VOL1−3





 洞窟の底深く下りていく歩廊は仄青い光をたたえ、ゆるやかな坂をえがいて果ての知れぬ仄闇に消えていた。
 リュールはエリエンに抱かれてなお、その首にきつくしがみつく。
 それは夢幻の底に魂を吸い込まれていくような、眩むような、おぼつかなさにリュールを脅かした。
 不意に、行手の歩廊の床に小さな光がまたたき、ふくらんだ。
 光は、つぎつぎと瞬き生まれ、壁に、床に、
ともっていった。
 ああ‥‥と、リュールが嘆声をあげる。
 光は、仄青い壁を飾り床にまで這いめぐる白い細枝に咲いた小さな花だった。
 光の花はふたりを導くように、歩廊の床に、
壁に、つぎつぎと咲きともり、リュールを夢中にさせた。
 その光の花の隧道がふいに尽きた。
 大きな空洞が目の前に広がっていた。
 左右に遠退く壁は闇に溶け、頭上にも仄青い闇があるばかりだった。光の花は少し先の床まで一群れになって咲きわだかまり、途切れていた。
 その先は、ただ黒い。だが、よく見ると、仄青い光のなか闇を映す鏡のような水面がひっそりと横たわっているのだった。
 さざ波ひとつ立たない静まり返った漆黒の鏡面の果ては見えず、闇のなかに消えていた。
 それが。洞窟の底の泉だった。
 エリエンは花群れのなかにリュールを下ろし、衣を脱ぎ落した。
 リュールは泣きだしたいのをこらえて、丈高いその姿を見上げる。
 銀灰色の角と尖って長い耳、銀砂の肌さえなければ、それは人の、ただ年若い男の体と変らなかった。
 それでも、まだ子供のリュールにも、その姿が、ほっそりと引き締まって均斉のとれた、
こよなく優美なものであることはわかった。
 その、しなやかな足が泉に向かう、背に、黒銀の髪が逆巻いた。まるで強風のなかに立っているように、千万の蛇のように、その髪だけが波打ち舞い狂っているのだった。
 畏怖の念にうたれ震えるリュールの前に、音もなく踏む花群れが途切れても、エリエンの歩みは止まらなかった。
 そのまま歩き続けるエリエンの足の僅かに下に、静まり返った水面があった。
 宙を、エリエンは歩いているのだった。
 そうして数歩を、水面の上に出たエリエンが振り返った。
 安心させるようにリュールに向って微笑みかけた、エリエンの体がゆっくりと、下がり始める。
 足先が水面を割り、波紋が広がる。
 脚が。腰が。いまでは鎮まった黒銀の髪に被われた胸が、肩が、水面に呑まれていく。
 きらきらと波頭をきらめかせて広がり続ける波紋の中心に、静かにエリエンは沈んでいった。
 たまらず、リュールは汀に駆けよった。そして、水面を覗き込む。
「エリエン‥‥」
 水晶のように透明な水に包まれて、エリエンは水中に浮かんでいた。
 立った姿のまま、目を閉ざし眠っているように見えるエリエンの、髪だけが水の中に広がり、燐光を放ってゆらゆらとうごめいている。
 リュールは、じっと、見つめ続けた。
 自分にはさまざまな果実や木の実を与えてくれるエリエンが、そのどれ一つ食べようとしないのを、リュールはこれまで、ずっと不思議に思っていた。
 身をふるわせて汀に小さく蹲りエリエンが水の中から上がってくるのを待ちながら、リュールはいつしか、こうして水に浸るのがエリエンにとってはものを食べるのと同じなのだと、悟っていた。
 そして、いつか待ちくたびれ、眠りに落ちていった。

