双影記 /第8章 -3
侯家の間より戻った王はエイゼルも下がらせて主塔の望楼に上った。
この夏、ハソルシャで奇禍にあってより王は変わった。それはこのような所にも現れた。かつては、執務を終えればエイゼルら近侍のものをあつめてその他愛ない談笑に聞き興じたものだった。いまは一人沈黙の中にこもり、時を移ろわす。
ラデール侯ルデスを塔より解放して以来、主塔の望楼に佇み、思い知れぬ視線を遙かな地平に向けたまま何に思いをさまよわすか、それは執務の果てた午後の日課ともなっていた。
エイゼルは望楼に上がる階段塔の入口に片膝を落とし、王の背に気遣わしげな視線を向ける。いつか日は西に傾いていた。漆黒の髪を乱して吹きなぶる風は冬の気配を漂わせ、湿りを帯びた涼気を含む。
「陛下、風が冷えてきました。もう、下へ戻られては――」
思い決したエイゼルの声に、我に返ったように振り返る、王はふわりと笑みを含む。
「そうだな」
労うような笑みに胸を噛まれ、エイゼルは思わず目を伏せた。その、甘酢い痛みに。
望楼に午後の時を過ごすようになった王は、また、侵しがたい静けさをも身にまとうようになっていた、それが、ラデール侯ルデスの故であることはエイゼルには自明のことと思われた、この痛ましいほどの孤独を王の上に感じるのはおのれだけであろうか、
エイゼルは、不遜とも思えるおのが思いに戦く。
――もし、この身に、お慰めできるものなら――と。
翌日、王は朝の執務を終えると昼食もそこそこに、久方ぶりの野駆けに出た。エイゼルも供の一人としてその一行に加わっていた。一行は王都南郊のゆるやかな丘陵地帯に向かう。それはかつてエリを従えたルデスも馬を駆った丘でもあった。
ラデール侯がいれば馬を競わせたであろう――ゆったりと馬を進める王に従いながら、エイゼルの思いはいつか、ここにいない人の上に向かう。常に念頭から去ることをしないその面影だった。だから、帰路、王がラデール家公邸に立ち寄ると言わなかったなら、むしろ、意外の思いがあったろう。昨日、侯家の間でダルディ・ラデールに下問あったときから、これは密かに予想した訪いだった。
「今日は、ルデスを見舞うために立ち寄った」
家人を従え驚きを見せることもなく一行を迎え出たダルディ・ラデールに王は馬上から告げた。だが、性急な王の言葉に、ダルディは、わずかな困惑を示して顔を伏せた。
「当主はここには、おりません。別館にて、静養しております。陛下においでいただくは、畏れおおいこと、なんのおもてなしもかなわぬ館です――」
随従するものはすでに馬を下り、迎え出た者達に手綱を預けていた。エイゼルが轡を取るのを待って、馬を下りようとした王は、その動きを止め、問うた。
「かまわぬ。見舞うために立ち寄った。ではこのまま馬で行った方がよいか」
王の言葉に、困惑を振り切るようにダルディはうなずいた。
「はい。騎馬にて、案内させていただきます」
その言葉に、ふたたび馬に乗ろうとする者達を王が制した。
「みなは、供するには及ばぬ。ここで待て。ダルディ、この者達を休ませてやってくれ」
時たま王が見せる抗うことを許さぬ気配をこの時もエイゼルは感じた。引かれてきた馬に乗り先導するダルディに従い、単騎で邸内の森に姿を消す王を、エイゼルは言葉もなく見送った。
森に囲まれた草地に立つ小館の前には、案に違わず、待つ姿があった。
突然の王の来訪を知らせてダルディが走らせた従士を脇に王を出迎えたルデスは、自ら王の轡を取り、ダルディを帰らせた。従士の手に手綱を預け、王、アルデを館内に導く。
ひそりとした薄闇の下りた館の内に人の気配はなかった。
玄関と広間を結ぶ控室に立ち止まるアルデを広間に進んだルデスが見返る。
「こちらへ、おいでにならぬか」
「――ここは、落ち着かぬ。他の、部屋がよい」
表情の読めぬ視線を向けるルデスは微かに吐息し踵を返した。
「では二階へ。居間なれば少しは落ち着かれよう」
ふたたび玄関間に戻り、正面の階段を二階へ向かう。
「ここには、お前一人か。身近く仕えるものは――いないのか」
「この身ひとつであれば――日に一度、通わせれば事足ります」
階段間の吹抜の高い窓から差し込む光を受けて、半身を向けたルデスが左手の扉を開き無言で招じ入れた、そこは、小振りな広間だった。
南側に並ぶ窓の光を受けて、対面する壁には中央に大きな暖炉が、暖炉の前には長椅子が置かれ、その奥の窓の下には机と数脚の椅子、机の上には読みさしたらしい本が開かれたまま置かれている。
