VOL5-2





 鎖が鳴る。
 床に長く黒銀の髪を曳いて、分厚く盛り上がった巨大な背中で人形のようにゆれるエリエンを、ムゴルは闇に紛れる石壇の上、放恣な姿で待ち受ける王の前に、投げ出すように横たえた。
 そのまま、もの言いたげに立ち尽くすムゴルには目もくれず、王は、ねつい視線をエリエンのうえに這わせる。その手が、無抵抗に投げ出された身体のうえに落ちた。
 時を、おかず、
 淫靡な戦きに、白く煌めく肌がさざ波立ち、切なげに、吐息が震えた。
「やめて‥‥くれ‥‥あの子の前で‥‥もう‥‥押さえられない‥‥あの子は‥‥感じてしまう‥‥ここから、出して‥‥あの子を‥‥わたしから‥‥離して‥‥」
 だが、
「よく、さえずる口よ――」
 王は、嗤った。そして戦く体を胸に抱え起こし、細腰に回した腕できつく引寄せる。
 逃れようともしない首筋をつかみ押さえ、貪るように激しく、口づけた。
 王は、まさに、貪っていた。
 仰反らされた喉が、苦しげに引き攣れる。
 不意に、押さえ込まれた背が鋭く捩れた。
 刹那――
 為しようもなくそれを見ていたリュールの口に――舌に、鋭い痛みが走った。
 我を忘れて、リュールは叫んでいた。
「やめて! やめて――ひどいこと、しないで――」
 悲痛な声に、
 顔を上げ、はじめて視線を向けた王の口から、煌めく筋がこぼれ落ちる。エリエンの背を放した王は、その手の上に、何かを吐き出した。それは、またたく間に、金砂の流れとなって崩れ去る。王に噛み切られた、エリエンの舌だった。
 リュールの背を戦慄が貫く。
「うるさい奴――檻に入れておけ――」
 緩慢に、ムゴルが振り返った。

 怪異に盛り上がった瘤根のごときムゴルの短躯は、その見てくれを裏切って、ときに、優美とも言えるしなやかさを見せた。
 ときに、とは――王に仇なすものをその剛腕にふるう剣に屠る、転瞬――
 嬉々として相手の頭蓋を撃ち砕きまた胴を両断する、静から動へ、一瞬にして奔騰する圧倒的な力を孕み流れる動きの優美さに、呪縛されたように立ち尽くすのは、敵ばかりではなかった。日頃、王の犬よ、力に任せ、殺すだけが能の獣よ――と、侮蔑を込めて口中に罵るものをさえ、幻惑せずにはおかなかった。
 その背を冷たい汗に濡らし、そして、底の知れぬ無力感のなかに突き落とす。
 王の傍らにその姿があるかぎり、剣で王に敵する、もくろみは虚しいと――
 今、
 だが、薄明の螺旋階段を昇るムゴルの足が重い。
 王の住居する巨大な主塔、その北壁に突出する陰の塔にならび、二つの塔の外壁が作りだす窪みになかば埋もれ立つ小塔、
 階段塔として設けられ、主塔の屋上に、かつては望楼として使われたその頂を出す、そこに、あの子供が入れられて、十日がたっていた。
 階段を上りつめたムゴルは小さな踊場から細い回廊に出る。螺旋階段のまわりの分厚い外壁の中にめぐらされた回廊はいま、二つの獄房とそれを結ぶ廊下に仕切られていた。扇形の廊下の両端の壁にはそれぞれの獄房への扉が穿たれていた。弧をなす外壁に列なる狭間窓から差し込む青ざめた光のなかを、ムゴルは腰帯に下げていた鍵を手に、その一方の扉に向った。
 扉を入ったムゴルはそこにも列なる狭間窓の薄い光に浮かぶ鉄柵の奥を透かし見た。
 二つの獄房を隔てる石壁の前の床に、胎児のように体をまるめ白い衣にくるまって、子供は横たわっていた。
 剥ぎ取られた衣服の代わりに王によって与えられた竜人の衣、その衣に埋もれ横たわる、子供は、眠っているわけではなかった。
 優しい菫色の瞳が、近づくムゴルを見つめていた。
 悲しい瞳だった。
 その――瞳の色に、染め上げられていくように、わけもなく心に悲しみが満ちる。
 ムゴルは強いて視線を逸らす、そこに一つの深鉢が置かれていた。盛られた粥には手も付けられていない。また――しても。
 ムゴルは低く唸った。なぜ食べない。
 それほどに死にたいか――怒鳴りつけ、胸ぐらをとって思うさまゆさぶってやりたい衝動は、だが霜がとけるように悲しみのなかに消えていく。
 何故とは、いまさら聞くまでもなかった。この檻に入れられたとき、子供は言った。殺して――と。
 その時――
 生きていてはいけないのだからと、恐れる色もなく見上げてくる双眸に、ムゴルは初めて、体の奥深くから戦き上がるものに、肌を粟立てていた。
 このように非力な、惨めな、弱々しいものを――どうして俺が、怖れねばならん――
 無理にもかきたてた怒りは、だが、その時も己れをとらえていた深い悲しみの前には、無力だった。
 まるで逃げるように塔を下りたムゴルは己れに対する腹立ちにまして、一つの驚きにとらえられていた。
 かつてこの城にあって、ムゴルは、嫌悪も、蔑みも、恐れもない視線を向けられたことがなかった。
 王でさえ、その向ける視線は軽侮に満ちたものだった。
 ムゴルによって命を救われたことは一度や二度ではない。その時でさえ、それは変わらなかった。
 まして、その手に、口に仕えさせ酔い痴れた快楽の極みより醒めたとき、その視線の内には憎悪さえが綯い交ぜられる。
 だが、あの子供の目の中にはそのどれ一つとしてない。あるのはただ、底の知れぬ、深い悲しみだけだった。その身の内よりあふれだし、ムゴルをさえ呑み込み、指の先まで染め上げるほどの、悲しみ‥‥
 そうだった。あれは、あのわけもわからぬ悲しみは、あの子供のものなのだ。
 そうと知って、ムゴルはだが、もはや怒りさえ感じぬ己れに戸惑うだけだった。
 その子供が、ものも食べず、死に向かおうとしていると知ったとき、胸を刺した鈍い痛みは何だったのか‥‥
 はじめは、すぐにも耐えられなくなると思った子供は、三日目になっても何一つ口にしようとはせず、飢えより先に渇きで死にかけた。
 意識を失った小さな体を抱き上げ、口移しに水を与えたのはムゴルだった。
 そうして命をとりとめた子供はやはり、何も口にしようとはしなかった。
 それからは、日々、弱々しく抗う口に、粥を、水を、口移しに与え続けてきた。
 だが、それで体が保つはずもなかった。
 この日、
 それを知らされた王は無言でムゴルを打ち据えた。そして吐き捨てた。
「役立たずが――」
 嫌悪と蔑み以外のなにものでもない光を帯びた王の暗い双眸を、ムゴルは悲しみに染まった瞳で見上げた。
 塔を訪うたびにムゴルを浸す悲しみは、その身に染みついてしまったのか、だがそれを、鬱陶しげに王は顔を背けた。
 いつから‥‥王はこのような視線を己れに向けるようになったのか‥‥ふと、ムゴルは思う。初めて会ったとき、王はこのように、この身を、見は、しなかったと‥‥

