VOL4-2
その、広間をあふれだした音の細片が階段を上り暗い隧道のような廊下を伝い流れてくる、二階の奥まった一室―― 無表情に押し黙ったまま卓上の燭台に火を移した下男が立ち去り、扉が閉ざされ、 にわかに込めた静寂の中で、 ギュランは円卓を囲む椅子の一つに傲然と腰を下ろし、扉の横に凍りついたように立ち尽くすテッサを視線の刃で撫で上げた。 部屋の中央に据えられ燭台の置かれたその円卓の奥に、大きな寝台があった。 店で最上の部屋であろう、敷きのべられた夜具もテッサには上等と見えるものであったが、意識には留まらなかった。気づいたところで慰めにはならなかったであろう。 願っていたのに‥‥と、怯え痺れた心の隅でテッサは己れを叱咤する。このときを、待っていたのに‥‥と。 シェラムの館を去り、グリエムランに舞い戻ったテッサは、城門を見上げる大路の外れに立ち、誰彼なく城から出てくるものに聞き縋った。 リュールの白い衣を隠すために、途上に一夜を明かした農家の干場から持ち去った古布をまとい、旅に汚れ、やつれはてたテッサに応えてくれるものはなかった。 あわよくば忍び込もうという目論見も虚しかった。つけいる隙のない警備に守られた堅固な城だった。 四日目に、雪が降りはじめた。 城門から続く広い傾斜路の尽きた道脇に、置き捨てられた襤褸のように蹲ったテッサは通りかかるものに腰を上げることもなくなっていた。 疲れきっていた。飢えてもいた。市で稼いだ僅かな小銭も使い果し、昨日から何も食べていなかった。テッサが凍え死ななかったのはリュールの白い衣のおかげだったが、飢えまではどうにもならなかった。 その日も暮れようという頃、 目の前の薄く積もった雪のなかに小銭が投げ落された。 ぼんやりと拾い上げ、凍えた顔でふり仰ぐ、そこに、その城兵は立っていた。初めの日、縋りついたテッサを蹴り放した男だった。 「弟が、捕えられたといったな――捕えたのは黒衣の騎兵だったと――」 「そ‥‥です‥‥何も、して‥‥ないのに、とらえて‥‥つれてった‥‥返して‥‥」 「黒衣の騎兵――王の近衛だ。彼等に捕えられたというなら――追っても無駄だ。諦めて去れ――死んだと思うことよ――」 「うそだ‥‥リューが死んだなんて‥‥うそだッ――まだ十日とたっていないのに――」 不意に、立ち上がった娘に胸元に縋りつかれ、振り払おうとその肩に腕をかけた城兵は、ふとその動きを止める。胸元に額を押しあてた娘は、肩を震わせて泣いていた。 「死んだというなら‥‥死体でもいい‥‥あわせて‥‥お願いです‥‥」 関わってしまったことへの後悔か、娘の見せる悲嘆への困惑か、城兵は表情に乏しい顔を苛立たしげにしかめた。 「無理を言うな。王の手に落ちたものの末路など、我らなどには、知りようもないことよ。知れるのは側近でもほんの一握りだ。このようなところでいくら待ち続けようと知ることなどできん。目障りだ。消えろ――」 力任せに引き剥がした娘の体を突きのけ、足早に離れていく。よろめき立ったテッサは吹き寄せられるように、あとも見ずに遠ざかる背を追って歩きだしていた。 城兵が向った先は城下の酒楼街だった。 人波に紛れ、気づいたときには、追ってきた背を見失っていた。薄闇の下りた細い路地に途方に暮れて立ち尽くす。屋根の狭間の空が仄明るい。降りしきる塵のような雪のなかを暗い影が行き交う。テッサ自身もみすぼらしい案山子のような影だった。 不意に、連立った影がテッサを突きのけて一つの扉に消えた。束の間、開き閉じた扉の内から漏れ出たレベックの響きに、 誘われるようにテッサは扉を押し、その酒楼に入っていた。 