椅子にかけようともせず暖炉の前に立ったアルデは、窓を背に立つルデスを見つめた。影になった顔に表情をつかむことはできなかった。
「嗤うといい。塔で、あのように言いながら、まだ二十日も過ぎていない――」
訥々と紡がれるアルデの声だけが、つかの間、沈黙を押しやる。
「――いっそ、お前を、抱けたらいいのに――」
その苦しげな声が絶えて、なお、返る言葉のない沈黙に、アルデは目を閉ざし顔を伏せた。凝然とそれを見つめていたルデスは、その時になってようやくに、ゆらりと前に出る。
その足はだが、アルデの傍らを過ぎ、暖炉の横の棚に向かう。そこには酒瓶と杯が置かれていた。やがて、芳醇な香りと、身近に立つ気配に、アルデは顔を上げる。
「御身は、この身に何を質したいといわれる」
差し出された杯を、それを持つ手ごと、飢えたようにアルデはつかみしめた。
「お前こそ、何故聞かない、リファンのこと、それとも、もう当人から知らされたか――」
「いや――」
「いや?――ではあの者はまだ――」
「あれ以来、行方を絶ったままに。――あの、お方とともに」
「な?!――」
「安心なさるがよい。亡くなられてはおらぬ。この手の、届かぬ処へ、行ってしまわれただけのこと」
それは、吹き抜ける風に似た、力ない声だった。告げられたことよりその声に、アルデは足元から戦き上がってくるものに身を震わせた。呆然たる声が口を衝く。
「ルデス‥‥」
「この酒、お飲みにならぬか」
ともに崩れ落ちていくような、あるいは、頽れようとするルデスを、おのれが必死につかみ支えているような錯覚にふと惑乱するアルデを、いつに変わらぬルデスの声が引き戻す。
「酒‥‥」
ようやくに自らがつかみしめているものを思い出し弛めた手の中に杯を残し、ルデスが身を退いた。
「この身に質されたいは、それだけか」
平静な、あまりに静かなその声調は、逆に疑念を呼び覚ます。あれはまこと、錯覚だったのか――
「――では、では、これから彼はどうすると、お前は考えている――」
「御身を、脅かすことだけはなさるまい。あるいは、スオミルドに向けて旅立たれたかも知れぬな――」
おのれの言葉に、その時初めてルデスはうすく笑みを含んだ。その一瞬、秀麗ではある彫刻のように無表情な顔が輝くような精彩を放った。一瞬のことだった。だが、その一瞬が、アルデの胸を抉る。こ奴は、ソルスを思えば、このような顔をする――
「なぜ――そう思う――」
苦しげに問う、アルデから視線を逸らし、ルデスは窓の彼方に視線を流した。
「かつて、申された。彼の国を知りたい、旅をしてみたい――あれは、何年前のことか、彼の国のアルザロ侵攻の事績を学んでおいでの時だった――」
それきり言葉は絶える。無表情に静もる横顔を見つめるアルデは胸元に突き上げてくるものを必死に、噛み殺した。
――だが、
「だが――お前はまだ、私の顧問官だ。昨日の子細はダルディから聞いたと思うが、補うべきはあるか」
ゆっくりと向き直った、ルデスは小さく一揖する。
「いや――この機を窺うのでない限り、今はただ待つ以外はないかと――」
「機を――窺う?!」
「アルザロ、デルーデン、いずれを侵すにもこれ以上の機はないと思うものが、ないとはいえぬ」
「私は――思わぬぞ!」
「そう、それでよろしいのだ。これは機に見えて、違う。ことにアルザロは、もし侵せば割れかけている国内が一挙に収束し、敵対してこよう。我らは引くに引けない泥沼に踏み込むことになる」
「――そうか。‥‥ルデス――」
「何か」
「――以前、デルーデンから婚姻の応否を問われたとき、お前は別の方途があると言った。
‥‥此度の、カヴェスの争乱、お前の手になることか――」
わずかに片眉を上げたルデスは、嘲嗤とも見える笑いに口元を歪めた。
「陛下は、この身を買いかぶっておいでのようだ」
否とも応とも言わぬルデスのその笑いにアルデは言葉を失う。これはそれほどに、嘲られるような問だろうか――
「もう、よろしいか」
扉に向かって半身を開き無言で帰ることを促すルデスに、脳が煮えるような思いで言葉を探す。何を、どう問えば、嘲られることなく、まともに応えてもらえるのか――
そして、唐突にアルデは思い至る。嘲ってみせたのは私に言葉を失わせるためだ。そのことを答えたくない、問われたくないが故なのだ――と。
では、返された言葉に意味はない。実のことを答えぬために、そのことから、アルデの意を逸らすために、口にしたものに過ぎないだろう。
そうまでして、答えたくないことなのだ、カヴェスに関わることとは。であるならそのことに、ルデスが関わっていないはずがない。
