VOL4-4





 なぜ‥‥
 この人がここに‥‥テッサに考えられることは一つしかなかった。
「ゆるして‥‥いまは‥‥ゆるして‥‥」
 抱いた衣で前を被い床に座り込んだまま、テッサはにじるように後ろに下がった。
 テッサを見、ぐるりと部屋の中を眺め回していた巨漢はその声に視線を返し、腹立たしげに舌打ちした。
「寝かせてやれ――」
 怯えを滲ませ、震える、傷だらけの娘に視線を据えたまま背後に声を投げ、大股に部屋に踏み込む。後ろにつき従うように続いた小柄な影がテッサの前に屈み込んだ。娘の強ばりついた腕を解き、衣をとったアモンは無言で着せかける。
「立てるかね?」
 その、穏やかな声に、テッサは顔を歪めた。涸れ尽きたと思った涙が、こぼれ落ちる。
「アモン‥‥どうして‥‥」
 取り出した小布で傷ついたテッサの頬の血を拭ったアモンは、背に回した腕で抱え起こそうとした、その動きが一瞬止まる。背中にあたった腕に身を強ばらせるテッサに、眉を寄せる。
「あとで、薬をもらってこよう‥‥」
 アモンに支えられ、ふらつく脚を踏みしめて立ち上がったテッサは、だが寝台にいざなう腕に抗って、歩こうとはしなかった。
「どうして‥‥いやだ‥‥帰らせて‥‥」
 しりごむ足元の床に、点々と血がしたたり落ちていく。椅子の一つをつかみ寄せ荒々しく腰を下ろした巨漢はただ無言で、それを眺めていた。

