VOL1−4
さやさや‥‥ざわざわ‥‥何かが騒めいていた。 あれは‥‥何だろう‥‥ 誰だろう‥‥あれは‥‥ ぽかっと、目を開き、リュールは我に返った。誰もいない‥‥エリエンもいなかった。 森の中の小さな草地にひとり、ぽつと立ったまま、まわりを見回す。 「エリエン‥‥」 リュールは駆け出す。 なぜ‥‥ 転がるように駆けて、駆けて、駆け戻っていく。 エリエンが‥‥こんなふうにおきざりにするなんて‥‥ どうして‥‥ そして、エリエンの姿を求めて、幽冥の歩廊を駆け下りたリュールは、底の泉にたどりついたところで、力尽きたように座り込む。 目の前に、エリエンの衣があった。 リュールは衣に這い寄り、両腕に抱きしめる。 「エリエン‥‥」 そのまま、汀に寄って覗き込む。水の中の仄白い姿を見つめようとしてリュールは目の前の水面に浮かぶ小さな光に気がついた。 なに?‥‥ よく見ようと顔を寄せる。 光は水に映った自分の影の額にともっているように見えた。 リュールは額を押さえる。 水面の光が、消えた。手を離せば光はまたともった。 何度、それを繰り返しただろう。 エリエンだ‥‥エリエンがつけてくれたんだ‥‥ うっとりと。リュールは水面の小さな光を見つめた。 見つめ、続けた。 この日から。リュールは鳥や獣の思いを感じ取ることができるようになった。自分の思いを伝えることができるようになった。 リュールはもう、彼等に避けられることはなくなった。 おいで‥‥おいで‥‥ リュールは森の中に佇み、呼びかける。木の実や草の実を集めて、呼びかける。 おいしいものが、あるよ‥‥ そして、集まってきた小さなものたちと戯れるように時を過ごす日が続いて、その思いを、聞いたのだった。 怯えて、空腹で、寒さに震えるようなその思いは、とても弱々しくて、今にも途切れそうだった。 リュールは森の中をさまよった。思いの主を求めて。 それは、こんもりと茂った薮の陰の小さな洞穴のなかにいた。今はもう冷たくなってしまった母狼の骸に寄り添って。何も与えてはくれぬ乳房を力なくくわえて。 リュールは飢えて死にかけた子狼を抱き上げた。その時、母狼の背に刺さった矢が見えた。リュールの体が凍りついた。エリエンと暮らすようになってずっと忘れていた記憶がよみがえって、リュールは震えた。 お前も‥‥同じなんだ‥‥ 手のなかの小さな、ふくふくとした毛玉に頬をすりよせる。これが、ミュクとリュールの出会いだった。 子狼をつれ帰ったリュールに、エリエンは何も言わなかった。ただ、洞窟の前の草地に一本の木を育ててくれた。子狼が幹を咬むと乳のような樹液が湧きだす木だった。 リュールは子狼にミュクと名付けて片時も傍を離さなくなった。リュールの足元にはいつも、ミュクがいた。 そのミュクが消えた。夏が終るころだった。 さがし疲れて森から戻ったリュールは黙ったまま、エリエンの元にいき、その胸に抱きついて衣に顔を埋めた。 このころ、エリエンは一人でいることが多くなっていた。このときも広間の白い柱の根方に腰を下ろし、琴を玩んでいた。 「‥‥ミュクは、狼の子だ。リュール。乳の木だけでは、育たない‥‥。大人になるために出ていったのだ‥‥」 傍らに琴を置き、リュールの背をさすった。 「リュールも‥‥やがて、大人になるためにここを‥‥離れる日がくるだろう‥‥」 「エリエン‥‥」 リュールは体を起こし、深紫の双眸を見つめた。 「ぼくも‥‥大人になる‥‥」 「やがて‥‥」 「ぼくも‥‥いかなくては、ならないの?」 「リュールはここで、暮らしていける。いていいのだ。だが‥‥それは‥‥よくないことかも‥‥しれぬ‥‥」 「なぜ? ‥‥なぜ、よくないの?」 「同じ血を持つ人々と、暮らせなくなってしまう‥‥そして、後悔するだろう‥‥リュール‥‥熱い血を持つ子、お前には、ともに老いるものが‥‥必要だ‥‥」 「エリエン‥‥でも‥‥エリエンがいる‥‥」 「リュールは今、いくつだろう‥‥十くらいだろうか‥‥十年たてば、大人になる‥‥二十年たてば、わたしと同じくらいに‥‥だが、その後は‥‥何年たっても‥‥何十年たっても、わたしは、変らない‥‥リュールだけが、歳をとる‥‥」 「平気だ! ぼく、平気だ。エリエンといたい‥‥」 リュールは叫び、エリエンの胸に顔を埋めしがみついた。 「リュール‥‥」 その一瞬、エリエンの顔をかすめたのは、深い、哀しみだったかもしれない。 ただ、腕の中の温かい、やわらかな体を、しっかり抱きしめていた。 秋が深まるころ、ミュクは帰ってきた。 痩せてはいたが精悍な若い雄狼となったミュクは、もうリュールが両腕の間に抱き上げることはできなかった。戯れてのしかかる体はリュールより大きかった。 何日かをリュールとともに過ごしたミュクは、また、森に去った。 それからも、ミュクは思いだしたように帰ってはリュールとの数日を過ごし、森に戻っていった。ミュクとの再会はうれしかった。大きな舌に舐められて転げ回り、戯れあい、駆け回るのは楽しかった。それでも。帰るたびにたくましく野性味を増すミュクの姿に、ふと、寒々としたものが心の内をよぎるのを、リュールは気付かずにはおれなかった。 春がゆき、また夏がくるなかで、 しだいに、間遠くなっていくその訪れが次はあるのだろうかと、涙をこらえた目で森に消えるしなやかな背を見送るようになったのはいつのころからだろう。 「エリエン‥‥」 傍らに立ち、そっと、力付けるように肩に回された手にしがみつく。 「リュール‥‥」 慰めを口にすることもないエリエンの、 それでも、その、深く豊かな声に名を呼ばれるだけで癒され、満たされていくリュールは、つと深紫の双眸のうちに揺曳するものを知ることもなく、いつかそれに慣れ、かつてエリエンがいったことを思い出すことも、なかった。 まだ、この時は。 自分が大人になることさえ、遥かな先、永遠の未来にすぎなかったのだから。 そして、 リュールにとって、日々は夢のように流れていった。 VOL1−4 − to be continued − |