だが、答えることを忌むほどの、いかなることを為したのか――
「ルデス――」
疑念を口にできぬまま、思いの知れぬ顔を見つめるアルデは、つと吐息した。
「明日より、登城するように」
かろうじてそれだけを告げ、アルデは扉に向かった。
玄関間を出るまで無言で付従ったルデスは、アルデを館正面の歩廊に残し厩舎に向かった。ルデスの姿が館の陰に消えたとき、アルデは初めて、噛みしめるようにソルスを、思った。
――存命である、と告げたルデスの言葉が幾重にも谺し、アルデを、震わせる。
顔を灼かれその名も、王たる身分も、全てを奪われながら、なお、何の恨みも憎しみもなくアルデを見上げてきた、輝かしく真摯な光をたたえていたその黒瞳、リファンをハソルシャに向かわせた夜より、それはアルデを苛み続けてきた。
その黒瞳から光を奪い、二度と還らぬものとさせた――その、思いに。
――だが、ソルスは生きていたのだ。今なお生きて、いずこかの地に、あるのだ――
「陛下」
不意の声に我に返る、アルデは引き連れた馬の轡を取ってそこに立つルデスを見た。
「顔を――」
――拭かれよ、と差し出された小布に、おのれが涙を流していたことを知った。
東に連なる峻険たる峰々を見上げて暮らす民人に、その彼方に広がるワラシャの草原地帯は遠い。かつてスオミルドの国人がハルツァの地に至ったことがないように、カルセンの地にハルツァの峰を越えたものもない、そこは、遙かなる異界、見知らぬ国人の地であった。ゆえに、カルセンに住むものにはハルツァこそが世界の果てであった。
その、果てなる峰々を見上げて、その彼方に思いを馳せるソルスに、リファンは畏敬の眼差しを向ける。
この地に至ってすでに一月の余が過ぎていた。
初めは歩くこともままならなかったソルスが、いまは剣をとってリファンと打ち合うことができるまでに回復した。
昼の間は、小屋のまわりを歩き回り、剣を打ち合い、ときには弓を持って狩りをする。その合間に、崖下のわき水から水をくみ上げ、燃料とする羊の糞を集め、食事の仕度をする、つましくともする事はいくらもあった。
身体がままならぬ内はリファンにまかせきっていたそれらのことを、いまでは厭う風も見せず分け持つようになって、リファンを恐縮させた。が、
「お前とは、主従ではない」
と、笑いながら言うソルスに、リファンはさらなる畏怖を覚える。この方は奉られるだけの方ではないのだ――と。
この日も、リファンが豆と乾肉と乾野菜を煮込んでいる間に、羊の革袋にわき水を満たして運び上げていた。
シリンが運んでくるチーズとパンを切り分け、器を並べ、用意を調えて待っていると、髪から水を滴らせながら、戻ってきた。
「どうなされたのだ」
驚き問うリファンに、白い歯を見せて笑った。
「汗をかいたので水を浴びた。気持ちよかったぞ」
「――しかし、この時期に、もう冷たかったのではないか」
「浴びられぬほどではない。後でお前も浴びてくるとよい。さっぱりする」
言いながら、炉の前に腰を下ろす姿は、まさに一介の野人だった。着ているものはシリンの母アデラタによって剣などとともに届けられたもので、いまは亡きアデラタの夫である荘園領主のものだった。粗末ではないが質実なだけの衣服に身を包むいまのソルスを王と思うものはいまい。何より、その身にまとう気配が違った。半ば唖然として眺めるリファンの前で、当のソルスは、健全な二十一歳の食欲を示して、用意されたものを平らげていく。我に返ったリファンが、あわてて、負けじと食べ始めた。
シリンが来たのはそんな二人がまだ食べ終わらぬうちだった。
「リファン様、カイ様、お探しのもの、いましたよ――あ、もう食べ終わってしまう」
無遠慮に飛び込んできたシリンがまくし立てるのを、ソルスが笑いながら制した。
「今日はどうしたのだ。こんなに早くつくとは、何かあったか」
「そうです!カイ様!お探しのものが見つかった!だから早くお知らせしたくて、夜が明けるとすぐに出て来たんだ!」
「では、腹が減ったな。まだ残っている。よかったな。リファン――」
「はいはい、パンとチーズですね」
新たに切り分けられたパンとチーズにかぶりつくシリンに、ソルスが自分の器に盛った煮物を渡した。
「シリン、そんなに焦らなくてもよいぞ」
「でも!――一刻も早く――」
「そうか、だが、私はお前が食べ終わるまで待てるぞ」
愉快そうに笑うソルスの双眸が明るくきらめいた。
それは、この前シリンがこの小屋に来たときのことだったが、話をするようになってすぐに親しくなっていたシリンにソルスが聞いた。
