VOL2−7





 女が去ると、テッサは寝台に駆け寄った。
 傍らの小机の上にはシェラムが身につけていた武器がのせてあった。テッサは短剣を手に取り、横たわった男の顔を覗き込んだ。
 白い、顔だった。静かに眠っているような顔に、血の気がなかった。
 テッサは指で、頬の傷をなぞる。
 半ば、治りかけた、その傷を。
 そうだった。
 そのことにテッサが気づいたのは、医者を待って部屋の隅に蹲っていたときだった。あれほど、身を苛んでいた痛みが、消えかけていた。
 あの方の血だ‥‥
 ようやくに、一昼夜が過ぎようとしているにすぎなかった。
 あたいの体のなかに‥‥まだ、流れているんだ‥‥
 その、青い癒しの血を思う、テッサに逡巡はなかった。
 あんたを‥‥死なせない‥‥
 テッサは毛布を剥ぎ男の胸を露にする。血の滲んだ包帯を短剣で切り開く。
 無残に口を開いた傷は一つではなかった。なお血を滲ませる傷の上に腕をかかげ、テッサは無造作に己が手首を切り裂いた。
 流れ落ちる血が、男の胸を濡らし、傷の上に広がっていく。
 祈るように、テッサはそれを見守った。
 見守り、続けた。
 突然、ものが落ち、割れる音にテッサは顔を上げた。床に流れたミルクが湯気をたてている。
「何てことを――」
 モーラが叫んだ。抱えた毛布をなげうち、駆け寄った女はテッサの手から短剣を奪い、床に突き飛ばした。女に見えたのは短剣を手にしたテッサと、シェラムの、血に塗れた胸だった。取り出した布で血を拭おうと腕をのばした。テッサが床から叫び上げた。
「だめだ! 血を拭いてはだめだ! あたいの血だ――」
 その剣幕に、思わず振り返る。
 手首から血を流し、涙で頬を濡らしたテッサが床から見上げていた。
「足りないかもしれない‥‥それだけじゃ足りないかもしれないのに‥‥」
 困惑に、目をすがめる。
「何でだい?‥‥なんで‥‥こんな‥‥」
「あたいの傷‥‥こんなに早くよくなった‥‥まだ流れているんだ‥‥あの方の、癒しの血‥‥あたいの中に‥‥まだ‥‥」
「癒しの‥‥血‥‥?」
 不意に目を剥いた女は、踵を返し、燭台をつかむと部屋を出た。すぐに、闇の下りた寝室に戻った女は、手探るように寝台に近づき、かすれた喘ぎを漏らした。
 闇の中で、仄青い光に濡れた、男の胸に。
 再び、燭台を部屋に戻した女はもう何も言おうとはしなかった。無言でテッサの手を取り、血を流す手首を布で縛る。
「まだ‥‥」
 弱々しく抗うテッサを抱きしめた。
「いいや‥‥もう、十分だよ‥‥これ以上はお前様がまいってしまう‥‥」
 そして、静かにテッサを立たせた。
「ほんとうに、休まなけりゃいけない‥‥さあ‥‥」
 テッサは、
 もう、抗おうとはしなかった。

