VOL2−1





 聖峰アズロイの西の麓にその王国はあった。
 王国の名をグリエムン。その創建の王グリエンの名を冠する王国であった。

 伝説は伝える。
 昔、竜人の噂を追って流れ歩いたという竜狩人と呼ばれるもの等がいた――
 グリエンと名乗る一人の竜狩人が一頭の銀の竜をとらえたと。
 我がものとした竜の青き血をもちいて多くの死すべきものを救ったグリエンはやがて民人の信望を集めるようになった。
 土地の領主はそれを嫉み、また怖れた。
 やがて、
 領主はグリエンをなきものとし、竜をわが手にするために兵を起こした。
 だが、領主に仕えながら、グリエンに救われたものは少なくなかった。
 彼らは自ら領主を倒し、新たな領主としてグリエンを迎え入れた。
 領主となったグリエンはその領土を足がかりとして、さらに領土を広げ、ついには王国をうち建てた――と。

 不死といわれ、その長命を誇った王も、だがついに老いにとらえられたか、
 建国から百年の後、グリエンは没した。
 その支配するグリエムンの都グリエムランの城に王の息が絶えたとき、しかし竜の姿は城のどこにも見いだせなかったという。
 とらえられていたはずの竜はどこへいったのか。ただ、一本の銀灰色の角が残されているばかりだったと。
 そして、次代の――歴代の王の、必死の探索にもかかわらず、その後、二度と竜を捜し出し、とらえることはできなかった――
 やがて――
 竜狩人は伝説の存在となり、
 竜人もまた、伝説のなかに生きるものとなっていった。
 すべてが、伝説に――


