VOL5-3





 身を揉んで慟哭する、ムゴルを、救う声は訪れなかった。だが‥‥
 不意に、うつぶせた頭に置かれた手に、ムゴルは息を呑んだ。手は、優しく撫する。
「憐れだが――法は、変えられぬ。祈るがいい。願うがいい。神は、聞き届けてくださるかも知れぬ――」
「神‥‥?‥‥」
 血と泥と、涙に汚れ、醜く歪む顔が、振り仰ぐ。ようやく光に慣れた目は微かに笑みかける白い顔をむさぼった。
 再び、左右から引き起こされたムゴルの口に、優美に白い手が杯をあてがう。
「呑むがいい。気が鎮まろう――」
 芳醇なかおりの液体を、ムゴルは己が命ででもあるかのように飲み干していた。
 それのゆえか‥‥
 不思議な酩酊のうちに眠り、朝を迎えたムゴルは覚めやらぬ心のまま刑場に引きだされた。
 城の建つ小山の麓の円形の草地だった。
 中央に、横木を打ち付けた高い柱が立ち、横木から一本の輪縄が下がっている。
 柱のまわりにはびっしりとつめかけ、罵り騒ぐ、村人たちの垣ができていた。水平に槍を構えた城兵の輪が村人たちを押さえ、刑柱を守る、なかに馬に乗せられたまま引き入れられたムゴルの首に輪縄がかけられた。
 この時に至ってようやくに覚めたか、ムゴルの全身を戦慄が貫いた。悲痛に喉を裂き、絶叫が迸る。だが抗い悶える脚の間から、馬は無慈悲に引き出される。
 縛り上げられた体が縄の先に大きく揺れ落ち、くぐもった呻きが絶叫を断ち切った、
 一瞬の静寂――
 弾切れた縄が跳ね上がり、ムゴルは地に落ちていた。湿った音が重く響き、村人たちの間に騒めきが走る。しだいにたかまる憤懣のどよめきが喪然と地に伏したムゴルに向かって雪崩ようとした寸前、
「裁きは――下った。神の意志は、降りた。騒ぐまいぞ!」
 声に撃たれたように、静寂が返る。
「神は――こ奴の命は望まれなかった。だが、人の裁きは別にある。こ奴は――死ぬまで我が手の内に繋ごう。皆――安んじて、村に帰るがよい」
 不満のざわめきは高まる先に威圧された。騎乗し、ならび立つ兵を従え、凛然と言い放った白晢の面の前に、重い沈黙が垂れる。
 その沈黙の中を、ムゴルは再び引き戻された馬の背に乗せられ、城に連れ去られた。
 この日から、
 中庭の一角に鎖でつながれ、痴呆のように虚ろな目を開き蹲る、ムゴルは牙をぬかれた獣だった。
 その獣に、やがて王となった若者は、新たな牙を与え、糧を与えた。
 より鋭く、猛き牙――
 その身を保つ、以上の、糧を。
 もっとも、それはしばらく後のことであったが。
 すんでのところで死の顎から救い出された衝撃による自失状態は長くは続かなかった。
 高い城壁の下につながれた己れに気づいた、ムゴルの視線は餓えたように一つの姿を求めてさまよう。やわらかな線を描く白蝋の面差し、艶やかに波打つ亜麻色の髪を。
 何かは知らぬ、不思議な力をもって絞首の縄を切り己が命を救けてくれたのがあの白き手であると、ムゴルは信じて疑わなかった。
 それは、無自覚の洞察だった。
 直感で真実にたどりついたムゴルであったが、ただ、縄を切ったのは見えぬ力などではなかった。その意により、際どいところで切れるよう、縄には細工がされていた。
 いずれにせよ、ムゴルには同じことであっった。もう一度‥‥死ぬまで己れをその手に繋ぐと言った、あの、白く優しげな顔に、笑みかけられたい。心に沁む、声を聞きたい。
 手に‥‥触れられたい‥‥
 かつて、何人にも、そのように扱われたことのない、ムゴルであった。親にさえその姿ゆえに見世物に売られ、何より、二十にもならぬ少年であったのだ。
 心は、渇望に蝕まれる。
 だが、その姿は餓えた目に触れることなく、その声は耳に降り落ちることはなかった。
 ムゴルは知りえなかった、この時、求める人はその所領の小城にはいなかったのだ。
 やがて、心は蝕み尽くされる。渇望さえが消え、あるのはただ、大きな虚ろだった。
 その虚ろのなかに、時ならぬ響動が流れこんできたのはつながれて半年が過ぎたある宵のことだった。城門は大きく開かれ、無数の篝火が焚かれていた。
 火灯りの中を疲れた影を引いて兵士の列が城の中に呑まれていく。
 不意に、一頭の騎馬がムゴルの前に立った。ぼんやりと顔を上げるムゴルの耳に、その声は、降り落ちてきた。
「どうした――この顔、忘れてしまったか」
 馬上高く、闇に仄白く浮かぶ顔、笑みを含んで優しげに響く声――
「逃さぬようにとは申したが――あれからずっと、ここに繋がれていたか――かわいそうなことをした――」
 こみあげる、熱い塊が喉元につまる、痛みに、ムゴルは低く呻いた。己れで気づいてはいなかった。とめどなく、頬を伝い落ちる涙にも、気づいては――いなかった。
 その人が立ち去ってなお、地面に蹲り、その人の顔のあった闇を振り仰いだ姿のまま、ただ無言で泣き続けた。
 ムゴルは、この夜のうちに鎖から解き放たれた。この後、しばらくして、
 主人に従う犬のように、忠純な従僕として影のようにつき従う怪異な姿が見られるようになった。
 周囲のものがその姿に慣れ、やがて当然と思うようになった頃、ムゴルは剣を与えられ、師を与えられた。
 生来の剽悍さと人並みはずれた膂力で師をしのぐに、さほどの時は要さなかった。
