VOL3-1





 早暁――
 城下を閉ざす朝霧のなかに黒の城がその陰欝な頂をのぞかせることから、王都グリエムランの一日は始まる。

 その日、いまだ城がその姿を現わさない暁闇の野を一隊の黒騎兵が霧を巻いて駆け抜け、寝静まった街路を震わせて王城に帰還した。
 朝まだき、にもかかわらず、内郭を見下ろす主塔の玄関大広間には二人の近侍が待ち構えていた。
 両手首を縛り上げた小さな体を肩に担う隊士を従え傲然と立つ長身の指揮官に、軽く目礼し、先に立つ。背に低く、声が響く。
「このような時刻にな――」
 指揮官の言葉に響くものに侍臣の一人が奥に向かいかけた足を止め半身を返した。
「カッサール卿――」
 そのなじるような視線に黒衣の指揮官は無言の凝視を返しただけだった。一瞬の沈黙を払って踵を返す足音が虚ろに響き立つ。
 点々と灯された燭台に導かれるように、一行は、玄関広間を突っ切り、正面の大階段を上っていった。
 王の居室は主塔の最上層である四層にあった。寝静まった城内、灯火の外の闇に人の気配はない、その静寂に、虚ろに響き呑まれていく足音を刻み、幾重にも折返す階段を上り詰め、四層の踊場から廊下へ、なおも続く灯火を追って二人の侍臣の足が早まる。
 灯火の外れ、幅広い廊下の正面に閉ざされた両開きの大きな扉に、急きたつ足を運ぶ、一行は王の居室の控の広間に入った。
 侍臣の一人が足早に奥の扉に消える。
「我らは、ここに――」
 残った一人が目顔で制するのにこたえ、指揮官――ギュラン・カッサールは付き従ってきた隊士を振り返った。
「下ろせ――」
 自らの肩に、少年の体を受取り、消えた侍臣の後を追う。
 その扉の内、列なる壁灯に照らされた王の居間に、だが人影はなかった。
 王は寝室か――足取りをゆるめることもなく進むギュランの前に寝室への扉が開き、先ほど消えた侍臣が姿を現わす。
 無言のまま首肯き、表に去った。背に扉が閉ざされる。ギュランは控の間の正面、左右に大きく開かれた扉から、一基の燭台の照らす光のなかに進みでた。
 己れの背丈ほどもある鉄製の燭台は入るものを顕らかにして部屋の中央より扉寄りに置かれていた。その光は広間ほどもある寝室、その奥に据えられた寝台のあたりまでは及ばぬか、わずかな照り返しにその存在を示すだけだった。
「ここへ――」
 声が響き、
 闇に薄く浮かぶ王の影に、深々と一礼したギュランは命ぜられるままに進み、寝台の手前に脚を止めた。
 闇に白く、王の顔が揺らぐ。
「立たせよ――」
 肩から下ろされた少年は身動ぎもしなかったが、気を失っても、眠っているわけでもなかった。虚ろな目を開き、木偶のように、なされるままに、立つ背を押され、ぎくしゃくと前に出る。
 豪奢な綾絹に被われた寝台を下り自ら歩み寄った王は、一歩を下がる黒衣の騎士には視線を向けることもなく、のばした手に少年の顎をとらえ身近く引寄せ、小さな顔を仰向かせた。
 ギュランが娘にかまっている間の慰みに配下の隊士によって短く刈り込まれた髪は、金冠草の枯れた花冠を思わせてその下の首筋の細さをより一層、際立たせていた。
 その少年を見据える、王は、だが無言のままだった。優しげな王の顔はその思いを伝えない。にわかに膨れ上がった不安に、ギュランの背を冷気が伝う。よもや、人違いなどはありえまいが、
 何が、不審か――
 昨日、ギュランにそのものの追補を命じた王は、最後に付け加えた。
 この任務、失敗は許されぬ――
 かつてないことだった。近衛隊の長であるギュラン自らにそのような任務を下す、それほどに、王をして意を傾けさせる、
 この少年が、竜の養い子という――王は、まことにあのような下民の、褒美の金目当てのたわごとを、信じているのか――
 その竜を、このような子供を質に捕えることができると、本気で思っているのか――灯火を背に受けて立つはかなげな後ろ姿に穿つような視線を向ける、ギュランは、ゆえに見ることはなかった。そのとき、王が獲物の額を、そこにともる仄かな光を、満足げに触れ、確かめたのを。ただ、
「下がってよいぞ。ギュラン」
 ようやくに、王の口をでた言葉に我に返る。
 仄白く浮かぶ思いの知れぬ笑みの前に、痛ましいまでに優しげな虜囚を残し退出する、背に、重い軋みを上げ、扉が閉ざされた。
 闇のなかに疑念を噛み締める、ギュランは、配下の隊士が待つ表の間に足を速めた。

