VOL2−2





 男の宿は市門を入ってじきのところにあった。その身なりには不相応な露地裏の安宿だった。すでに何事もなかったような市の雑踏も遠い、裏口の横の小部屋に、娘を運んだものたちが駄賃を手に去ると、音は絶えた。その静寂のなかで、

 床に敷かれた寝藁のうえに横たえられたテッサの手をリュールは必死で握りしめる。壁ぎわに腰を下ろした男は、無言で、それを見つめていた。
「旦那‥‥あたいまで‥‥いい人なんだ‥‥」
 ひっそりと、ほの暗い部屋にこもった沈黙を、娘の、弱々しい、必死な声が震わせた。
 その色白の顔には、すでに青い隈が浮きだしていた。
「お願いです‥‥旦那‥‥リューは、優しい子だ‥‥鳥と‥‥話すんだ‥‥男の慰みものなんかにしちゃ‥‥いけないんだ‥‥」
 テッサは泣いていた。見開いた眦から、涙だけがとめどなく伝い落ちていた。
「わかっている」
 応える声はぶっきらぼうだった。
「安心しろ。そんなつもりはなかった。だが、お前達といれば、いずれそうなると思った。だから引き離そうとした。お前がこれほど思っているとは考えなかったからな。お前もな。医者を呼びにやった。手当てを受けて元気になれ」
「旦那‥‥ほんとうに‥‥いい人だ‥‥」
 それでも、その目の中には諦めがあった。だがそれで、肩越しに男に向けたリュールの顔に少し血の色が戻ってきた。
「テッサ‥‥死なないね‥‥」
 すがるように見上げるリュールに、男はただ無言でうなずいた。
 しかし。やってきて手当てをすませた医者の顔色は冴えなかった。
 リュールの瞳のなかに怯えが戻ってくる。

 いつか、日が暮れていた。
 市も果て、その雑踏も波が退くように消えた街に、消え残る燠火のようにともされた灯が人を招く一画がある。
 通りに面した表の土間が酒場になっているこの宿もそのなかにあった。宵の口の騒めきが遠く響いてくる。
 空腹も渇きも感じないように娘の手を握り続けている子供を残し、男は一人、夕の食事に出た。
 やがて、子供のために篭につめさせたパンやミルクを片手に戻った男は、部屋で不安に見開かれた目に迎えられた。
 男の姿に、痩せた、青褪めた顔に安堵が広がる。
 男は、そんな子供の傍らに篭をおきながら、微かな痛みをかみしめる。初めに見せた怯えは影をひそめていた。自分に対するこれほどの信頼に、怒りさえおぼえ、視線を背ける。そこに、祈るような、思いを込めた娘の顔があった。信頼とはいえない、そのすがるような視線を、男はただ無言で受け止めていた。
 子供は男が持ち帰った篭に手をのばそうとはしなかった。男も強いようとはせず、
 細々とともされた灯りの中で、時だけが冷酷に流れ去り、
 夜が、更けていった。

