VOL6-1
長い歩廊の闇に、切り列ねられた狭間窓が薄い光を湛えていた。 数日来、荒れ狂っていた雪嵐が去った、久々の晴天だった。 眩く抜け上がった蒼穹が落日の残照に燃え落ちた紺碧の夜空に、星は砕けた氷片の輝きで天空を満たし、月は皎たる光で地表を曝していた。 シンと凍てた白雪をあえかな光の褥と化した月光は、厚い城壁のわずかな空隙を逃さず沁み入り、仄かな光の繭を紡ぎだす。 その月光の繭を点々とつらねた闇の歩廊を、ひそやかな足音が通り抜けていく。 深更、寝静まった城内を気配を殺して歩く人影――狭間窓の傍らを過ぎ行く一瞬、仄明かりに照らされた半顔にぬめりと光る鉄灰色の眸が暗い。 シェラムだった。 やがて、行手に歩廊が途切れ、螺旋階段の踊場が壁面の松明に浮かび上がる。 その、灯火の及ばぬ闇に、シェラムは脚を止めた。 城は南北に長い。その境を二層の高さに及ぶ崖で隔てられた三つの郭が階段状に連なっている。崖上にはさらに塔と内城壁が四層の高さにそびえる。厚い城壁の中を隧道のようにめぐらされた歩廊もまた境の塔で郭ごとにへだてられ、螺旋階段で結ばれていた。 東側の外城壁を外郭と中郭にへだてる塔の、その螺旋階段を前に、シェラムは闇のなかにたたずむ。 中郭は城の守備隊でも正騎士の領域だった。 螺旋階段を上れば正規兵の詰所があり、要所には歩哨が立ち、終夜、兵士が巡回する。 むろんのことに、新参の、さらには一介の傭兵の身で、立入ることは許されてはいない。見咎められれば間者とみなされ処刑されよう、そこに、だがシェラムの思い向うところは、あった。 いや、向うつもりなどは、なかったところ――と、いうべきか。 外城壁にそって三層をなす中郭東翼の兵舎の最上階に、士官の私室はある。 城を守備する赤騎士団、その一隊の指揮官であるあの赤髪の巨漢エゴウ・シヴォーの居室もそこにあるとは、知らぬわけではなかったが、深夜、寝静まった傭兵の兵舎を抜け出し、外郭を半周してまでここにきたシェラムに確たる意図があったわけではなかった。 今、会ってどうなるという‥‥それ以上に、このような深夜、訪れたところで逢えようはずもなかった。 わたしは‥‥いったい何を、しようとしているのか‥‥ たとえ部屋に押し入ったところで、男の腕の中にいる娘を見出すだけのことであろう。 連れ出すことさえできまい‥‥いや、それが可能であったとして、相手がうなずくとも思えなかった。リュールを求めて、独り城に入り込んでのけた、娘なのだ。 それでも、 どうして‥‥わたしを待てなかった‥‥ オーヴの館で黒騎兵の矢に倒れたシェラムを、自らの血で救った娘は、その意識が戻るのを待たず、姿を消した。それを思うたびに胸を噛む鈍い痛みがあった。 シェラムは知らず闇の中で顔を歪める。 何故‥‥ 己れの胸が痛む――と自らに問うのか、 待ってはくれなかった、と、娘に問いたかったのか、シェラムには判然としなかった。 ただ、はじめて目にしたときの鮮やかに白い腕が脚が闇に揺曳する。寒風に肌を曝し、しなやかに踊る細い肢体、艶やかに長い黒髪を振り乱した少年のように硬質な面差し‥‥ 男を知らぬ身ではあるまいに、熟れ崩れたものを片鱗も匂わせぬ、あの娘が、どのように男に抱かれるのか‥‥抱かれて、どのような姿を、男の前に曝すのか‥‥ 思わず口を突いた低い呻きに、我に返る。 息を潜め、闇のなかに後退る、 シェラムは踵を返し、逃れるようにその場を立ち去った。 時が経つのは早かった。 気が付けば、テッサには瞬く間とも思える、日々が過ぎていた。 テッサを委ねようと思い立ったアモンの眼識のままに、エゴウという巨漢は、その見てくれに反して細やかな情の持ち主だったか、 あの夜、ギュランによって無残に傷つけられたテッサを己れの情欲のままに抱こうとはしなかった。城にともなってからでさえ、なお数日を、手を触れることもなく過ごした。 