 厚い扉は足音を断ち切った。
 その静寂を震わせ、微かな気配が走る。
 王の背後に潜み、立ち去るギュランの背に扉を閉ざした異様な影が、無言で手のなかの虜囚、その額にともる仄かな光に魅入られたものの視線を据える王の前に立ち戻る。
「こ奴を塔へ」
 背はギュランに及ばない、短躯とさえ言える、その胸の厚みが異常だった。黒革の胴着に包まれた分厚い胸。短く刈り込んだ褐色の頭髪が乱れかかる浅黒い顔が小さく見えるほどに盛上がった肩。男の下肢ほどに太く長い腕が屈むような上体の前に揺れる。
 巨大な狒狒か――遥か南方を旅し、その獣を知るものなら思ったであろう。そのものは、片腕に軽々と虜囚を抱え、奥の闇に消えた。


 黒の城には二つの玉座がある――人は、密かに、語り継ぐ。
 贅をこらした謁見の間に据えられた豪華な玉座の他に、ではどこに――
 問うものに、返る言葉は少ない。
 陰の塔よ――と。背けるように投げられる、視線の先にあるのは、城の主塔だった。
 城内からは決して目にすることのできぬ、城の立つ岩山の北端、断崖の上に、主塔の背面に添うように隠れ立つ塔がある。
 かつて、創王グリエンによって囚われた竜が繋がれていたという、主塔と同じく四層をなすその塔の最上層、王のみが自由に出入りできる城の奥処に、第二の玉座は据えられていると、問われたものは告げるのだった。
 だが、
 臣下の目に触れることもない、何故の玉座か――応えるは、ただ、微かに怯えを滲ませる忌わしげな視線だった。

 四方の壁面を被って張り巡らされた厚い緞帳がおぼろげに浮かびあがる寝室のもっとも奥まった一隅、その緞帳に隠された小さな扉の後ろに闇を湛える細い通路に、灯りを手にすることもなく、少年を連れ去った異形のものを追って、王がひそやかな足を運ぶ、
 その陰の塔に、
 灯された二基の壁灯が闇を際立たせる。
 ゆるやかな弧をえがく黒御影の内壁、円蓋、床、それらすべてが光を奪い、円形の広間を闇に沈めていた。
 一つの窓さえない常闇の広間にあるものは、壁から張り出した広い石壇、
 そして、石壇の正面、広間を睥睨するように蹲る、奇怪な獣の座像だった。
 ギュランの長身もその肩に及ぶか、
 折りたたまれ、両肩に瘤のように隆起した翼。その谷間に、前方にのしかかるように突き出た角のある頭部。太い嘴のある顔は鳥とも獣ともつかない。
 鋭い鈎爪のある脚は巨大な蜥蜴を思わせる、
 禍々しいうねりの峰に壁灯の光を鈍く弾く、それもまた艶やかに磨き上げられた黒御影の石像は、その姿の半ばを闇に沈め、円形にとぐろを巻く、太く、長い尾を模した台座の上に腰を落し、立てた膝の間に股間をさらして、坐っていた。
 その喉元から股間にかけて、折り曲げた左右の下肢に挟まれて、椅子の座部ほどの空隙が抱き込まれている、ゆえであろう、
 第二の玉座――と、ささやかれるこの像に、だが、人がかけるべき座面がなかった。
 代わりに、巨大な男根が座面の高さに屹立していた。
 左右に張り出した瘤状の基部、その上にそそり立つ子供の腕ほどの長さがある怒張。先端は人の陽物を模しながら根元は男の腕ほどもある、それは、まさに、巨大な楔だった。
 これにかけさせられたものは、頭上にのしかかる像の首に阻まれて立てず、やがて自らの重みに体腔を割られ、臓腑を引き裂かれながら絶命することになるだろう。
 長い――苦悶の末に。
 いかなる狂気が、このように陰湿で無残な仕掛けを考えだしたのか。像はただ、その狂気を体現して闇に踞る。
 今、
 その像に見据えられるように、傍らに身動ぎもしない少年を横たえ、もう一つの異形が蹲っていた。
 血肉を備えた身でありながら、その虚ろな表情ゆえに、いっそ作りものめいて見える、その顔に、不意に生気がゆらいだ。一点を凝視していた鈍い双眸が貪るような光を宿す、そこに、闇に浮き、薄い笑みを含む王の顔があった。
「まだ、覚めぬか――」
 像と石壇に二分された広間の内壁、その、像から見て右手になる半円の、石壇寄りに口を開く通路から姿を現わした王は、横たわるものに舐めるような視線を這わせた。
 壁灯は、通路の口の左右にともされていた。その光を背に受け、壁から張り出し、闇に紛れる暗色の褥に被われた石壇に歩く。
「目覚めさせよ」
 小さな舞台ほどにも広い、これも黒御影からなる壇の縁に片膝を立てた放恣な姿で腰を下ろし、王が命ずる。
 命ぜられたものは猿臂をのばし、横たわる細い体を引き起した。節立った指で薄い肩をつかみ、激しくゆさぶった。





VOL3-1
− to be continued −

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