たちまち熱気に押し包まれる。肉を炙る香ばしい匂い、旨そうな煮込みの匂い、そして立ちこめる酒の匂い。心弾む弦の響き、さびた歌声――テッサは、陶然と目を閉ざした。 不意に。腕をつかまれ振り回される。 「出ていけ。ここは乞食の来るところじゃないぞ――」 開かれた扉の外に押し出されようとして、テッサは自分が小銭を握り締めていたことに気づく。あの城兵が投げ落した小銭だった。 「あたいは客だ。お金だってある――」 擦れた声を上げたときには道に突き飛ばされていた。その鼻先に扉が閉まる。 「ちくしょう――」 雪と濡れた泥にまみれ、涙を噛む、テッサはもう、立ち去る気力はなかった。壁ぎわにいざり寄り、膝を抱え蹲った。 いつのまに眠ったのだろう。突然、腕をとられ抱え起こされて、テッサは弱々しく抗った。 「お前さん、凍死する気かね。さあ――立つんだ」 聞き覚えのある声だった。でも、どこで‥‥温かな響きのその声に、警戒心を挫かれテッサは促されるままに立ち上がっていた。 「そのなりじゃ、客というのは無理だ。いくら金があろうとね――」 「どこへ‥‥」 問いながら、テッサは思い出していた。あの酒楼で歌っていた人だ‥‥ 「わたしの宿さ。お前さんには食物と寝床が必要だ」 わずかに身を震わせたテッサは、だが、もう抗おうとはしなかった。 これが。テッサとアモンの出会いだった。 アモンがテッサを伴ったのは酒楼からさほど離れていない厩舎だった。番人の小部屋の暖炉の前で、与えられるまま、黙々とパンとスープを口に運んだ。 寝床は、厩の二階の藁のなかだった。 それを覚悟していたテッサに、だが、夜中にのびてくる手も、のしかかってくる体もなかった。 目覚めたとき、藁のなかに他に人影はなかった。小さな明かり取りの板戸が上げられ、差し込む光のなかに、壁に寄せて革袋に納めたレベックが置かれていた。床下から微かないななきと蹄の音が聞こえてくる。 梯子を伝って下りると、番人を手伝ってアモンが馬たちに飼葉をやっていた。 「裏に井戸がある。泥を落すといい――」 言われるままに裏に出て、顔を洗い、髪を拭う。ふと顔を上げると裏口の扉の前に桶を下げたアモンが立っていた。 「見違えたな。それだけの器量なら、何も乞食をするには及ぶまいに‥‥」 「あたいは乞食じゃない‥‥でも、体を売るくらいなら乞食のほうがましだ‥‥」 己が言葉に、強い光を宿したテッサの双眸がすがめられた。 「それで‥‥乞食だと思って‥‥昨日は‥‥」 「抱かなかった――か?」 テッサの呑んだ言葉をアモンが続けた。 「お前さん、そのつもりでいたようだったが、抱かれたかったわけじゃあるまい――」 「今のあたいには‥‥ほかに‥‥なにも、ないから‥‥お金だって‥‥銅貨が一枚きりだ‥‥カムサンと別れて‥‥もう‥‥稼げない‥‥旦那‥‥親切にしてくれた‥‥旦那が欲しいなら‥‥」 身を強ばらせて立つテッサの前で、水を汲み上げたアモンが苦笑に皺めた顔を向けた。 「旦那はよしてくれ。毎年、冬にはこの厩で世話になって、あの酒楼で唄っている。わたしはただの旅の歌唄いだよ。それに、嫌がる娘を抱くほど若くもない。お前さんのいい人だったのか。カムサン――か。何で稼いでいたのかね――」 「いい人なんかじゃない。あいつは、あたいたちを拾って仕込んでくれたけど、あたいを好きにした‥‥あいつが‥‥レベックを弾いて‥‥あたいが、踊った‥‥リューさえいたら‥‥リューが鈴を‥‥」 アモンを見つめたままの、テッサの双眸から涙がこぼれ落ちた。声もなく涙を流し続ける娘を、アモンは無言で眺めていたが、やがて、踵を返した。 