VOL1−5
三度目の春がいき、 秋が、来ようとしていた。 物静かなエリエンの傍らで、リュールも無口な少年に育っていた。だが、瞳を見交わすだけで思いの満たされる相手に、どれほどの言葉がいっただろう。 それでも、リュールは思いもしなかったけれど、確実に大人に向って時を刻んでいたのだった。 ふと気付いたのは、背丈だった。 あれほど、大きいと思ったエリエンが、少し小さく感じられて。 腰までしかなかったリュールの背がいつのまにか、その胸に届こうとしていた。 一度も切られたことのない長い髪も明るさを増し、艶やかに日の光を弾くようになっていた。 背が少しずつ、少しずつ、気付かぬうちに伸びるように、枯葉色の髪も丈を加えとどまろうとはしなかった。それはもう、エリエンの髪より長くなっていたのに、 エリエンの黒銀の髪は、初めて見たときと同じ長さのままだった。 自分だけが‥‥変っていく‥‥ そして、リュールは思い出した。幼い頃、ともに暮らしていた人たち、一人になってからだって、出会い、すれ違ってきたたくさんの人々を。母親の胸に抱かれていた赤子、リュールに石を投げ、おいかけ回した子供たち、荒々しい若者‥‥ 大きくて恐ろしい大人、深いしわを刻み、白い髪になり、腰のまがった老人‥‥ 老人‥‥ 人はみな、年をとれば老人になるのだよ‥‥そう、リュールにいったのはだれだったろう。ぼくも、いつかあんなふうになってしまうのだろうか‥‥ 不意に叫びだしたい思いにとらわれてリュールは駆けた。 嫌だ‥‥嫌だ。嫌だ! ずっと、このままでいたい‥‥ ‥‥いたい! エリエン‥‥ 気が付くと、リュールは底の泉の前に立っていた。黒い水面は静まり返っていた。 髪が伸びようとすると泉に入りにくるエリエンだった。 ぼくも、もしかしたら‥‥ 泉に入ったら髪が伸びなくなるかもしれない‥‥このままずっと、いられるかも‥‥しれない‥‥ 汀に腰を下ろし、リュールはそろそろと脚先を水に入れた。岸は切立ち、水のなかに足掛かりはなかった。ひくんと胸が跳ねる。微かな光を揺らめかせて波紋が広がる。水晶のように透明な水は、痺れるほどに、冷たかった。 それでも。岸の上を被った白い細枝をつかみ、リュールは水のなかに体を滑らせた。 一瞬にして冷たい水に押し包まれ、感覚が失われた。細枝を握っていたはずの手さえ、何も感じなかった。水も光も見えなかった。闇だけがあった。ただ、息が苦しかった。 苦しかった。 逃れたかった。 もがいて、独楽のようにまわりながら水底に落ちていった。 意識が、失われた。 ふと気が付くと、エリエンの胸に抱かれていた。悲しげな目が、じっと見つめている。 「リュール‥‥」 それで、リュールにもわかった。なぜ、リュールが底の泉に落ちたのか――エリエンが知ったことを。 「なぜなの?‥‥いたいのに‥‥ずっと、いっしょにいたいのに‥‥エリエン‥‥」 長い間、忘れていた涙が、頬をこぼれ落ちた。リュールはエリエンにすがりついて、泣きじゃくった。 この日から、 リュールはぼんやりと思い沈むようになっていった。 森は。 日ごとに秋の色に染まっていく。 ぬけるような青い空の下、からから、さらさら、葉が舞い落ちる。 くるくる、きらきら、朱金の日差しを弾いて、風に舞い狂う。 リュールは散る葉を浴びて、ただ、あてどなく歩き回った。 木立が切れて、真青な空がひろがっていた。 リュールは、きらめく光のなかに佇む。 森の中の草地はやわらかく枯れて、吹き寄せられた落葉に彩られていた。 その草地をかこむ梢を見上げる。 いつの頃からか、もう、鳥や獣を呼ぶこともしなくなっていた。ただ、思い沈む瞳を向ける梢の先に、遠くくっきりと、峰々が連なる。朱金の森のかなたに。そこに、同じ血を持つ人々の世界があった。時とともに老いるものたちの、世界が。 少し遅れて歩いていたエリエンは草地に腰を下ろした。その手のなかに仄かな光とともに琴が現れた。長い優美な指が弦をつま弾く。 低くたゆとう琴の音にのせて、豊かな声が微かに吟ずる。それはリュールの知らない言葉。物悲しい歌。だからだったろうか。 「ミュクが‥‥いってしまっても‥‥エリエンがいた‥‥。エリエンには‥‥だれが、いるの‥‥」 ぽつんと、呟いた。 エリエンの声が途切れる。やがて、ゆっくりと顔をあげた。 「わたしには‥‥リュールだけだ‥‥」 「なぜ‥‥なぜ、だれも‥‥いないの?‥‥」 菫色の双眸に思いつめた光を凝らせて、リュールが振り向く。エリエンは無言で見つめ返した。 「それは‥‥わたしたちが、老いることをやめてしまった、からかもしれぬな‥‥」 長い沈黙をおいて、エリエンは微かに笑みかけた。そして、つと、遠く視線を逸らす。 「昔‥‥ずっと昔‥‥わたしたちの血が温かく、未だ老いる身であったころには‥‥思い合ったものどうし、ともに暮らし、子を作り育てもしたが‥‥」 それは、さらに低く、吐息のように唇をこぼれた。 