 何より、主人の顔に浮かぶ満足気な微笑み――それを得るためにはいかなる努力も惜しまぬムゴルであったから――
 そうだった。
 それこそが、ムゴルにとっての糧であった。
 生まれて初めて与えられた、何にも代えがたい、何にも勝る、美味なる糧――それさえあれば、他に求めるものはなかった。
 それが、
 何故あのままでいられなかったのか‥‥俺は、充分、充たされていたものを‥‥
 舌根に吐息を押し殺し、檻のなかの子供に視線を戻す。王は、この子供をどうしようというのか。竜の血でも、呑まそうというのか‥‥エリエンという名の、美しい竜の‥‥
 鍵を開け入ってくるムゴルに、子供は悲しげな顔をつらそうに歪めた。
 放っておいて‥‥と、その双眸は訴えかける。分厚い胸の奥にキリッと刺すような痛みが走る。だからといって、どうしようがある‥‥歩み寄ったムゴルは手荒く子供を抱え上げた。細い腕が抗うように肩をつかみ、背に、かぼそい悲鳴が落ちる。
「いや‥‥だ‥‥」
 その声を振り落とすように荒げた足取りで、ムゴルは獄房を出た。
 だが、
 狭間から差し込む光は薄れ、夜の訪れの近さを知らせる、かろうじて足元を確かめ得る薄明の中で、ムゴルの脚は、また鈍る。
 いっそ、殺してしまおうか‥‥それが幾度目か、己が胸に巣食い、折りあらば頭をもたげるその思いに足を取られたか、
 腕のなかの子供はもはや声も上げず、抗いもしない、ただすがるようにムゴルの背に腕を回し、微かな震えを這わせるだけだった。その細い、折れそうに細い体は、少し、力を込めるだけで容易に、縊り殺せる‥‥
 いつしか、脚を止めてしまったムゴルの手が抱き押さえた子供の背を移ろう。薄い肩先から細い首筋に滑り、からみつく。
 巻きついた指は決めかねる思いに締まりかけてはゆるみ、思い直すようにまた、力が込められる。子供が死ねば‥‥竜をこの世につなぎ止めるものはなくなると、かつて王は言った。あの、美しい生ものは‥‥どのように、己れで命を絶つのか‥‥
 切り落とされた手足のように、抉りだされた目のように‥‥金砂の流れとなって、散っていくのか‥‥
 手であれば、目であれば、いや、その身のいかなる部分であれ、一日を待てば疵一つ無く癒えてきた。それ故にこそ、より容赦無く、僅か十日ほどの間に、その身体に加えられてきた惨たらしい仕打の数々を、手を下した身であるムゴルは穏やかならぬ心で思い返す。
 はじめは、激しい歓喜に己が血を滾らせたムゴルだった。
 一瞬にして王の心をとらえたものが、
 己れこそが、この身にふさわしい――と、王をして言わしめたものが、
 己が手の内で、悶え、苦しむ――
 かつて、
 王の狂気に供すべく数多のものを苛んできたムゴルだったが、自らまでが喜悦を感じたことはなかった。なんとなれば、ムゴルの喜びは王の上にこそ、あったのだから。
 いかに苛もうと、それにより王が極みに達することのないものに、憎悪も、それを叩きつける歓喜も、ありようがなかった。
 それをするのは、ムゴルだった。
 ムゴルの手が、口が、そのものが、王を極みに導き、愉悦の淵に沈めるのだ。
 あの、遠い日々と同様に。
 遠い――満ち足りた日々‥‥
 ムゴルの喜びは王の双眸の内にあった。
 己れに向けられる優しげな笑み、期待に応えて与えられる満足気な微笑――嫌悪も蔑みもない視線に。
 だが、それも、それ以上のものを求める己れに気づいた――気づかされた時に、終わったのだった。
 ただその姿を追い、その視線を求める、それだけで足りていたムゴルに、夢想だにしなかった至福の歓喜を、それ故にもたらされる底の知れぬ飢渇を教えたのは――いまだ王とはなりえぬ身の、王自身であった。
 その頤使に従う見返りとして――その手を暗い血に塗れさせる代償として、王は己が身をムゴルに許したのだった。
 この後、グリエムンの王家を血塗った数々の凶事の、これが秘められた幕開けであった。
 かくして、
 悪夢の果てたのちに、その臣民が王城に見出したのは、数にも入らぬ身の、庶出の王であった。
 そして、ムゴルは己れが失ったものを知った。代わりに、得たものを――知った。
 他のものと何ら変わることのない、嫌悪と蔑みを、王の双眸のうちに見出したのだった。
 それでもなおムゴルが王に背き得なかったのは、王の身に悦びをもたらすものが己れ以外にないと、知ったからであった。王の身に悦びをもたらす、それこそが、ムゴルにとっての、無形の糧であったからだ。
 だが――
 だが、それさえが、いま己れから失われようとしていた。
 奪われようと、していた。
 またなき、美しきもの――
 それ故に王をとらえ、溺れさせる、そのものを、
 もっと‥‥もっと苛みたい‥‥苛み、苛み、苛み尽くしてやりたい‥‥滾りあがる憎悪は、だが、底の知れぬ餓えの反面にすぎないと、ムゴルは知っていたか――
 今、ムゴルが知るのは、
 美しき竜――その身を苛んで熄まぬ、王の執着の深さだった。





VOL5-3
− to be continued −

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