VOL3-5





 無残に、胸の上に重ねられた右手に、さらに左手を縫い重ねたムゴルは、前後左右に押し回しながら、ゆっくりと、楔を抜き上げていった。
 屈み込んでいた体を起こした、その分厚い胸を思わぬ激情に喘がせる、ムゴルの視線がふと漂う。
 真青な、血の海だった。
 全ての血が流れ出てしまったかのようなその青の中に、己が血さえ、汚されることを拒むように弾き落した、雪白の肌が灯火に照り映えていた。
 両手を楔に貫かれたまま引き上げられた腕が、祈るように差し伸べられていた。
 ムゴルは、
 折れ捻れたままぐったりと力を失った体の上から脚を外し後ろに下がった。それにつれ、ずるりと、裂き開かれた胸から鎖が引き出されていく。腕が伸び切るまで下がり、握った楔の頭を床につく。そして、重なった指を踏み押さえ、容赦なく楔を引き抜いた。
 鈍い音とともに、骨を砕き、肉を裂き千切って、鎖が縫い通される。エリエンの体は、もう、微かに戦くだけだった。血さえ、わずかに滴ったにすぎなかった。
 楔を外し、貫かれた両手を一括りした鎖の端を雪白の体の下から伸び床に這い奥の闇へと消えるその鎖に繋ぐ。
 硬い音を響かせ、
 エリエンを捕えた青金の輪が、閉じられた。
「吊せ‥‥」
 王の声が陶然たる余韻をひく。
 足下に横たわるものに魅入られたものの視線を据える、王はムゴルを見ようともしなかった。その姿に、振り仰いだムゴルの双眸が刺すような光を含む。
 だが、ムゴルはすぐに怖じたように顔を伏せ、石壇と壁灯の間の壁に走る。そこには肩の高さに太い鉄の鐶が植えられていた。鐶には、床に埋み頭上の闇に消える太い綱が通され、結ばれていた。
 ムゴルの手が結び目を解き、床に埋む綱が跳ねるように頭上の闇に吸われていく。
 綱の端は床に植えられた鐶に結ばれていた。二つの鐶の間で綱が張り切ったとき、広間の中央、腰ほどの高さに大きな鈎が垂れ下っていた。
 灯架を吊す鈎であろう、その鈎に、エリエンの両手を括った鎖の輪をかけ、壁ぎわに戻ったムゴルは頭上に消える綱を手繰る。
 頭上の闇に滑車が軋み、括られた両手が高々と吊り上げられていく。肩が、胸が青い血の海から引き起こされ、囚われたものは白雪の喉を曝して仰反った。
 鎖が鳴る。
 人であれば生きてありえぬその姿の無残さに、不意に重熱い痺れに下腹を抉られて王は息を啜った。
「よいぞ‥‥」
 鎖の動きが止まる。
「よい‥‥姿だ‥‥」
 痛々しく吊り下げられた美しい獲物の、いまだ床に横たえられたままのしなやかに細い腰、のびやかな下肢――その狭間に確かめ得たばかりの感触をまざまざと己が指に甦らせた王の唇が、笑み歪んだ。
「まさか、気を喪っているわけではあるまい‥‥立て‥‥ここに、来い‥‥」
 淫靡な期待を滲ませて擦れ沈む声に、鎖が鳴り、仰反った喉が、ヒクリと、引きつれた。
 確かに、エリエンは気を失っていたわけではなかった。両の手に、胸に食入り肉を灼く激痛に、眩みかける意識は、また、それ故に引き戻される。だが、全身から流れ出た血とともにすべての力を失い、身動ぐこともできぬほどに弱り果てたエリエンに己が身を起すことは、できなかった。
 王は、赦そうとはしなかった。
「ムゴル――質を玉座にかけよ。こ奴には、どうやらわしの命はきけぬらしい――」
 残酷な王の言葉に応えて、ムゴルが動く。その気配に、エリエンが咽ぶように声を絞った。
「いけない‥‥いけな‥‥い‥‥今の‥‥わたしに‥‥癒しの力はない‥‥死なせて、しまう‥‥殺して‥‥しまう‥‥」
 必死に気力を振り絞って、掌に縫い通された鎖を握りしめ、両腕の間に仰反っていた首をもたげる。身悶えるように膝を引寄せ上体を起こしかけて――力尽きた。
「立て‥‥ない‥‥嘘では、ない‥‥その子を、責めないで‥‥くれ‥‥いま少し‥‥待って‥‥力が‥‥戻る‥‥」
 腕に顔を伏せ、瘧のように身を震わせて哀願する。姿に、貪るように視線を這わせていた王が、立った。
「ムゴル――」
 何も知らずに眠り込む、リュールは安らかな寝息を口元に這わせていた。その頭上で、節立った手が空をつかむ。のそりと、大岩のような上体が起こされ、王に向き直った。
「そ奴を、立たせてやれ――」
 ムゴルは再び壁ぎわに戻る。その、手に繰られ、荒々しい衝撃をともなって、鈎が引き上げられていった。
 エリエンは喘いだ。両手に激痛が弾ける。
 自らの重みに耐えかね裂かれていく肉に。絞られていく鎖の輪に、括られた骨が軋み、握り支えていた指が力なく捩れる。
 それでも容赦もなく吊り上げられていく、腰が、床から離れようとした、刹那――
 ざわりと、黒銀の髪がゆらめいた。
 流れ出た血は一面に床を覆う、その燐火を帯びた青の澱みに先を浸して腰までも届くほどに長い髪――その血に濡れ燐光をまとって仄青く光り微かにざわめく、それが――
 腰が床から離れてなお意志あるもののように流れ出た血に慕い伸び、その血の中に髪先をたゆたわせ続けているのだった。
 そして、今――
 その仄かに燐光を放つ青い血が霧のように立ち昇る金砂の流れとなって、魅入られたようにみつめる王の前にさらさらと絶え間なくきらめき立ち、漂い、ゆらめく髪にまつわっていく。