 あの頃の王は、まだ王でさえなかった。
 前王の、数多い庶子の一人にすぎなかった。
 三人の正嫡の兄を持つ、乙女のように優しげな風貌のその若者が王となろうとは、何人も、夢にも思わぬ頃であった。
 その頃のムゴルは、一人、森に棲む盗賊だった。十代の半ばをようやく越えた少年でありながら、既に、その人離れのした姿と凶猛さで近隣のものを恐れさせていた。
 そのムゴルにたびたびの被害にあった村々の長たちがたまりかね、領主に討伐を願い出た。
 そして、
 並はずれた膂力と剽悍さがすべてであった、狡猾さとは程遠いムゴルは、仕掛けられた巧妙な罠に獣のようにとらえられたのだった。
 幾重にも縄をかけられ、さんざんに打ち据えられたムゴルは半死の姿で領主の前に引き出された。
 その領主こそが、年若い、王の前身であった。
 憎悪と蔑みの視線のなか、地面に転がされたムゴルのかすむ意識に、憐れむような声が、降り落ちた。
「姿に似ず、優しげな目をしている。まだ子供ではないか――」
「とんでもございませんで――ご領主さま、このように若いうちから盗みをし、人を殺し、非道の限りでございます。この先どのようなものになるか――一刻も早く縊り殺すなり、八つ裂きにするなり、処分して頂きたいので――」
 憤然とした抗議の声に、賛同のざわめきが上がる。だが、
「お前たちの言い分は聞いた。このものは、城に預かる」
 凛然と、切って捨てる言葉は、優しげな声音からは思い及ばぬ強さで村人を制した。
 その夜のうちに、ムゴルは城の牢につながれた。
 明取の小穴一つない地下牢は闇に閉ざされていた。土壁からしみだす地下水は壁を濡らし土の床を濡らす。ここに、
 犬のように首に鎖を巻かれ、縄でいましめられたまま転がされ、水も与えられず、三日を捨て置かれた。
 渇きは、壁を伝う水を舐めてしのいだ。飢えも、痛め付けられた体の疼きも、身に馴染んだものだった。耐えられなかったのは、己れがたてる以外、無音の、闇だった。
 この闇には、木々の葉ずれも、風の音もない。ただ、じっとりと冷たく澱み、息までも塗り込めていく。
 このまま‥‥闇に食われ、忘れ去られてしまうのか‥‥恐怖に、悶え叫ぶ、喉が破れ、やがて、呻きさえが絶えた。
 光が欲しい‥‥光の中で、死にたい‥‥
 その、光のなかに引き出されたとき、ムゴルは抗う気力さえ失っていた。弱い松明の光に目を灼かれ、にわかに盲いた耳に、涼やかに、聞き覚えのある声が響いた。
「その姿だ。幼き頃から苛めぬかれたのであろうな。悪事に走るほどに人の世が憎かったか――」
 優しげな声には憐れみさえが感じられた。
 その言葉が、心に染み透ったとき、ムゴルは信じられぬ思いで目を見開いた。闇になれた目が眩む一瞬、心に焼付く。嫌悪も蔑みもない、乙女のように白く優しげな相貌――
「――だが。罪は罪だ。死に値する。罰は、受けねばならぬ。明日朝、絞首刑に処す。これが――最後だ。何か願うことはないか。言いたいことはないか――聞いてやるぞ」
 言葉は、厳しく断罪する。
 ムゴルの、脳が煮えた。
「い‥‥いやだ‥‥いやだッ。たすけて‥‥たすけてッ――」
 闇にあれば光のなかに死にたいと思ったものは、光のなかにつれ戻されて、やみくもに生を願った。
 左右から押さえこむ手を振り切り、ムゴルは声の主の足元に身を投げ出した。
 悶え叫ぶ声はかすれ、千切れた。
「しねえ‥‥もう、けして、しねえから‥‥殺さねえで‥‥」





VOL5-2
− to be continued −

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