 赤毛のエゴウ――そうささやかれた、巨漢は、名をエゴウ・シヴォーといった。
 今となっては腹立たしいかぎりの気紛れから手を出したこの娘を、ギュランが買うのを見なければ、その場限りのものだったはずだ。
 絡められたのは好奇心か。
 知る限りにおいて、街の女に食指を動かしたことなどないギュランだった。たしかにそそるところのある娘ではあったが、卑しい旅芸人にすぎない。それを、あの権高なギュランがどのような顔をして抱くのか――
 それとも、
 己れを袖にしながら、所詮は金で身をまかす――娘のやわらかな体の感触に呼び覚まされた熱い疼きゆえの執着なのか。
 酔い騒ぐ席に杯を重ねる、エゴウは己れを嗤いながらも、つと二階に続く階段口に視線を振り向ける。
 それが何度目か、
 そこに、闇が凝ったようなギュランの姿を見出していた。
 思わぬ早さで下りてきたギュランは、懐から取り出した小袋を勘定台の前で広間に目を配っていた亭主に投げ渡した。
「女は買った。明日、迎えをよこす」
 小袋の中身を手の平にあけた亭主が驚きの目を上げる。一握りの金貨が鈍い光を放っていた。
「テッサを――買ったと仰せで 」
 否応も聞かず、ギュランは扉に向っていた。背に、声がすがる。
「閣下は、思い違いをなさっておいでだ。あの娘はわたしのものではございませんで。買うと仰せあっても――お売りはできませんので――」
「そのような言いぐさが、通ると思うか」
 冷ややかに切って捨て、扉を開く。
 一瞬の雪を巻いて閉ざされた扉に、その姿は消えていた。
 亭主は憮然として立ち尽くす。肩に、手が置かれた。一息入れに調理場に戻っていたアモンだった。疲れた表情で首を振ったアモンは亭主の手から小袋をとり金貨を戻すと、階段に向かった。
 その背に、
 ゆらりと立ち上がったエゴウが続いた。
 薄暗い階段を上り、急ぐでもない足取りで先を行く小柄な影に並ぶ。
 無言で横に立つ巨漢に、アモンは脚を止め、もの問いたげな視線を上げた。
 痩せた、悲哀の澱を滲ませた顔を、エゴウは己れも脚を止め、苦々しく見返す。確たる目算を持って後を追ったわけではなかった。
 何にせよ、
 エゴウに対しては身を硬くして拒んだ娘が、いともあっさりと己れを売った――それが、治まらなかったに過ぎない、だからよと己れに呟く、エゴウの声が喉に軋る。
「確か、売物ではない――はずではなかったか。これは、どういうことだ。俺は虚仮にされただけか――」
 アモンは、廊下の隅の弱い灯りに照された思いの知れぬ顔を、わずかに傾げた。
「何だ――」
 応えようとしない相手に、エゴウの声が苛立つ。
「それを‥‥自ら質しにいかれるとあれば、わたしには、どうしようもない‥‥にしても‥‥あなた様ほどの身分のお方が‥‥何故、あのような卑しい身過ぎのものを、お構いなさるかとな――いや‥‥あなた様ばかりでは、ないか‥‥」
 アモンの顔が薄く歪む。苦笑というには悲しげでありすぎた。エゴウはうっそりと黙り込む。
 何故――
 その言葉に、いまさらながらに思い知る。
 鮮やかに踊る娘の姿態――白い肌を晒しながら不思議に淫らなものを感じさせないその娘を、それでも、己がものにしたい――優美にしなうほっそりとした体を、思うさま抱き拉ぎたい――矢も楯もなく疼き上がった熱い衝動は今なおくすぶり続けている。
 酔いに任せ、楽士の巧みなあしらいにも引き下がらねば、娘は今頃、己が手の内にあったのだ‥‥
 不意に。エゴウは鋭く舌打ちした。
 あれは、ただの気紛れよ!
 くだらぬ――酔いの為せる気紛れよ。
 それを――
「何故――このようなところで、お前と見合っておらねばならんのだ――」
 背を返し、廊下を突き進む。背後に続く力ない足音を聞きながら、宿で一番上等とめぼしをつけた部屋の扉を引き開け、
 立ち尽くした。
 床に突っ伏した娘の裸身に、エゴウは視線を吸われたように見入っていた。
 焼け爛れ、血を滲ませる――鮮やかに白い、背中だった。
 娘が顔を上げた。目の横から顎にかけて、長い傷が血を流している。ぼんやりと見上げる訝しげな双眸が、不意に、竦む。そのあまりにあからさまな苦痛の色は見違いようがなかった。己れに対して示された怯えに息苦しささえ覚え、部屋のなかに視線を逃したエゴウは、だが、そこに、寝た気配さえない寝台、卓上に、床に点々と散っている小さな血溜りを見たのだった。
 あの男は、この娘に何をしたのだ――怒りはギュランに向けられたものだったが、テッサにわかろうはずはなかった。
 寝かせてやれ、という言葉に、
 アモンの腕にすがり立った、テッサは、傲然と椅子に腰を下ろし強い視線を据えるエゴウを、その意図を拒むように身を強ばらせ、歩きだそうとはしなかった。
「‥‥アモン‥‥」
 再び、低く擦れた声が訴えかけた。
「無理をすることはない。今夜はここで休むといい。この旦那は、お前さんをどうこうしようとは言いなさるまい――」
