VOL4-1
グリエムランの城下を南北に貫く大路の西に、その一郭はある。 凍てこごえた町並みのなかに、その辺りだけは降りた寒気をゆるめて、ときおりむっといきれる酒気を漂わせる。 日が暮れてなお人足の絶えぬその一郭にありふれた酒楼――二階から上の宿に泊まるものは旅人とは限らぬような、店の一つに、 分厚い木の扉を押し開き、背に雪を巻いてまた一人、男が入来した。 屋内の熱気に、湯気立つ外套を肩にはね上げ、侮蔑を絡めた酷薄な視線で立て込んだ広間を見回した男は、奥の上客用のかこいのある一隅に噛むような足取りを向ける。 その姿を目にしたものは驚きに身を竦め、あわてて顔を背けた。外套の下には、王の近衛隊の指揮官たる騎士の黒衣があった。己が富裕を誇るように、見事な作りの長剣を下げた新来の客に、それでも、娼婦と知れる女がすりよる。男は、冷ややかな一瞥を投げ、しなだれかかる腕を払い除けた。 酔った男たちが声高に談笑し女たちの嬌声が弾ける、広間には商人や職人であろう町のものに交って城の兵士や士官の姿があった。男ほどの身分のものはないか、なかには好奇の目を向けるものもある。そのような視線を肩先で切って落とすように、男は壁ぎわに並ぶ太い柱の陰の奥まった席のひとつに腰を据えた。 じきに酒が運ばれ、料理が並べられる。 別の女が同様に追い払われると、ただ黙々と杯を啜る男にかまいつけるものはなくなり、人いきれとざわめきのなかに忘れられていった。 また、扉が開き、 雪混じりの風とともに二個の人影がもつれるように入ってきた。 二人は客用の席には向わず、奥の調理場に入り、肉を炙る暖炉の前の空樽に腰を下ろした。頭巾を背に下ろし、かたく巻き付けていた外套を解く。 髪に白いもののまじり始めた痩せた初老の男と、黒髪の娘だった。男はふところ深く抱えていたレベックを膝に寝かせ両手をもみ合わせる。娘も長靴を脱ぎ手足をこすり始めた。 寒気に凝った体を一心にほぐしている二人に下働きの少年が杯と木の椀をもってきた。 「旦那からだ」 男に杯、娘に木の椀をわたす。どちらも心までを温めるような湯気を立てていた。 「すまないね‥‥」 人のよげな顔を笑み崩し、男は両手で包み込むようにした杯を口に運ぶ。すぐには飲まずに立ち昇る葡萄酒のかおりを楽しむように顔にあて、目を閉じた。 木の椀には舌の焼けそうなスープが盛られていた。少し冷めるのを待って、娘はぼんやりと手の中の椀を見つめる。 「今日は、遅かったな――」 広間と調理場を行き来しながら采配を揮っていた亭主が上背のあるがっしりした体躯をのぞかせ、声を投げた。 「この雪だからね。すぐ始めるよ――」 応えて、男は諦めたように唇を歪め、一気に杯をあおった。 「たまらないね‥‥」 大きく息を吐いて立ち上がり、樽の上に外套を脱ぎ落した。娘はあわててスープをすすり込む。 「お前さんはまだいいよ。ゆっくりあったまってから来るんだ――」 レベックをかまえ指を慣らすようにかき鳴らしながら、男は広間に出ていった。 すぐに、陽気な旋律に乗せてさびた声が響いてくる。 「偉大なる吟遊詩人、アモン様のお出ましだよ。だれか、歌を所望のご仁はないか――」 「歌より女だ。テッサをだせ――」 酔いだみた声がかかり、広間がどよめいた。 「これは、つれないことを言いめさる。今宵の殿御は、どなたも歌をめされぬか――」 「そんなことはないぞ――俺は所望だ。陽気なやつをやってくれ――」 「太っ腹な旦那様よ。神のご加護がありますぞ――」 へつらうでもない洒脱な掛け合いに続いて弾むように弦が響きたち、枯れた歌声がそれに和した。 美声というのではなかった。耳に心地よい声が浮き立つような旋律で剽軽た恋の駆け引きを歌いあげる。 広間が湧いた。手拍子が起こる。無数の足が床を踏み鳴らす。やがて。その響動のなかに唄が果てた。レベックは止まず、繰り返しの旋律のなかに手拍子を導く。 いつのまに出てきたのか、調理場との仕切りになっている勘定台の前に、黒髪の娘が立っていた。艶やかな肩を、胸元を露わに、幾重にも巻き付けた飾り紐で脛までたくしあげた白い衣をまとい、無意識の素足が拍子を刻んでいる。 「我らが舞姫のお出ましだ――」 アモンが呼ばわった。白い衣を翻してテッサは広間に躍り出た。 広間の中央、客席に挟まれた長い通路でレベックの旋律にのり、巧みに身をひねり、拍を踏み、旋回する。裳裾が舞い、艶めいて白い太股がのぞく。そのたびに喝采が湧き起こった。 大きく寛げた胸元に汗が光り黒髪が散りかかる。しなやかな腕を泳がせ空を抱く、まだ熟れ切らぬ青い果実のような肢体は決して肉感的とは言えなかったが、その舞には男の官能をそそって止まぬ何かがあった。 あるいはそれは、その表情ゆえだったか。 