 暖かな夜具に包まれて、テッサが目覚めたとき、部屋は、薄闇の中にあった。
 ぼんやりと、高い天井を眺める。太い梁の渡った天井だった。テッサは視線をめぐらせる。つづれ織りで飾られた壁、椅子も机も手をかけた細工の、高価なものだった。
 驚きと不安に、テッサは体を起こす。それは、いくつもの冬、テッサが憧れ眺めてきた寝床だった。旅に厳しい冬の間、カムサンは土地の有力者の館や城に逗留して芸を売った。
 テッサの場合、売らされるのは芸だけではなかった。それでも、このような寝床に身を休めることはできなかった。たいがいは納屋の隅の藁の中がテッサの寝床だった。そして、羨望と諦めの綯い交ぜられた思いで、着飾った奥方や召使にかしずかれる娘たちを見てきた。かいまみるその生活に、己れとのあまりの隔たりに、ひそかに涙を流したことは、数知れなかった。
 それが――
 ゆっくりと立ち戻ってきた記憶にテッサは寝床を滑り出た。
 これは‥‥ミシャナ様の‥‥
 テッサはふらつく脚を励まして部屋を走り出た。モーラの、シェラムの、姿を求めて。
 記憶をたどるまでもなく、大きな寝室に駆け込んだテッサは、だが、そこで脚を竦ませた。ひっそりと静まった寝台の上に、横たわる人の気配が希薄だった。寝台の足元に椅子を置き、一心に編み物をしていたモーラが顔を上げた。
「お起きなさったね‥‥」
 編みさしを傍らの篭にいれ立ち上がる。
「お前様のおかげだ。傷がすっかり治るのはまだ先だろうが‥‥もう大丈夫だ‥‥」
 部屋の入口に立ち竦むテッサの肩を抱き、寝台に導いた。そこに、薄く血の色を取り戻したシェラムの顔が静かに眠っていた。
 ものも言わず立ち尽くすテッサを置いて、モーラは出ていった。間もなく、食事の支度を整え、呼びに戻ったときもまだ、テッサは黙然と立ち続けていた。
「何を‥‥考えていなさった‥‥」
 目覚めてから一言も口を利かないテッサを、抱えるように食堂に連れながらモーラが聞いた。シェラムが命をとりとめたことに、わずかでも喜びを見せないテッサに気がかりげな視線を向ける。
「連れていかれたのは‥‥お前様の、妹かね?‥‥」
 テッサの歩みが止まる。一瞬のことだった。すぐに歩きだした、その脚を、肩を抱くモーラの腕から逃れ出るように速めた。
 そこは、もう食堂だった。大卓をかこむ椅子の一つに青白い衣が、その上に一束の長い髪が置かれていた。
 金がかった枯葉色の‥‥リュールの髪だった。テッサの手で編まれた髪は解かれ、なぶるように刈られていったのか‥‥不揃いに切り捨てられたそれを集め、束ねたのはモーラの手であろう。
 引かれるように歩み寄ったテッサは震える手に取り上げ、胸に抱きしめた。
「リュー‥‥」
 憐れみの眼差しでそれを見ていたモーラは気をとりなおすように首を振り厨に向う、背に、咽ぶようなテッサの声が低く響いた。
「あたいのせいだ‥‥みんな‥‥あたいが、ぶちこわした‥‥シェラム様があんたを連れてくっていったとき‥‥おとなしく見送っていればこんな‥‥あたいが、守るなんて‥‥できっこないのに‥‥フィオだって、守れなかったのに‥‥」
 熱い煮込みをよそった深皿を手に戻ったモーラは、皿を大卓に置き、テッサの背を撫でさするようにいざなった。
「あったかいうちにお食べ‥‥お腹がくちくなれば、少しは気も休まる‥‥」
 皿の前にかけさせ、その手にスプーンを握らせる。
「さあ‥‥」
 重い手で、テッサが食べはじめるのを見届けてようやくに、モーラはシェラムのもとに戻っていった。
 食べ終わったテッサがリュールの髪と衣を胸に抱き、寝室に戻ったとき、日は暮れていた。
「今夜は‥‥あたいが傍に‥‥」
 立ち上がったモーラがテッサを招いた。
「そうしておくれ‥‥あたしも家に帰れる。明日の朝まで‥‥シェラム様を、お頼みしますよ‥‥」
 無言でうなずくテッサを、モーラは抱きしめた。
「もう‥‥自分を咎めないでおくれ‥‥誰も、王には抗えない。シェラム様でさえ、どうすることもできなかったんだ‥‥酷いことを言うようだが‥‥忘れるんだ‥‥」
 耳元でささやかれる言葉に体を強張らせたテッサも、やがてうなずき、うなだれた。
 その顔を起こし、散りかかった髪をかき上げた額にモーラは、祝福するように唇をあたえた。
「せめて‥‥お前様だけでも‥‥幸せになるんだ‥‥」
 テッサはうなずいた。そして無言でモーラを見つめかえした。その眦から涙が糸を引いて頬を伝い落ちていった。

 翌朝、
 モーラが篭につめた食物をもって館を訪れたとき、だが、そこにテッサの姿はなかった。
 寝台の傍らの椅子の上に、モーラによって着せられた服がたたまれて置かれていた。
 館に、なくなったものは何一つ、なかった。
 リュールの残した白い衣だけが、
 消えていた。

 シェラムの意識が戻ったのは、
 その日の午後――だった。





VOL2−7
− to be continued −

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