 宥めるようにいうアモンに、不安げな視線を返す。
「だったら‥‥よけいだ。こんな、上等な部屋で‥‥」
 アモンは、応え淀む。応えたのは苛立たしげな舌打ちだった。
「宿料なら、あ奴が置いていった。お前は、あ奴に買われたのだ。明日、迎えが来るまで、この部屋はお前のものよ――」
 その言葉に、弾かれたように向けられた顔の中で、暗い双眸が見開かれる。
「嘘だ‥‥知らない‥‥」
 いいざま、自分を抱き支えていたアモンを突放すように身を離した。その体がよろめく。崩れるように腰をついた。
「あなたまで‥‥あたいを、売ったんだ‥‥ひどい‥‥」
 アモンは悲しげに首を傾げた。
「金は預かっているが‥‥売ったわけではない。売れるわけがなかろう‥‥お前さんはわたしのものでは、ない‥‥」
 言いながら、小袋の金貨をテッサの前の床にあけた。
「あの男が置いていった金だ。お前さんのものだ」
 床に積みあがった金貨の山を見て、テッサの顔が歪む。一生かかっても拝めない大金だった。
「いやだ‥‥いらない‥‥欲しくない‥‥」
 呻き、床についた腕の間に顔を埋める。
「ただ抱かれるなら‥‥がまんできる‥‥あいつは、抱きもしない‥‥でも、リューのこと教えてくれるなら‥‥しかた、ないと思った‥‥なのに‥‥」
 テッサは声もなく泣いていた。音を立てて落ちる大粒の涙が床に暗いしみを散らしていく。
「リューとは、何者だ」
「血の繋がりこそないが‥‥この娘にとっては弟同様のもの。冬のはじめにとらえられ城に連れ去られた。生死さえ知れぬ‥‥」
 暗澹と呟くアモンの背に、眉をしかめたエゴウが冷淡に断じた。
「それは――諦めることだ。もう生きてはいまい」
 テッサが鋭く息を詰めた。アモンは屈み、金貨を小袋にしまう。
「この金は、今度あの男がきたらわたしから返そう。宿料も、亭主に頼んでわたしが払うよ。今は、ともかく、休むんだ‥‥」
 のろのろと、涙に濡れた顔が上げられた。暗い双眸が、戸惑ったように、ゆれる。
 アモンは腕を回し、再びテッサを抱えた。
「さあ‥‥」
 静かに促す声に、不意に、テッサの顔が歪んだ。
「そんなこと‥‥いけない。ひどい目に‥‥あわされる‥‥」
 テッサは、なされるままに立ち上がる。立ち上がりながら、思い止まらせようとするように、アモンの腕にしがみついていた。
「そんなことには、ならないよ。ただし、この旦那が承知してくれればの、話だが‥‥もとはと言えばこの旦那が先口だ‥‥わたしには、どうにもならなかったとね‥‥」
「貴様――この俺を当馬に使う気か――」
 表情を険しくするエゴウに、アモンは沈んだ双眸を向ける。
「旦那がこの娘を連れ出す分には、店のものも止めようがない‥‥言分も立つ‥‥」
 思っても見ない、ことの成行だった。テッサの、色を失った顔がそそけ立つ。
「‥‥アモン‥‥」
「確かにな――」
 やがて。エゴウの声が軋る。
「だが――わからんな。何故、あ奴ではなく俺だ――」
「わたしには‥‥あの御方を、旦那とは呼べないのでな‥‥」
 一瞬、気を呑まれたように押し黙った、エゴウが立ち上がった。
「――舐めた口を、利く――」
 のしかかるようなその巨躯が一歩を踏み出す、前に、テッサがよろめき出た。
「やめて‥‥アモンは悪気じゃない‥‥」
 必死の声を絞るテッサを、アモンの腕が抱き止める
「旦那は、からかっている、だけだ‥‥」
「から‥‥かう‥‥」
 呆然と見上げるテッサの前に、苦々と顔をしかめて、巨漢が吐き捨てた。
「まったく、食えない奴よ。だがな――まこと、よいのか――俺はこの娘を抱くぞ――」
 その言葉にテッサは身を震わせた。だが、
「あいつに買われるのは、いやだ‥‥それで、アモンに迷惑がかからないなら‥‥あたいは‥‥好きに‥‥してもらって、いい‥‥」
 エゴウは目をすがめた。
「そうか。だが、わかっておるのか。好きにしていいと言うからには、飽きるまで手放す気はないぞ。俺のものになって城に行く気はあるか――」
 刹那、息を詰めたテッサは、深々と、うなずいた。
「よかろう――」
 エゴウは頬を崩した。テッサの前にはじめてみせる笑いはだが、どこか苦味を含んだものだった。そして、腰の小袋から小銭入れを取り出しアモンに放る。
「亭主に話をつけておけ。朝飯は二人前だ。部屋に運ばせろ――」
 大股で歩み寄り、息を呑むテッサを軽々と抱き上げた。
 あとは一顧もせずに寝台に向かう巨漢の、肩ごしにのぞく小さな顔に沈痛な一瞥を残し、アモンは部屋を去った。

 翌朝――
 後輪にテッサを乗せた従者を従え、エゴウは城に戻った。
 主従の二騎が去り、一人の踊子が姿を消したこの一郭に、なにが変わるでもない数日が過ぎた、その夕刻、貧しい身なりの傭兵が、風に吹き寄せられた塵のように訪れ、場末の宿に部屋を取った。





VOL4-4
− to be continued −

back top next