傷が癒えるまで待つつもりか、連日、日の暮れとともに城下に繰り出し終夜戻らぬエゴウを、テッサは安堵とともに見送ってきた。 エゴウの居室は三間からなっていた。 中郭に面した広い主室と二つの控の間、通廊側の一間が二人の従者の寝室になっていた。 主室には大きな寝台が置かれていたが、その部屋の一隅、敷き重ねられた毛皮がテッサに与えられた寝床だった。 そこに、発熱し、動かすのもつらい身を毛布に包み、終日を寝て過ごす三日ほどがすぎた。 従者の一人、年長のノルドルがテッサの世話をした。 どこかアモンを彷彿させる、アモンよりは大柄な初老の男は寡黙だった。無言のままに手当てをし、兵舎の調理場から食事を運ぶ。 この日も、頃を見て空いた器を下げに主の寝室に入ったノルドルだったが、器の乗った盆を手に立つテッサに顔をしかめた。 「世話になったけど‥‥あたいも、もう動ける‥‥」 怖ず怖ずと言いだしたテッサに、ノルドルは押し黙り、骨太い手を握っては開いていたが、不意に踵を返し戸口に向う。ついてこいとも言わぬノルドルの背を追って、テッサは部屋を出た。 この日から、 厩舎に大井戸に、ノルドルの傍らには、暗色の衣をまとい長い髪を一本の太い三編みにして背に垂らしたテッサの姿が見られるようになった。 黙々と主人の馬達を手入れするノルドルの傍らで、ともに藁を運び馬ぐしをかける娘の存在はすぐさま兵達の目を集めた。 酒楼で踊っていたテッサを知る兵の中には、かたく肌を被い、引きつめに髪を結った少年のような風貌のこの娘を、あの踊子と、気付くものもあったが、 ともかくも、エゴウに関わる者に手を出すほどの命知らずはいなかった。 そのエゴウが実際に思いを遂げたのは娘を城にともなって数日を経た、嵐の夜だった。 それはまた、シェラムが傭兵として城に入り込んだ日の夜でもあったが、 猛り狂う嵐に封じ込められ、早々に自室に戻ったエゴウを迎える、 テッサは、無言だった。 背に長い髪を解き流し、部屋の隅に敷き重ねた毛皮のうえに座ったまま、凍りついたような視線を向ける。 「お前は、馬が好きか――」 寝台の頭板に背をもたせ放恣に脚を投げ出したエゴウがわずかに口元を歪めた。唐突な問いに、テッサの切れの深い双眸が見開かれる。 「アモンの宿は厩だった‥‥毎日、宿料の代わりに‥‥」 「宿料? であるなら厩舎にはいくな。必要ない――」 「う‥‥馬は、好きだ‥‥世話をするのは、楽しい‥‥いかせて‥ください‥‥‥」 どこか必死さを響かせる言葉に、 「好きにしろ――」 エゴウは、懐に迎え入れるように、片手をさしのべた。 テッサが立つ。 のばされた腕の先に歩み寄った娘を、その腕の一振りで胸の前に抱きあげる。微かに息を呑む小さな顔を見下ろす、蒼瞳が笑いを含んで煌めいた。 夏空の‥‥青だ‥‥ 熱い口に己れを貪られながら、ふと思う、あの人の目は冬の、湖のようだった‥‥ 細腰にまわされた根太のような腕のなかで、鞭のように身をしなわせる、テッサの口をいつか細く、すすり泣きが洩れでていた。 風が‥‥ 分厚い板戸の向こうで咆哮していた。 灯架の上で油が燃え尽きようとしているのか、弱々しく炎がゆれる。 「起きたか――」 低い声に顔を向ける。隆々たる胸があった。ぼんやりと視線を上げる。薄暗い灯りに照らされてどこか笑いを含んだような顔が見下ろしていた。テッサはその腕のなかで眠ってしまったことに気づいてあわてて身を起こす。 「あたい‥‥すみません‥‥」 「どうした――」 「自分の、寝床に‥‥」 「今更――及ぶまい」 逃れるように浮かせた腰にかかる腕に、息を呑む間もなく抱き寄せられていた。 「夜は明けた。が、この嵐だ――」 小さな顔に乱れかかり額に張りついた髪を、いかつい指が掻き上げた。幼児のように身を竦めうつむいた、その頬を撫で下ろした手ですくいあげるように細い顎を捉える。 唇が重ねられた。 VOL6-1 − to be continued − |