VOL5-8
無言のまま石壇を降りた、王は脚を止めることもなく闇の広間を立ち去る。 その姿が闇に呑まれ、気配さえが絶えて、ようやくにエリエンの腕の中のものはこわばりを解いた。そして、激しく震えだす。 「リュール‥‥」 撫でさするように傷ついた腕が動く。 かつてリュールを、その心を、包み慰めてくれた優しい手は失われていた、それでも、 いま自分はその腕の中にいる‥‥ 「エリエン‥‥」 きつく、しがみつき、リュールは激しく泣きじゃくった。 「エリエン――」 それは、激しい衝撃の残滓―― 王が立ったその一瞬、視界を薙いで胸を抉った鋭い爪―― 引き裂かれる――恐怖に、その身を凍りつかせたリュールだった。 引き裂かれはしなかった。何も、触れてさえいない。それは己れに向けられた、身に激痛を感じるほどの、目に具象するほどに激しい、王の殺意――だった。 なぜ‥‥ それほどの殺意を、王は自分に向けるのか――計り知れぬままに、リュールは脅かされた心の戦きを溶かし去ろうように涙を流し続ける。 そのいたいけなものを、エリエンはただ、強く抱きしめていた。 それだけが――唯一、その身に許された、切ないまでの思いに応える術であったから。 己れ故にとらえられ、質とされ、苦しめられながら、恨みもせずに、ただ直向きに慕いよる思い‥‥ 慰めの言葉は、胸奥に凍りついていた。 そのリュールの前に、何という‥‥己れか‥‥ 必死に押し鎮めようとしてなお抑え切れぬ戦きに肌がさざ波立つ。王の手によって掻き立てられた熱く淫靡な疼き――その疼きを呑み尽くして滾り上がる灼熱の極みに己れを誘う王が――巧みに己れを駆り立てる手が、口が‥‥欲しい‥‥ 王を憎悪する心とは裏腹に、密かに、王を求める己れが――そこに、いた。 かつて知らぬ憎しみを己れに教えたその王を、なお求めて止まぬ‥‥ 己れが、憎かった。厭わしかった。 だが―― それでもなお、 腕に込められた思いに包まれ、怯え昂ぶった心は宥められていくのか、 リュールはいつか、静けさを取り戻していた。ときどき、思い出したように微かに体をふるわせながら、腕のなかにエリエンを確かめるように、しがみついた腕に力を込める。 そのリュールも、胸の底に小さくしこるものを拭うことはできなかった。あの王が何故、 あのまま、いってしまったのだろう‥‥ いつまで‥‥こうして、いられるのか。いつ終わるやも知れぬ、今――だった。 リュールは、それを貪る。 哀しいまでに、必死な姿であった。 ムゴルは壊れた木偶のように床に坐り込み、それを見つめていた。その、視線は鈍い。 俺は‥‥何をしている‥‥ 一顧だにせずに、王は去った。そこに置き捨てられた己れがいる。戸惑い、居竦む心の隅に、思いはわだかまる。 王に命ぜられるまでもない、子供は塔の檻に戻さねば、あとで責められるのは知れていた。 それでも、ムゴルの腰はあがらない。 何故、いつもどおり王の意に従えない‥‥ 耳底に焼付いた笑声、瞋恚に滾る暗い双眸――王の、それほどの怒りを、かつて、浴びせられたことはなかった。今となっては、 このままは、すむまい‥‥諦めに沈む、思いはだが他人事のように、冷めていた。 ふと、気づく。己れに向けられた紫黒の双瞳、その、意識を吸われそうな凝視―― 初めて、ムゴルそのものに向けられた直なる視線に、 突然、いたたまれぬ思いに駆られ、ムゴルは立ち上がった。 水の中を歩くような足取りで闇の広間を逃れ出る。その向う先はだが、他にはなかった。 