 目覚めたとき、リュールはあの小房に戻っていた。
 傍らに横たわったエリエンが微笑み、リュールの額からやわらかな髪を指で梳きあげた。
 その胸元に身を寄せ、リュールは小さく吐息する。エリエンの髪は、もうざわめいてはいなかったから。
 それからも。
 髪がざわめきだすたびに、エリエンは泉に下りていった。
 それが度重なるにつれ、リュールもしだいにこの仄闇の世界に慣れていった。
 そして。いつかリュールも、この仄青い闇の宮殿が不思議な美しさに満ちた世界であることに気付いていった。
 それにつれて、
 はじめは片時もエリエンの傍を離れようとしなかったリュールも、冬が去り、春もおわろうとするころには、一人で森を歩き、洞窟の中をさえ歩き回れるようになっていた。エリエンは、決してどこかへ去ってしまうことなど、ないのだから。
 でも。リュールはまったくの一人ではなかった。

 ときたまではあるが、エリエンの元には訪れるものがあった。
 それは傷ついた森の獣であり、鳥たちであった。
 エリエンは彼等の傷を癒し、そして森に送り返してやるのだった。
 言葉を交わすわけではなかった、その姿は、彼等と話しをしているように、リュールには見えた。
 少し哀しげな笑みを浮かべて、手を差し伸べるエリエンに。濡れた鼻先を押しつける鹿がいた。手に、肩にとまりさえずる、名も知らぬ鳥、足元に身をすり寄せるウサギ、優美な手を伝い落ちる青い血をなめとる狐が――
 リュールの傍らには寄ろうともしない彼等が、エリエンには子が親にするように、甘えかけているようにさえ見えるのだった。
 その日、訪れたのは脚を痛めた牡鹿だった。
 手を差し伸べ癒しの血を与えるエリエンに背を向けて、リュールは駆けるようにその場を離れ、森にさまよいこんだ。
 歩き疲れ、茂みのわきに坐り込み、どれほどの時が過ぎただろう。頬を凍らせたリュールの前に、待ちに待ったその姿が現れる。
「どうしたのだ‥‥リュール‥‥」
 後を追ってきたエリエンが、静かな足取りで歩み寄った。
 リュールは。エリエンにそうしてきかれることが好きだった。それだけで、沈んだ思いは、なかば、消えてしまうのだったけれど、 この時は、
「エリエンは‥‥鳥とも、獣とも、話せるから‥‥」
 言ってしまって、リュールは急に切なくなって、ぽろと、涙をこぼした。
 このころには、もうめったに泣かなくなっていたリュールだったが、深い紫の双眸に見つめられて、堰を切ったようにあふれだした涙を止めることができなくなってしまった。
「そんなに‥‥彼等と、話がしたいのか‥‥」
 エリエンは、地下の泉にいくと告げたときのように、この時も少し困ったように言った。
 そうではなかった。
 そんなことは、思ってもみないことだった。
 リュールはずっと、自分の傍には寄ろうともしない鳥や獣に、自分だけが置き去りにされたような気がしてきた。彼等にエリエンをとられたように感じていた。
 癒しを与えるエリエンを見るたびに、胸がざわめいていたのだった。
 痛いような、息苦しいまでにざわめく胸に、
もう我慢ができないように感じて、リュールは逃げ出したのだった。
 そんなに優しげに鳥たちを見ては嫌だ‥‥
 獣たちに笑みかけては、嫌だ‥‥と、叫びだしたくなって。
 エリエンは。ひどく真剣な顔でリュールの優しい菫色の瞳を見つめていたが、やがて、静かにあげた手をその額のうえに置いた。
「目を閉じて‥‥リュール‥‥」
 それは低く沈んだ声音だった。エリエンがそのような声をだすのは初めてだったのでリュールはもう、違うのだとは言えなくなり、言われるままに目蓋を閉ざした。
 何が始まるのだろう‥‥エリエンは何をしようとしているのだろう‥‥リュールは微かに不安を感じた。でも、それ以上に、わけも知れず胸が高鳴った。

 額に触れたエリエンの指先は冷たかった。
 つと、その指先から、冷たいものが流れこむ。痺れるほどに冷たい流れは、瞬く間にリュールの頭の中を満たし、その意識を凍らせていった。






VOL1−3
− to be continued −

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