウォリファは不意に立ち上がった。
「誰か――灯りをもて。ここには心利いたものが一人もいないのか――」
 奥に向かって癇だった声を上げるウォリファに応えるように、それまで無言で二人の会話を聞き流していたルデスが椅子を立った。 壁際の暖炉の火を掻き起こし燃え上がった炎を燭台に移し大卓に戻る。唖然としてその姿を目で追っていたウォリファが微かに喘いだ。燭台を卓上に置いたルデスは椅子には戻らず、ウォリファに歩み寄りその肩を抱きしめていた。
「お前の気遣いはうれしく思っている。だが――いかに王との間に確執はないと申して、今ここでわたしがオーコールを離れれば、あらぬ憶測が飛び交おう――」
 低く、かすれた声は、沁みるような感懐を湛え、ウォリファを満たしていった。
「兄上‥‥」
「――よく、来てくれた。が。もう日も暮れる。闇の下りぬうちに戻るがよかろう」
 抱擁を解き、身を離したルデスの双眸を貪るように追いながら、ウォリファは覚束なげな声を上げる。
「‥‥だが。従者一人置かず――身の回りのことは、食事は、どうされておいでだ‥‥」 それは当初の語勢を失い、兄に対する懸念を響かせていた。
「その日のものは昼前に運ばせる。不自由はない。望んでしていることだ。ダルディにも責められたが――しばらくは、気ままにさせてもらいたい――」
 穏やかな笑みのうちに見つめられて、ウォリファは視線を落した。ルデスは己れより一回り小柄な弟の背に腕を回して肩を抱き、押し出すように玄関間に向う。
「さあ――送ろう――」
 ゆらりと立ち上がったアルウェルが従った。
「兄上は――スオミルドをどうお思いだ。先程のアルウェルの話を――」
 去りぎわにウォリファが聞いた。
「言い足さねばならぬことは、さしてない。だが――雪が降る前に、わたしもリクセルに戻ることになろうな」
「それは‥‥ではやはり‥‥スオミルドは‥‥」
「わかりはせぬ。まだ何も起ってはおらぬのだ」
 館の正面の歩廊に並び、従者の引いてくる馬を待つウォリファの傍らでルデスの体が、その時微かに震えた。
 夕闇の中に、新たな騎影が森を抜け出て近づいてくる。
「オダン‥‥」
 吐息にも似た声がその唇に這う。視線を往復させながら、それを聞いてようやくに新来の者がだれかを悟りウォリファが驚きの目を向ける。
「この暗さで、よくお分りだな。確か、トエスに帰っていたと聞くが――噂を耳にしたのだな。兄上を案じて出てきたか――」
 歩廊の前で馬から下りたオダンが一礼を残し厩に向う。ウォリファは従者から手綱を受け取り騎乗した。
「では兄上――お待ちしている――」
 見送るルデスの傍らに、厩から戻ったオダンがひっそりと佇む。
 三個の騎影が樹間に消えた。
 ルデスは屋内に戻ろうとはしなかった。
 微かな葉ずれの音が辺りにこめる。
 いつか。
 闇が地に降り、仄白く銀砂が頭上を被う。
「‥‥どのように‥‥逝かれた‥‥」
 低くかすれた声は静かだった。
 オダンは身を震わせた。
「それを‥‥お聞かせできたら‥‥」
 嗄れた声が、虚ろに響く。
「何者か――。ロッカより連れ去り‥‥もはや‥‥」
 己が声に脅かされたように、オダンは口を噤んだ。佇むルデスは僅かに顔を上げた。星明かりに仄白く浮かぶ髪が微かにそよいだ。
「酒がある‥‥飲もう‥‥」
 やがて、低く呟き、ルデスは踵を返した。



 薄暗い広間に暖炉の火が照り映える。大卓の上で蝋燭が燃え尽きようとしていた。
 酒瓶は既に空だった。
 ことの顛末を語り終えたオダンは唖然とする思いで、常にはほとんど口にしない杯を重ねるルデスを眺めていた。
 オダンの前に、その顔は青褪め酔いの色さえ帯びようとはしない。淡い双眸の中で蝋燭の炎が揺れる。
 炎の中に、何を見ておられる‥‥オダンの問いは口に上ることはなかった。
 その時、沈黙の中に蝋燭が燃え落ちた。闇の下りた大卓の上で、不意に我に帰ったように、ルデスが吐息した。
「リファン、であろうな‥‥」
「リファン‥‥」
「ハソルシャから戻り登城した。以来、返されてはいない‥‥」
「では‥‥あの御方が‥‥」
 オダンの声は鈍い。ルデスは低く嗤った。
「わたしは‥‥見縊っていた。報いであろうな‥‥。さすがに‥‥同じ血を分けた御方よ‥‥この身はもう、必要とされぬ‥‥登城するには及ばぬと申された‥‥」
 オダンは押し黙る。
 やがて、
「‥‥嘘を、申されるな‥‥。御身は‥‥誰であれ決して、見縊るなどできぬ御方よ‥‥。あの御方に、何を‥‥申された‥‥」
 疲労の滲む声であった。
「それは‥‥この身を、小心と嘲るに等しいな‥‥」
 嗤い紛らせようとするか、ルデスに、だが、
「違うと‥‥申されるか‥‥。悲しい、御方よ‥‥。それ程に‥‥死なれたいか‥‥」
 オダンはむしろ自らに問うように呟いた。
「死にたい? ‥‥いや。覚悟はできている。それだけのことはしてのけた‥‥
‥‥かつて、言った‥‥それだけの、ことよ‥‥」
「あの時は‥‥まだ何も、起ってはいなかった。いつ‥‥見切られた。‥‥わたしを、ハソルシャに呼び戻すと、された時か‥‥。あのようになってしまわれた今、わたしがこの手にかけようことは‥‥御身には自明であったろうからな。元に‥‥戻せぬとあれば、御身は死ぬわけにはいかなくなると‥‥この身が考えようことは‥‥」
「オダン‥‥」
「まさか御身に‥‥あの御方を見捨てること、できようとは‥‥思わなかった。‥‥それ程に‥‥御苦しいか‥‥」
「わからぬな‥‥。見切られたは、わたしだ‥‥」
「それを‥‥信ぜよと? 御身なればあの御方を操るなど、赤子の手を捻るより易かろう。何を言いどのように扱えば、どう、応えられるか‥‥」
「それこそ‥‥見縊りすぎだ。確かに、こよなく直ぐな御方だ。‥‥それに増して。聡い、御方だ‥‥」
「スオミルドの、ことも、ある‥‥」
 オダンは低く声を絞る。
 灯火も落ち闇の下りた広間に、暖炉の照り返しを受けて共にその半面を鈍び赤く染めながら向き合っていた。
 共に、感情を殺ぎ落した相手の顔に視線を向けながら、その双眸に闇を宿し、思いは何に向けられているのか――
 ふと、ルデスの顔が気弱げに歪んだ。
「お前ばかりは‥‥欺けぬか‥‥」
「御身ほどに‥‥才質に恵まれた御方が、何故それ程に‥‥自らを疎まれるか‥‥」
 吐息に似た嘆声に、返る声はなかった。
 静かに、オダンは椅子を立った。
 一揖し立ち去るオダンをルデスは無言で見送る。その耳に微かに扉が開き閉じる音が響き、静寂がこめた。




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