きつい、少年のような顔がうっすらと笑みを含む、娘は己が舞に酔っていたのかもしれない。だが、その陶然とした眼差しが己れの上を掠めるとき、黒々と濡れた双眸に誘われたように身内深く疼き上がるものがあるのも確かだった。 だからか。この冬、夜毎、この酒楼で舞を売る娘に入れ揚げて通うものも少なくなかった。 しかし、これまで誰一人としてこの娘をものにしたものはなかった。頑なに、言い寄る男たちをかわしてなびこうとしない娘を、さりげなくかばう、アモンの存在も無視できぬものだった。 冬ごとに、この地を訪れるアモンの、巧みな話術とレベックと唄は、もう馴染みのものだったし、その人柄は慕われてもいた。 何故この二人が連れ立つようになったか、二人の間柄はいかなるものか、憶測には事欠かなかったが。 やがて、 曲はゆるやかに、たゆとうように終わり、娘は深々と腰を屈め一礼した。 身を起こした娘にアモンは被っていた布帽子を投げる。自身は腰にさげていた革の小袋を手にしたアモンと、その帽子を両手に掲げた娘が客席の間をまわりはじめた。 つぎつぎと、小銭が投げ入れられる。 不意に腕が伸び、娘の腰を引寄せた。 「気に入ったぞ――娘。今夜は俺が買ってやろう――」 酔い濁みた声を浴びせ男が立ち上がった。 その巨躯がほっそりとした娘の体を拉ぐように抱き竦め、首筋に酒臭い口を這わせる。 「旦那。放してくださいよ。あたいは売り物じゃないんだ――」 娘は男の両肩をつかみ、懸命に身を引き離そうともがきながら言った。 「肌を晒して男を誘っておきながら――いまさら、それはあるまい。こい――」 馴染みの客であろう、気色ばんだ視線を投げ、なかには腰を浮かしかけたものもいたが、その巨躯や、城の騎士団の正騎士たる深紅の胴着のゆえばかりではない、 エゴウ‥‥ ‥‥赤毛のエゴウだ‥‥ 周囲にささやき交わされる、その、戦場での働きが知れ渡った名に、身を竦ませた。では‥‥これが、あの‥‥ としたら腕ずくでかなうはずもない、相手が悪かった。息を潜めるように視線を流した。 そんな周囲のざわめきをよそに、身を強張らせた娘を横抱きに席を離れようとした巨漢は、しかしそのまま脚を止める。 「肌を晒して舞を売るのが、身過ぎの娘――誘われたとあればお許し願いましょうが、押してというは無体というもの――」 どこか剽げて歌い語りに弦を爪弾く、悲哀の澱をにじませた痩せた顔が、半身を返した巨漢の視線を受け止めていた。 「今宵の舞は、まだ、これから――」 座の空気を掻き立てるように、弦を鳴らし手拍子を誘う。その陽気な旋律に騒然と広間がわいた。手が打ち鳴らされ、床が踏み鳴らされる、その響動のなかにテッサの名が繰り返されるのを聞いてアモンは小さく会釈した。 「どなたも舞をご所望だ――」 挑むというのでもない、ただ臆するふうもなく見上げてくる痩せた顔に、行手をふさがれ、巨漢は酒気に染まった顔を獰猛な笑みに歪めた。 「食えぬ奴よ――」 恫喝をひそめた穏やかともいえる声を吐く、その腕が弛み、すかさず身を離した娘は、弾けるような弦の響きにのがれるように身を舞わせた。 背に流れる髪を乱し、手拍子にのり、くるめくように舞う、娘の青褪めた頬がやがて薄く上気する。 いつか曲は哀調を帯びたものに変わり、頬を染め息を切らした娘の舞いを、さびた声が昔語りに歌いつぐ。 テッサが調理場に引き上げたあとも広間に残ったアモンの歌は続いた。曲が変わり弦がかき鳴らされ、談笑の声が湧く。何事もなかったような喧噪が、ふたたび広間を満たしていた。 そのなかを、奥まった席にひっそりとこもっていた客が立ち、勘定台に向った。 ふと視界をよぎった黒衣に、席に戻り娘のことなど忘れたように呑み興じていた巨漢が視線を送る。 勘定台の前に立つ姿は見知ったものだった。ギュラン・カッサール――その意外さに、かすかな薄笑をきざんだ。 だが、 調理場から呼ばれ何事か言葉を交わしていた亭主の困惑した顔の前に金貨が積まれ、あの娘が呼び出されて、薄笑は消える。 勘定台の横に二階に上がる階段があった。 先に呼ばれていた下男が手燭を手に所在無げに階段口に立ちなりゆきを見ている。 現われた娘は怯えを滲ませた暗い双眸を黒衣の騎士に据え、無意識に壁にすがりついた。その全てがギュランを拒んでいるのは明らかだった。それでも、傲然と踵を返し、階段に向うギュランの背を、娘は追った。 階上に消える二人の姿に、巨漢はいまいましげに舌打ちした。 「酒だ! 酒を運べ!」 声に、酒瓶を抱え客席の間を回っていた給仕人がかけよる。 「陽気なやつをやれ――」 広間の奥に腰を据え客の求めに応じていたアモンの指が弦の上を走り、浮き立つような音が広間を埋めていった。 VOL4-1 − to be continued − |