VOL2−3
リュールは両手で顔を被いうつぶせた。微かに震える背中を眺めていた男は、つと手をのばす。ほつれ乱れた髪の上に手を置いた、刹那――リュールが、身を竦めた。それを指先に感じ、男が手を引く。
リュールは、体を起こして驚きもあらわに男を見上げた。
「なぜ‥‥」
小さくこぼれる声に、壁ぎわに戻ろうと腰をあげかけた男の動きが止まった。不意に押し寄せ、潮が満ちるように己れを押し包む、めくるめくような、この暖かさは‥‥
それはだが、満ち上がった潮が引くように、退いていった。
それがすっかり消えた後も、男は、動こうとはしなかった。その鉄灰色の双眸に思いの知れぬ光を凝らせて、ただ、じっとリュールを見つめる。
その視線に射竦められたか、リュールは目をそらすことができなかった。不安が、そして微かな怯えがその菫色の瞳のうちに兆したのを見て、男は顔を背け、腰を落した。
「今のは‥‥お前だな‥‥。わたしを‥‥憐れんだか‥‥」
呻くような声はかすれ、嗄れていた。
「あな‥‥旦那‥‥悲しんでる‥‥すごく‥‥胸‥‥痛い‥‥でも、そんな‥‥」
「旦那は、よせ!」
重く軋る声に、息を呑みリュールは身を竦めた。男は吐息し、薄く自嘲を含む。
「シェラム・オーヴという名がある。シェラムと呼べ」
「シェラム‥‥さま‥‥」
「様は、いらない」
「シェラム‥‥」
「来い‥‥」
怖ず怖ずとにじり寄るリュールを、男――シェラムは膝の間に引寄せた。その折り敷いた片脚の上に座らせ、背をこわばらせる細い体を胸に抱きこんだ。
「妹は‥‥お前は妹に‥‥似ている‥‥髪の色‥‥瞳の‥‥いつもぼんやり空を見ているような‥‥娘だった‥‥。お前が‥‥妹に、見えた‥‥」
リュールの頭の上を呟くような声が流れていった。
「シェラム‥‥」
「今、何才だ‥‥」
「何‥‥才‥‥」
「知らぬのか‥‥」
「はじめての夏‥‥十くらいと‥‥エリエンが‥‥」
「それは‥‥何年前だ‥‥」
「‥‥ずっと‥‥まえ‥‥」
「ずっとな‥‥」
男は小さく吐息した。
「五年前‥‥妹は十五だった。まだ、ほんの子供だった。お前と、同じだ。それを‥‥ロシャムとの戦の帰途だった。館に立ち寄った王が目をつけた。拒めなかった‥‥王に‥‥背くのは、恐ろしかった‥‥領地に、未練もあった‥‥わたしが‥‥見殺しにした‥‥」
「シェラム‥‥」
「わずかに‥‥十日だ‥‥。城の露台から身を投げたと‥‥返されたのは、一房の髪だけだった‥‥」
男はリュールの背に、流れる髪のなかに、顔を埋めた。
「‥‥許して、くれ‥‥」
震えを帯びた微かな声がリュールの胸に響き伝う。リュールにはもう、男の名を口にすることさえためらわれた。ただじっと、男の腕のなかに身をゆだね、壁にゆれる火影を見つめていた。
やがて、男は腕の力を緩めた。
「寝てくれ‥‥朝には間がある‥‥」
リュールが離れると、男はそのまま立てた膝を抱き、顔を埋めた。それは、自らを恥じる姿だった。己れを恥じ、責めぬく男に心を残しながら、テッサの傍らに戻ったリュールは騒めく胸をもてあまし、横にもならずに蹲った。いったい、どう、しようがあるのだろう‥‥泣きたかった。両手で顔を被った。抱きしめてもらいたかった。
エリエン‥‥
不意に、やわらかな腕に肩を抱かれて、驚き、顔を上げた。
「テッサ‥‥」
いつから目覚めていたのか、上体を起こした娘は無言のままリュールを胸に抱きよせた。
男が顔を上げた。
「聞いて‥‥いたのか‥‥」
「旦那‥‥」
一瞬、男の顔の上を自嘲がかすめた。
「シェラムだ。だが‥‥そうか‥‥。もう、歩けそうか?‥‥」
「刺されたのが、嘘みたいだ‥‥」
「では、夜が明けたら旅に出れるな‥‥」
「旅?‥‥どうして‥‥」
「お前が刺され、死にかけていたことは多くのものが見ている。一夜にして元気になったと知れれば‥‥」
「評判になるよ! 客がおおぜい集まる。いい稼ぎになる――」