豪華な緞帳に囲まれた金襴の褥に、王は放恣な姿で横たわっていた。 褥の裾に蹲る異様の姿に、視線を向けようともしない王に、褐色の髪に被われた頭がうな垂れる。 どれほどの時が、たったか―― 「あ奴ら‥‥あのまま置いてきたか‥‥」 低く、枯れた王の声に、ムゴルはさらに身を竦めた。だが‥‥ 「来い‥‥」 続いて発せられたその言葉に、弾かれたように顔を上げる。 その視線の前に、王は片膝を立てた。夜着の裾が割れて、燭台の灯りに艶めいて白い内股があらわになる。 表情の乏しい顔を歪ませ喉奥に唸り咽ぶ、己れの着衣を毟りとる手ももどかしく全裸となったムゴルは、泳ぐように褥に這い上がり、開かれた王の股間に額突き、 口を寄せていた。 王が竜人をとらえて以来、はじめての許しであった。 貪り尽くしたい‥‥思いに耐え震える手でそっと包み込み、唇を、舌を這わせる、 それは至愛のものに対する姿だった。 魁偉な体躯からは思い寄らぬ優しさで愛撫の動きを加える、その両頬をとめどない涙が濡らしていく、ムゴルの口はやがて、喉を突くばかりに漲り立ったもので充たされていった。 王は、ねっとりとした息をその唇に這わせ、己が腰に張りついた褐色の頭を鷲掴みにする。 差し込まれた指が短く刈り込まれた髪の根をかきむしった。 「ただ‥‥竜をとらえおく、質に‥‥過ぎぬはずであった‥‥もの‥‥が‥‥」 喘ぎ漏れる呟きは懸命に仕えるムゴルの耳をかすめ過ぎる。うつつに聞く、ムゴルの口中に、不意に熱い蜜が溢れかえった。それを貪り飲む、ムゴルを自ら誘うように王は腰を浮かせた。すぐさま差し出された太い腕が、捧げ持つように細やかな腰を支える。 「所詮は‥‥己れだけか‥‥」 苦い、自嘲にひずむ声であった。眼前に曝け出された王の体の最奥に、潤いを乗せた舌を差し入れ舐め清めるように寛げていく、ムゴルが驚愕の視線を上げた。 もはや初老にさしかかった男のものとも思えぬしなやかに引き締まって白い体がたわみ、妖しくうねる下腹が視界を塞ぐ。 どのような顔をして、それを言うのか‥‥灼けつくような渇望がムゴルを駆り立てる。見たい‥‥王の顔が、見たい‥‥と。 熱い舌にねぶられ背骨を絡み上がる情炎に息を荒げる、王の手がムゴルの髪をつかみ己が胸に引寄せる。 「入れよ‥‥己れを‥‥入れよ‥‥」 耳に降り落ちる声に堰を切られた、さらなる渇望を喉奥から迸らせて、ムゴルは吠えた。 すべらかな胸の隆起にむしゃぶりつきながら、すでに張り裂けんばかりに漲り立った己れを自らの舌で潤わせたそこに押し進める。 ああ‥‥ 歓喜に眩む意識の底に思いは旋回する。何故‥‥ 一瞬たりと思うことができたのか‥‥王の意に背きあの子供を‥‥逃そうなどと‥‥ あの‥‥ものを、解き放とうなどと‥‥ 灯火の光の満たし切れぬ闇を、淫靡な音が充たしていく。 揺らぐ火影に照らされて絡み合い、 熱いうねりのなかに何かを押し流そうような激しさで蠢く、裸形―― 取込める闇は、凝固として重い。 その、闇が凝ったかのごとき黒御影の天蓋の、内壁の、懐深く抱かれたもの等はその耳に聞くか―― 地を奔る、咆哮を―― 逆巻く白い闇は、大地を塗り込める。 吹き荒ぶ氷雪は、その凍てた牙で地表に動くものを屠り、貪婪に呑み尽くす。 人は小暗い屋根の下に息をひそめ、滞った時の中に、いつとも知れぬ嵐の終焉を待ち続ける。 やがて、冬さえが終わるのだ。 果てぬ嵐が、あろうか―― VOL5-8 − to be continued − |