 その日、アズロイの頂が白く装われ、グリエムランに冬の訪れを告げた。
 城下は冬に備えての食料や衣類、さまざまな道具類を商う、この年最後の市に賑わっていた。
 街をのぞむ街道沿いの空地には近在から集まった農民や猟師がひしめくように露店をならべ、樽につめられた塩漬肉や大きな袋にこぼれそうな豆、小麦、篭いっぱいの野菜や果実、木の実、毛皮の束を前に、脚を止める人を待ちながら隣合うもの同士、噂話に興じていた。
 市門の左右の城壁には遠方から訪れた商人の差掛け小屋が立ち並び、天幕が張られ、色とりどりの陶器や刃物、腕輪、櫛、細々とした細工物が所狭しと並べられていた。
 積みあげられた羊毛の梱、織地、張り渡した綱に幕をなして掛けられた古着、
 それらを冷やかし半分に流れていく人群れ、
 大道芸人が芸を売り、子供らが駆け回る。
 その喧騒のなかを行き交う城の兵士や、召使、従僕を従えた荘園主、侍女を連れた奥方、商人の女房、年若い娘、職人、
 そこ此処に人だかりがし、売り買いの声に交じって喝采がわいた。笑声が立ち、雑言が飛びかい、陽気な、また、哀調をこめた歌声が弦や太鼓の響きにのって流れてくる。
 そんな人だかりのひとつに、その旅芸人の一座がいた。
 小さな一座だった。
 市の空地の外れに近く、幌を張った荷車の前で、胸もあらわな娘が楽器の音にあわせて踊りながら曲芸を演じていた。旋回しとんぼを切るたびに長い黒髪がひるがえり、手首、足首につけた鈴がシャンシャンと可憐に鳴った。脛までしかない裳裾が舞い上がり鮮やかに白い太股が見え隠れする、そのつど人群れが揺らぎどよめきが走った。
 やがて、娘は最後に一つ大きくとんぼを切って舞い収めた。おもむろに衣の両脇をつかみ広げ、投げられるコインを受けながら人垣の縁を一周し、荷車のなかに消える。
 それが一座の主だろう、レベックを弾いていた男が、傍らで娘の揺らぐ黒髪をぼんやり眺めていた少女のような細い体を小突いた。
 リュール、だった。
 リュールは我に返ったように、娘の踊りにあわせて振っていた鈴を置き、地面に落ちたコインを拾い始める。
 長い枯葉色の髪が白い衣に包まれた尖った肩から落ちその手元を被った。リュールはうるさげに髪をかきあげる、その、痩せた手首を、散りかけた人垣の間から伸びた手がつかみあげた。
「こいつは、踊らんのか――」
 酔いに濁り低くかすれた声が頭越しに投げられる。リュールは頬を強ばらせてふり仰いだ。吊り上げられた手首が痛い。鉄鐶のように締付ける指を緩めさせようと、必死にその指をつかむ、リュールの頭越しに、無機的な光をたたえた鉄灰色の双眸が背後を見据えていた。
 三十にはなっていないだろう、若さに似ず酔い荒んだ顔は貼りつけたような皮肉げな笑いに口元を歪めている。
 だが、旅に汚れてはいたが、さして大柄ではないその身にまとったものは決して粗末とはいえなかった。腰には美事な長剣を帯びている。
 明らかに地方の貴族と知れる、男に、
「生憎だァ、旦那、そいつァ踊りはからっきしでさ。それに、そんななりァしてるが、そりゃ男でね。客は呼べねェでやしょ」
 レベックを置いた男が近寄って、リュールの頭を乱暴に小突いた。
「愚図が!」
「男だと?――」
 その手が伸びて衣の上から股間をつかみあげた。微かな悲鳴をあげ、身を強ばらせるリュールに、口元の嘲嗤が深まる。
「間違いない。だが――まぎらわしいなりをさせて、何のつもりだ」
「その髪は商売もんでさ。あと二、三年もすりゃ豪勢な金髪になる。そんなわけで、得心なさったら放しておくんなさい。それとも旦那、こいつをお買いになりやすか?」
 その言葉に、弾かれたようにリュールが身を捩った。
「い、いやだ‥‥はなして‥‥」
「怯えているな。こいつも売物か。客をとらせたことがあるのか?――」
「一度だけでさ。生娘みたいなもんだ」
「けっこうな親だな――」
 毒を含んだ言葉に、
「とんでもねぇ。行き倒れのこいつを拾って食わせてやってるんで。たまには、働いてもらわなけりゃ、あがったりだ――」
「カムサン!」
 不意の怒声にレベックの男が振り返る。そこに、怒りでまなじりの切れ上った黒髪の踊子がいた。今は薄物のうえに厚手の外套を巻きつけて肌を被っている。
「テッサ‥‥」
 リュールがすがるような視線を投げた。テッサは励ますように頷きかけ、カムサンの横に立ってきつい目付きで男を睨み上げた。
「リューの食い扶持くらい、あたいが稼いでいる。その子は売物じゃないんだ。放してくださいよ。旦那――」
 黒褐色の双眸が明るく煌めく。
「お前ェは引っ込んでいろ。テッサ。でしゃばるんじゃねェ!」
 殴りかかったカムサンの腕をかいくぐり、強かにその下腹を蹴りあげたテッサが怒鳴った。
「あんたにはうんざりだ! 前のとき言ったはずだ! この子にちょっかい出したらおしまいだって! あんたとはこれっきりだ!」
「この、あま‥‥」
 不様に腹を抱え罵るカムサンに、立ち止まり、遠巻きになりゆきを見ていた人波が嗤い揺らいだ。嘲りの視線を投げたテッサが向き直る。
「さあ! 旦那! 放してくださいよ!」
 だが、男は放そうとはしなかった。冷ややかに唇を歪め、細い手首はつかんだまま、もう一方の手で懐から取り出した金袋をカムサンに投げつけた。
「代金だ。小僧はもらっていくぞ」
「いやだ!」
 リュールが叫んだ。
「待ちな!」
 言いざま、身を踊らせたテッサの手元に白光が走った。
 引きずられかけたリュールが地面に倒れた。その体をかばうように身構えたテッサの手に細身の短剣が光る。
 リュールの手首を放し、飛び退いた男の指先から細く血がしたたり落ちた。
「言ったはずだ。そいつとは手を切った。リューはあたいの弟分だ。勝手な真似はさせないよ! リュー、立つんだ。行くよ」
 その時、中身を確かめた金袋を懐にしまったカムサンがテッサにつかみかかった。
「いい加減にしやがれ! あまが! 許さねェぞ!」
 不意をつかれたテッサの口から上擦った悲鳴が漏れる。だが辛うじて。短剣を構えなおした、その手首を、カムサンがつかんだ。
「テッサ――」
 四這いに体を起こしたリュールが叫んだ。もみ合って体勢を崩した二人がもつれるように地面に転がる。鋭く舌打ちした男が忌々しげに眉をしかめ大きく踏み出した。リュールの腕をつかみ力任せに引き起こす。
「こい――」
 リュールは抗った。
「テッサ――テッサ‥‥」
 悲痛な声に、応えはなかった。ふともみ合う気配が絶えたことに気づき、男は肩越しに見返った。
 ぐったりと力の抜けた手足を伸ばして、娘は横たわっていた。片手を下腹にあてている、その指が赤く、濡れていた。傍らに膝をついたカムサンが呆然と見つめる、手に、血塗れた短剣が握られていた。
「何と‥‥いうことだ‥‥」
 酔いも醒めたように、男が呻いた。
「人殺しだ! 役人を呼べ!」
 誰かが叫んだ。声に、カムサンが顔を上げる。次の瞬間、弾かれたように立ちあがり荷車の下に転がり込んだ。遠巻きにしていた人垣が崩れた。テッサと、傍らに膝をついた男のまわりに新たな人垣ができる。
「裏から逃げたぞ!」
 荷車の後ろになだれた人群れから声があがる。男は聞いていないようだった。テッサの傷を調べていたが、微かに吐息する。
 少し驚いたように目を見開いてぼんやりと空を眺めている、テッサは。まだ死んではいなかった。
 しかし、下腹に赤く、大きく、血の染みが広がっていく。死は、誰の目にも避けられないことのように思われた。
 男の横にうずくまったリュールは惚けたようにそれを見つめていた。
「死んじゃう‥‥テッサが‥‥死んじゃう‥‥」
 リュールが呟いた。その声が耳に届いたのか、テッサが顔を向けた。
「リュー‥‥どじっちまった‥‥ざま‥‥ないね‥‥」
「テッサ‥‥」
 呼びかける声は、震えていた。
「わたしの宿に運ぶ。手をかしてくれ」
 視線を向ける男の前に、人垣から、何人かが進み出た。






VOL2−1
− to be continued −

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