リュールの目が見開かれた。胸のなかでとくんと何かが跳ねる。頭の芯がすっと冷たくなった。胸が、指先が冷たくなっていく。体中が。 「エリエンに‥‥子供が ‥‥」 かすれ震える声に、視線を返したエリエンがわずかに首を傾げた。 「いや‥‥わたしは作らなかった。そうしたものたちは多かったが‥‥リュール?」 リュールの凍りついた全身が溶けほどける。 ぎくしゃくと歩み寄ったリュールはエリエンの前に膝をついた。 「ぼく‥‥だけなのに‥‥平気なの? ミュクがいってしまって‥‥エリエンがいるのに泣きたかった‥‥。エリエンには、ぼくだけなのに‥‥」 ぽうと光って、エリエンの手から琴が消えた。 「リュール‥‥」 抱き寄せようとする手から逃れるように、リュールは後ろにさがった。 「エリエンはいいの? いってしまって‥‥平気なの?‥‥」 エリエンは膝のうえに手を落した。 「わたしには‥‥止めることは、できない。リュール‥‥」 静かな声。静かな、眼差しだった。その眼差しの底にある深い無力感を見取るには、だが、リュールは幼すぎた。ただ、エリエンは止めてはくれない‥‥それだけが、リュールにわかるすべてだった。 「同じなんだ‥‥」 エリエン‥‥優しい‥‥から、わからなかった。でも‥‥ リュールはうつむいた。 「エリエンには‥‥同じなんだ‥‥。なおしてもらいにやってくる鳥や獣と‥‥」 それでも。リュールはすがりつくようにエリエンを見上げた。 違う――と、言って、ほしかった。だが。 笑みを消し、少し哀しげに、エリエンはただじっと見つめ返すだけで、もう何も言おうとはしなかった。 「ぼくが‥‥いなくなっても、平気なんだね‥‥」 見上げるリュールの顔から、何かが、消えた。再びうつむき、ぎくしゃくと立ち上がったリュールはもう、何も言おうとはしなかった。ただ背を向けて歩きだす。 森の中に。 森の奥に。 懸命な足取りの、背に、朱金の木葉が舞い落ちていった。 その後ろ姿が木立の間に消える一瞬、エリエンの顔の上を迷いがかすめた。 それでも。エリエンの口から呼び戻す声は出されなかった。 立つこともなく、ただじっと、少年の消えた木群れを見つめ続けた。 仄青い闇の中を、彼はただ、あてもなく歩き続ける。 ときどき立ち止まっては、何かを聞き取ろうとでもするように、首を傾げ、じっと佇む。 何も――もう、聞こえてきはしない‥‥ かつて、彼をエリエンと呼んだ、高く澄んだ声は―― 「リュール‥‥」 彼は、闇に向ってささやきかける。 「お前には、わたしの本当の名さえ、教えてやらなかった‥‥」 なぜ、行かせてしまったのだろう‥‥ 何故‥‥呼び、戻さなかったのだろう。あれ程‥‥それを願っていたのに‥‥ 彼は、薄闇のなかに視線を泳がせる。何故――と、自らに問うまでもなかった。 わたしは‥‥見たくなかったのだ‥‥ 小さくて‥‥かわいいリュール‥‥お前が大人になり、やがて、老いにとらえられるのを‥‥ そして、わたし故に失ったものを思い、嘆き悲しむのを‥‥ 彼は、再び歩き始める。 お前は‥‥わたしを恨み、憎むようにさえ‥‥なったかもしれない‥‥ うつうつと歩むその足は、もう床を踏んではいなかった。いつかその全身を薄い燐光に包まれて中空を漂うように進んでいた。 いや‥‥そうではない。そのようなことは、いいのだ。‥‥ただ。お前が、わたしの手のなかで逝ってしまう。‥‥二度と、帰らぬものになってしまう‥‥それを、ただ、見守らねばならぬ‥‥それが、耐えられぬと‥‥思ったのだ‥‥ 彼は、歩廊をたどることさえ忘れていた。周囲を閉ざす厚い岩盤を抜け、ゆっくりと、地中深く漂い下りていった。 やがて、巨大な空洞に出る。中空に浮き、見下ろす視線の先に、黒い水の鏡面がとろりと広がっていた。 彼は静かに、闇を湛えて鎮まる洞窟の底の泉の、その水面に降り立つ。 黒銀の髪がさわさわとゆらめいた。 水面に広がる波紋はつかの間、燐光を映してきらめき、闇のなかに消えていった。 深い、紫黒の瞳がそのきらめきを追う。生まれては消える、きらめき―― 彼には、もう、時は失われていた。時を刻むものは、もうここには、いなかったから。 ただ、静かにたゆとう澱みのなかに漂うだけだった。彼が。どれほどの時をそうして水面の上に佇み続けたのか。 いつしか波紋もおさまり、きらめきも絶えていた。 思いさえが闇に沈み、 さわめく髪だけが、時を、乱す。 ふと、口元に吐息を這わす。 ‥‥それでも、まだ行かせるべきではなかったのだ。まだあれほど小さかったのに‥‥ ‥‥せめて、次の春まで‥‥ 「リュール‥‥」 彼は顔をあげた。 視線の先にあるのは仄青い闇、 燐光に包まれた体が浮き上がり、その闇に溶けるように、 ――消えた。 VOL1−5 − to be continued − |