「そして、王に知れる。王は疑い、お前たちを捕えようとするだろう‥‥」
「そんな‥‥どうして‥‥」
「伝説の竜――以外に、一夜にして死にかけたものを癒せるものがあるだろうか‥‥」
男の顔を、苦しげな表情がかすめた。
「お前にも。もうわかったはずだ。その子は竜の養い子だ。その子を手に入れたものは‥‥竜を手に入れることができるのだ‥‥」
リュールが、小さく喘いだ。テッサの暗い双眸が大きく見開かれる。
「‥‥竜‥‥あの方を‥‥手に入れる?‥‥そんなこと‥‥できるはず、ない‥‥どんな壁も、鎖も通り抜けてしまうと‥‥傷つけることだって‥‥できないと‥‥」
「かつて‥‥それができるものたちがいた。竜狩人と呼ばれていた。王家の始祖となった竜狩人の歌を‥‥この国の、建国の伝えを‥‥聞いたことはないか‥‥」
震える体を寄せあい、必死に不安をこらえすがるような眼差しを向ける二人を見ながら、男はいまさらながらに思った。その気丈さゆえに見過ごしてきた、この娘さえが、まだ二十歳にもなっていないだろうことを。あまりに、痛々しいまでに、若い二人だった。
だから、だったか。
「この国を出るのだ。遠く、離れるのだ。王の手の及ばぬところへ‥‥わたしも‥‥共に、いこう‥‥」
城下の朝は早かった。
東の空が白みはじめると、そこここに起きだしたものたちが動きはじめる。
共同井戸のまわりには人群れが立ち、家並の間からは炊ぎの煙がのぼりはじめる。
荷を積んだ車や、駄馬が行き交い、また、新たな賑わいが始まろうとしていた。
その中を、ふたつの人影が静かに通り抜けていった。さして大柄ではない若い男と、彼に手を引かれた長い髪の少年――
男が引く馬には外套らしき布にくるまれた細長い荷が担われていた。
すれ違ったもののなかには昨日の騒ぎを知るものもあったか、刺された踊子を思い出し悼むような視線を向けるものもあったが、
束の間のことであった。
城下の雑踏にまぎれ、王都グリエムランを去る彼等に、それ以上の関心を向けるものはなかった。
いや。本当にそうだったろうか。
つかず、離れず、同じ道をたどる一人の乞食の姿があったことを、男も少年も、気づきはしなかったが。頭から破れほつれた外套をかぶり顔を隠した乞食はどこまでも彼等の後を追っていった。
やがて、街道は森にさしかかりあたりに人影も絶えたとき、男は馬を森の中に引き入れた。小さな空地に馬を止めた男は荷を下ろし、草の上に横たえた。
「テッサ――」
心急くリュールの手がくるみ込んでいた外套をとき払う。大きく息をつき伸びをした娘が体を起こした。
鞍袋から一つの包みと水筒を取り出した男はそれを娘に手渡し、腰を下ろした。
「日暮には館に着く。そこで旅支度を整える。お前たちは馬に乗れるか?」
「馬に?」
包みから取り出した干した果実を頬張っていたふたつの顔が向けられる。
「馬で行けば、館から国境までは二日だ。明後日の夜にはロシャムの地を踏める。乗ったことがあるか?」
「あたいは、ある。駄馬だけど‥‥ティトは、どうしたろう‥‥」
「ティト?」
「あたいたちの馬だ。車を引いていた。城下の厩に預けてあった‥‥」
「それは、諦めることだな」
男の視線を向けられて、リュールは力なく首を振った。
「では。この先、お前が馬に乗るのだな。館に着くまでには慣れるだろう」
ぎこちなく鞍にまたがり必死に手綱をにぎるリュールと、その馬のはみをとった男、そしてテッサがその空地を発ったのはそれからじきのことだった。
足音が遠ざかり、森に静寂がもどってくる。
不意に、空地の風下で薮が騒いだ。あの乞食だった。下草の中から這い出した乞食はもう後を追おうとはしなかった。短く、嘲るような笑声を上げ、頭に被った衣をはね除ける。
カムサンだった。
テッサを傷つけ、市の雑踏に紛れ姿を晦ましたこの男が、どうしてここにいるのか、今は自分の顔を隠そうともせずに、来た道を足早に戻っていった。
VOL2−3
− to be continued −