 いつ眠り込んだのか、悲痛な声に、不意に男は目覚める。
「テッサ――、テッサ――、死んじゃいやだ――、テッサ!」
 飛び去ろうとする命をつかみ止めようとするように、リュールは、両手でテッサの右手を握りしめていた。肩越しにわずかに見える頬を、とめどなく伝う涙が、濡らしている。
 その、リュールの手の上に、力なくテッサの左手が重ねられた。
「リュー‥‥幸せに‥‥なるんだ‥‥」
 目覚めたことさえ告げずに、男は無言で、ただ見守る。
 リュールに向けられた顔は既に色を失っていた。だが、そこにあるのは子を慈しむ母の笑みだった。そして、テッサは静かに目を閉ざした。
 リュールは。束の間、ぼんやりとその顔を見つめた。まるで、わけがわからないとでもいうように。
「テッサ‥‥」
 戸惑ったように呼びかける。
「テッサ‥‥いやだ‥‥」
 男は身を起こしかけた。今はもう、傍に行って慰めてやらなければならない――
 その時、リュールが上をふり仰いだ。
「たすけて‥‥エリエン‥‥たすけて――」 体中を絞り上げるように、リュールは叫んでいた。そして――
 一瞬、動きを止めた男の前に、それは、いた。全身を仄青い燐光に包まれて。横たわる娘のまくらべに。
「エリエン‥‥」
 驚愕に凍りついた男の耳に、呆然と呟くリュールの声が遠い。
「リュール――」
 それが、応えた。雪白の面をさらして、背を見せるリュールと向き合ったその姿は――
 人では、なかった。
 波打つ黒銀の髪。尖って長い耳。そして、
 その、銀灰色の角――
 竜‥‥
 リュールが握りしめていたテッサの片手を放しさがる。エリエンと呼ばれた竜人はテッサの横に膝をつき、傷のうえに片手をかざし自らの指でその手首を切り裂いた。
 青い血が、滾々と仄白い指を伝って傷の上に流れ落ちていく。
「エリエン‥‥」
 リュールは仰向いた顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。
「‥‥エリエン‥‥」
 やがて、
 テッサの口から深い吐息が洩れ出た。
「あなたは‥‥」
「傷は癒えた‥‥今は、休むとよい‥‥」
「はい‥‥」
 幼子のようにこたえた、テッサの双眸が閉ざされる。安らかな寝息がその口元に這いはじめたとき、リュールは泣き止んでいた。
 濡れた双眸をみひらいて竜人の顔を見つめていた。何かを待つように。
 赦しを、乞うように――
 エリエンは腕をのばし、そのリュールを引き寄せ、胸に抱きしめる。
「リュールは‥‥同じでは、ない‥‥」
「エリエン――」
「同じでは‥‥ない‥‥」
 首にしがみつき肩に顔を埋めるリュールの泣き震える背中を、竜人はさすり続けた。
 いつまでも、それは続くように思われた。
 だが。やがて、時は、果てる。
 リュールの口から安らかな寝息がもれだしたとき、エリエンは腕の中の体を横たえ、静かに立ち上がった。そして。
 身を凍らせ、ただ、声もなく見つめ続けていた男に、向き直った。
 男は見上げる。仄かに輝く白い顔は冷ややかに美しい。彫りの深い端正な面差しの中で切れの長い双眸がじっと見返してくる。
 その、紫黒の双眸に湛えられた、深い、底の知れぬ寂寥に、男の息もが凍りついた。
 刹那――灯火が風に吹き消されるように、エリエン――竜は、消えていた。
 にわかに闇が迫る。深夜、闇のなかに目覚めたような思いに、男は視線を泳がせた。
 夢‥‥か‥‥
 信じ難い思いに、目をしばたく。だが、夢ではない証がそこにあった。息苦しさに、息をつめていた己れに気づき大きく吐息した男は腰を上げた。
 か細くともった灯りに浮き上がる、安らかな寝息を立てて眠るふたつの顔を見下ろす。
 仄かな赤みを取り戻した娘の顔。そして。
 男ははじめて気づいた。少年の、額の中央に点った、仄かな、光を。
 これが‥‥竜の、養い子というものか‥‥
 古い伝えのなかに語られる竜の養い子――
 かつて、男にもそれを寝物語に語ってくれた声があった。長じるに従ってただの夢物語になってしまった伝えを、信じ、自らも養い子になりたいと本気で願っていた、幼い頃があったのだと、男は不意に思い出す。
 竜とは慈しみ深いもの‥‥すがるものを決して突放したりはしないのですよ‥‥と、語り聞かせてくれたなつかしい声が耳によみがえる。病み、傷ついたものに自分の血をあたえ癒してくれる、身寄りを失った幼子を拾い育て、まれに、不思議な力をさずけてくれるのですよ‥‥
 そう言えば‥‥男は思い返す。この子は鳥と話すと‥‥娘は言わなかったか――
 腕をのばし、額の仄かな光にそっとふれてみる。微かな脈拍が伝わってくるような気がした。これを、
 王が知ったら、狂喜しような‥‥
 男は、猛々しく嗤う。竜を手に入れて国をうち建てた創王グリエン、不死といわれながら、竜を失い、ゆえに、その生涯を終えたという。以来、代々の王の見果てぬ夢となった竜――
 だが‥‥
 再び腰を下ろし、立てた片膝を抱いた。その上に顎をのせる。竜を――不死を手に入れて、何をなすというのか‥‥
 お前にだけは‥‥させぬ!
 王よ!――
 一瞬、男の鉄灰色の双眸の内を過ったのは、それは、殺意ではなかったか。
 その途端、リュールの寝息が途絶えた。微かに喘ぎさえもらして身動ぎする。
「エリエン‥‥」
 小さな声が呼んだ。何かに怯え、震える声が、すがるものを求めていた。
「エリエン‥‥、エリエン‥‥」
「どうした――」
 男は傍に寄り、少し青褪めた顔を、見開かれた菫色の目を覗き込んだ。怯え目覚めたわけは聞くまでもなかった。
 わたしの殺意を感じ取ったか‥‥
「エリエンが‥‥いない‥‥」
「彼は、帰った‥‥まだ夜中だ。朝まで。眠れ‥‥」





VOL2−2
− to be continued −

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