「おいで――」 馬たちに水をやり、その世話を終え、番人の部屋でまたパンとスープの食事をとった二人は二階の乾草置場に上がった。 「これで、夕方まですることもない。一眠りするだけだが――」 アモンは積み上げた藁によりかかり、レベックを膝に抱えた。 「お前さん――これからどうするね――」 「どう‥‥」 梯子の上がり口に突っ立ったまま呟く、テッサは途方に暮れたような目を向けた。 「リューというのかね。王に捕えられたお前さんの弟――」 「どうして‥‥」 切れ上がった暗い双眸が見開かれる。 「城門の前で聞き回っていたと、客が話していた。――だが、お前さんは知らんのかね。この国の王の噂を――」 テッサは応えなかった。ただ、睨みつけるような視線を据えて押し黙る。 アモンは吐息した。 「聞いてはいても、信じたくはないか――」 不意に。 テッサは両手で顔を被い蹲った。 「リューは生きている‥‥あの子が‥‥死ぬなんて‥‥そんな‥‥そん‥‥な‥‥」 体を震わせて咽び上げるテッサに、アモンは何も言わなかった。慰めの声をかけることさえしなかった。ただ少し疲れたような表情を浮かべ、膝のレベックを袋から取り出す。 低く、爪弾く。その音のなかに、やがて、テッサの押し殺された泣き声が静まっていった。 「あなたの‥‥レベックは、優しい‥‥カムサンは‥‥違った‥‥巧かったけど‥‥あいつは‥‥あたいを好きにしただけじゃなかった‥‥あたいたちを、売った‥‥フィオを‥‥」 「フィオ?」 「まだ‥‥十になった、ばかりだったのに‥‥やめてって頼んだのに‥‥好きものの領主に‥‥嬲りものにされて‥‥おかしくなって‥‥ものも言わなくなって‥‥なにも、食べなくなって‥‥飢えて、死んだ‥‥たった一人の‥‥弟なのに‥‥守れなかった‥‥」 いつか、弦の音も止んでいた。 「この秋、黒の森の外れで行き倒れてたリューを拾った‥‥似たとこなんか、ひとつもないのに‥‥弟が‥‥帰ってきたと‥‥思った‥‥なついてくれて‥‥うれしかった‥‥それを‥‥あいつは、また、売ったんだ‥‥リューはフィオより強い子だった。おかしくなりも、死にもしなかったけど‥‥もういやだった。二度と‥‥させないと思った。だから、ここの市であの人がリューを買うといったとき‥‥あたいは‥‥」 テッサは顔を上げた。泣き笑いに似たおかしな表情でアモンを見上げた。 「あの人は‥‥あいつの手からリューを救けようとしただけだったのに‥‥そんなことわからなくて‥‥あたいが、みんな、ぶちこわしたんだ‥‥リューが王につかまったのだって‥‥あたいが‥‥」 ふと、テッサは口をつぐんだ。 床に目を落し、もう何も語ろうとはしなかった。 やがて、 「まだ、この街に――いるかね――」 アモンが聞いた。 「リューを‥‥おいていくなんて‥‥」 「わたしのレベックで、踊るかね?」 のろのろと、顔が上がる。 「あなたの?‥‥」 「踊って見せてくれ――」 再び、アモンがレベックを弾きだす。 ゆるやかな旋律に引かれるように、テッサは立ち上がり、踊りだした。 弱り切っていたテッサがアモンに連れられて、酒楼で踊るようになったのはそれから数日してから、だった。 リュールの消息を知りたい‥‥ かなうなら救いだしたい‥‥ 城のものが多く出入りする酒楼で踊っていれば、 いつか‥‥ 奇跡を願うように、 一月が過ぎた。そして、 ようやく、出会うことができた相手なのに、 その男を前に、だが、床に貼りついたような己が足をテッサは前に出すことができなかった。 VOL4-2 − to be continued − |