 途絶えることのない仄かな流れに、しだいに暗みをましていく青い広がり‥‥
「美しい‥‥」
 王の唇に這う、それは吐息だったか、
 すでに己が丈より伸びた髪のなかに脚を曳き、エリエンはその全身を、宙に引き上げられていた。
「己れほど美しいものが‥‥また、あろうか‥‥己れこそ‥‥この身にふさわしい‥‥」
 首筋を這い、髪の根を嬲り絡めとる指に仰向かされ、細く、悲鳴が走る。
「この髪の‥‥何という、手触りよ‥‥」
 綱はもう、引き上げられてはいなかった。
 静止した鈎の先に高々と吊り上げられた両手を噛む激痛に眩む、視界のなかに白く顔があった。
 陶然と笑みを食む、こよなく優しげな、顔が――
「またなきものよ‥‥流れ出た血さえが、その身に戻っていく‥‥いかに、傷つけようと‥‥たとえ、その紫玉のごとき目を抉り、この肌を削ぎ落そうと、時を置けば疵一つなく癒えるというが‥‥苦痛は、人並みにあるか‥‥」
 エリエンは目を閉ざした。それだけが、唯一残された抗いの術であるかのように。
 だが、
「目を開けよ。この先、このように目を閉ざすこと――許さぬ。もし背けば‥‥その目いらぬものと、抉りとる。幾度でもな‥‥」
 いたぶる声さえが、優しげだった。
「血も、あらかた戻った。もう、立てような‥‥」
 無残に戦く脚を踏みしめ、辛うじて立つエリエンの、紫黒の双眸を覗き込みながら王は声もなく笑った。
 手が、エリエンの体を撫で上げる。
 ぞくり‥‥と、痺れるような悪寒に腰骨を舐めずられ、脚が萎える、刹那、両手に突き抜ける、衝撃――
 脇腹から背に、腰に、胸に、それが数度にわたって繰り返されたとき、戦く下肢はもう自らを支えることはできなかった。
 ぐらりと体がゆらぐ、そのたびに視界を晒して襲いかかる鎖に貫かれた両手の激痛にまさる堪え難さで、ねっとりと、なぶり上げる手から逃れようと、エリエンは弱々しく身を捩っていた。
「これが。それほどに‥‥耐え難いか‥‥」
 わななく唇から漏れ出るのはきれぎれの喘ぎであった。ただ、苦しげに眉をひそめた端正な顔が声にならぬ哀願を込め、うなずく。
「では。これは‥‥どうか‥‥」
 吸いつくように肌に絡む手はしかし、なおも内股を這い上がる。その執拗さに、
 一瞬竦み上がった体が、その腰が虚しくひかれた。
 手は、戦く肌に貼りついたまま、ぞろりと狭間の極みにすべり込み、そこにあるものにやんわりと絡みついた。
 紫黒の双瞳さえが、竦む。
 何故‥‥
 やわやわと弄ばれる己れに、再び、肌をなぶられる以上の、さらなる峻烈さで痺れるような熱痛が疼き上がり、背を貫き奔った。
 王の手によって紡ぎだされる、それは舐るように腰骨を炙り灼き、背骨に絡み上がる陰火か‥‥
 白熱する視界の中で得体の知れぬ恐怖に狩り立てられ、エリエンは闇雲に身を捩り、逃れようと身悶えた。
 何故‥‥今、これほどに耐え難い‥‥
 その手に嬲られ、はじめて知る熱いうねりに股間をはまれながら、王にその欲するものを告げられたときすでに覚悟したことではなかったか。だが‥‥
 これは‥‥違う‥‥
 これほどでは‥‥なかった‥‥
 青金の鎖に貫かれ、もはや逃れることのかなわぬ身となったときでさえ、エリエンの内にあったのは諦めでさえなかった。
 ただ、限りない、受容――
 この、熱い血を持つ者等の生――いかに長かろうと、変わることを、老いることを知らぬエリエンに、それは、須臾の間にも等しいものだった。
 いかに、責め嬲られようと、それはリュールの生の間だけのものにすぎなかった。いずれ、リュールは老い、その生を終える。そして、エリエンは己が自由を取り戻すのだ。
 たとえ、それが自らの存在を断つ自由であろうとも。
 己が、存在を絶つ――その思いが、エリエンの心に滴り落ちてきたのはいつのことか。
 長い間――
 ほんとうに、長い――間――
 それは、その思いは少しずつ、少しずつ、意識するまでもなく、心の空虚に滴り続けていたのではなかったか。
 そして、
 リュールを知り、己れの存在ゆえにそのリュールを質にとられたとき、満ち上がり、漲り落ちる雫のように、意識の上に、落ちてきた‥‥
 そこに、怖れるようなものは何もなかった。
 生に倦む孤独な竜人に、怖れるべきものなど、在りようもない――はずだった。
 それが‥‥
 この‥‥得体の知れぬ、痺れは‥‥何なのか‥‥
 王の手の下に灼け崩れ、爛れ落ちていくかのような熱痛――それだけなら、耐えられた。だが。腰を、脚を萎え痺れさせて絡み上がる、とろけるような、この疼きは‥‥
 眩む視界に、それを、
 衝き上げる恐怖を、紫黒の双眸のうちに見取ったであろう王の唇が吊り上がった。刹那。前にない荒々しさで握り込まれ、揉みしだかれて、エリエンは仰反った。黒銀の髪の上で、燐光が弾け散った。





VOL3-5
− to be continued −

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