「ここは、ハルツァの麓だ。もしかして、この峰を越えてワラシャに行った者がいるのではないか――」
リファンはまさか――と笑ったが、シリンはいたく興をそそられたようだった。
「わたしが、調べてみます」
二人がここに暮らすようになって、十日に一度、荷を運び来るようになっていたシリンが勢い込んで帰っていった、その日から、まだ十日はたっていない。
「母さまが知っていました。昔、評判になったものだと。――でも誰も信じてはいない。ハルツァを越えただなんて。爺やは大ボラだと笑っていた――」
待ちきれず、シリンが食べながら話し出した。
「いまも北の森で猟師をしている。昔から腕のいい猟師で評判だったものです。とても年寄りで、あの、スオミルドのアルザロ侵攻のとき、峰を越えたのだと――」
「もう、会いに行ったのか」
「はい!カイ様」
得意げに、シリンはうなずき、懐から小さなものを取り出した。
「これを――証になるものはあるかと聞いたら、これをくれた」
受け取ったソルスは手の平に転がして眺めると、リファンに見せるために腕を伸ばした。
「これは?」
「スオミルドの貨幣、陶貨だ。ニルデアの1リナに当たる。その穴に糸を通して連にして持ち歩く。シリン。これをそのものが持っていたというなら、そのものの言うことホラなどではない。よくやってくれた」
一瞬、呆気にとられたようにソルスを見たシリンが真っ赤になって俯いた。
「――いえ」
口ごもるシリンに、ソルスが訝しげな視線をむける。
「どうしたのだ、シリン」
「わ、わたしは、あなたが殿様の想い人だとばかり思っていた。でも違うのですね。想い人はリファン様で、あなたは、殿様と同じくらい偉い人なのだ、髪だって黒いし――」
数瞬の沈黙をおいてソルスの哄笑と、リファンの叱声が重なった。
「シリン!?何と言うことを――」
シリンに次いで赤くなってうろたえるリファンをなだめながら、なおも笑い続けるソルスが目元から涙をぬぐった。
「笑いすぎて、涙が出てしまった。シリンはほんとうに勘がいい。だがそのことはお前だけの胸にしまっておいてくれ。頼む」
「わかっています。安心してください」
「たすかる。我らにはほかに頼れる者はいない。お前と、母上だけが頼りなのだ」
笑いを収めたソルスの真摯な言葉に、シリンは感極まったようにうなずいた。
「はい!カイ様。お任せください。あの者も、明日にはここに連れてまいります」
「いや、それはよい。明日は、我らが出向く。お前には案内を頼む」
「わかりました。では館に食事の用意を――」
「すまぬ。だが食事は済ませて出る。館には夕刻、立ち寄らせてもらう。母上にはその時、礼を申し上げる」
食事を済ませ、細かな打ち合わせをしてシリンが麓に去ったのは、それからじきのことだった。
二人だけになって、後片付けをすませたとき、リファンが嘆息した。
「まったく、あなたには驚かされる」
「そうか――」
先ほどの陶貨を手に弄びながら、ソルスが上の空で答えた。
「わかっておいでか、カイ様」
その声の調子にようやく顔を向ける。
「どうしたのだ、リファン」
「気をつけねば、察する者が出て来ましょう。あなたの身にまとう気配はとてもその年のものではない。それに、その黒髪とカイという呼称――」
「他のものの前でソルスはなるまい」
「しかし、カイとは――カイアードを王家の姓と知らぬものはないのです。関連づけて考えるものがいないとは――」
「そうだった。いささか軽率だった。だが、いましばらくのことだ。明日、彼のものと会った次第では、冬の来る前に、我らは峰を越える」
「ソルス様――」
愕然と目を見張るリファンの前に、ソルスの面持ちは沈痛だった。
「もはや、時は残されていないのかもしれぬが――」
夜になると小屋には峰から吹き下ろす風の音がこめる。縹渺と吹きすさぶ風の音を聞きながら転々する、リファンは眠れなかった。
昼間、シリンによって呼び覚まされたルデスへの思いが、その手によってもたらされた熱い肉の記憶とともに、リファンを苛んだ。
――もう、あの腕に抱かれることは、ないのだ。
そのことへの哀惜が、嗚咽となってこみ上げてくる。闇の中で自らの肩を抱き、リファンは必死になって、こみ上げてくるものを噛み殺した。
どれ程の時をそうして、身を震わせていたか、不意に肩をつかむ手に凍りつく。
「どうした。具合が悪いのか」
「ソルス様――」
知られた――その思いが熱流となってリファンを圧し包む。その熱流に押し流されるように、リファンはソルスにしがみついていた。
「抱いて――私を、抱いてください――」