VOL6-4





 カンと凍てた星夜を圧して皓々とうねる月光を孕み、仄白い光の帯となって横たわる歩廊に――やはり、と言うべきか、娘はいなかった。
 その上にくっきりと影を曳いて、どれほどの時を、エゴウは佇んでいたか。黒い城はその頂を覆う雪だけを光らせて、闇に沈む。
 俺は‥‥何をしているのか‥‥
 息が白い。
 激しく身を震わせ、踵を返す、刹那――何かがエゴウの意識を刺した。
 一瞬、エゴウの動きが凍る。
 気の迷いか‥‥向き直った視線のさきに外郭との境をなす大塔が立ちはだかる、その脇に張りだした小塔がエゴウが出たままに扉を開き奥に闇を湛えていた。その闇の底から響いたか、それは人声に聞こえた。それも、断末魔の呻き声に。
 まさかにと、迷いを振り捨てるように小塔へと踏み出した、エゴウの足がふたたび、止まった。
 澄み切った夜気の底に這う――あれは、無数の足に踏みしだかれる、雪の軋みではないか。しかも、酔い醒ましにと城壁の上を歩くものの気配ではない。
 何奴が――凝として見据える大塔の背後、外郭の外城壁は地形にそって一段低い。見確かめるには塔に上らねばならない。
 気の回しすぎよと口端を歪めながらも次の一歩を踏み出そうとはしない、縛られたように立ち尽くす、エゴウの耳は、そのとき、もうひとつの音を聞いていた。
 小塔を、上ってくる微かな、足音――
 足音はしだいに高まり、途切れた。
 階段を上りつめたか、塔の内の闇に圧し殺された気配がわだかまる。雪の歩廊に、現れる影はなかった。
 転瞬、
「己れ――何者――」
 エゴウの口に声が軋り、その巨躯が後方に跳ね飛ぶ。同時だった。闇に弓弦が弾け、矢音が空を裂く。巨漢の肩をかすめた矢が歩廊に砕け、シンと凍てた雪のうえに、動きが絶えた。
「エゴウ・シヴォー――ここで、お前に会えようとはな――」
 小塔の闇に陰鬱な声が湧く。
 聞き覚えのある声だった。ついで現れた男の姿に、見覚えがあった。抜き放った剣を構え壁際に沈めていた体を、エゴウはゆっくりと起こす。
 さして大柄ではない、痩せた体躯に外郭守備兵の褐色の胴着をまとった、男の、削げ立った顔に鉄灰色の双眸が鈍く光る。矢をつがえたままの弩が片手に下げられていた。
「己れは――」
 遅れて現れた兵士に、エゴウは言葉を呑む。男の斜め後ろで弩をかまえる兵士の朱と金に意匠された胴着は城兵のものではなかった。
「外郭は落ちた。中郭も、じきに落ちる。お前に逃れる道はない。剣を捨てろ。それとも――走ってみるか。内郭の塔にたどりつければ、この場は、逃れられる――」
 男の腕が上がり、弩をかまえる。エゴウは身動ぎすらしなかった。その口に低く、声を軋らせる。
「己れの手引きか――城兵はどうした、井戸に、毒でも投じたか――」
 男は無言だった。ただ投降を促すように前に出る。刹那、その動きを待っていたかのようにエゴウの巨躯が奔った。
 矢が放たれる。
 射たのは朱金の胴着の兵士だった。風をまいて襲いかかる勢いに弾かれ、放った矢は空を切る剣に薙ぎ払われる。
 剣は返す勢いで男に向って殺到した。
 その一瞬、エゴウの胸が弩の前に無防備に曝される、だが、男は指を引金の上で凝固させた、無限とも思える一瞬――
「オーヴ卿!――」
 背後の叫びに、頭上を襲う太刀風に、煽られたように、両手で構えた弩を振り上げる。渾身の力で打ち下ろされる剣を受け止めた弩が砕け、男の手から叩き落とされた。
 きわどく跳び退った男をかすめた剣は歩廊の雪を舞いたて、跳ね上がる。
 エゴウの動きは鋭かった。かつて、傭兵として腕を試された兵士ドルヴォの比ではなかった。剣を抜く間もなく、執拗に追う剣尖のわずかに先を、風に薙がれる草のように男は逃れる、その足が滑った。歩廊に倒れこむ。体勢を立てなおす余裕はなかった。振り仰いだ視線が凍りつく。流れるような弧を引いて剣が走った。頭上に、弓弦が鳴る。意識には止まらなかった。空を切り、雪上に激しく音が砕け――動きが絶えた。
 身を捩り、辛うじて躱した男の肩先で歩廊の敷石を抉り、剣は止まっていた。
 その剣が手から離れ、雪の上に倒れる。
 同時に胸壁に倒れこむ、エゴウの右肩に深々と、矢が突き立っていた。矢は骨に食い込んで止まったか、だらりと脇に落ちた右腕を痺れるような激痛が指先に突き抜ける。
 めぐらせた視線の先、小塔の前の歩廊には新たにつがえた矢を射放った兵士が弩を肩に掛け剣を抜き放っていた。その背後には、さらに数人の兵士が現われ、散開し、構えた弩でエゴウを狙っていた。
「何故、射たぬ――殺されるところだ!」
 兵士が怒鳴った。男は黙殺する。エゴウの剣を拾い、雪の歩廊に緩慢に立ち上がった。
「ここまでだな――」
 声に視線を返す、エゴウは左手で力任せに引き抜いた矢を、凍てたように表情の死んだ顔のまえに、投げ捨てた。吹き出した血が雪のうえに音をたてて散る。
「借りを返したつもりか、さっさと殺せ――」
 醒めた、他人事のような声音だった。
「命はとらぬ。城兵どもも、薬が切れれば覚めようよ――」
「情け深いことだ。情けついでに飼い主の名を聞かせてはもらえぬか――」
 侮蔑をこめた、あからさまな挑発に、男は手にした剣を上げる。
「それほどに、王に殉じたいか――」
「己れを――この手で始末できなかったのが心残りだがな――」
「それに値する王か――」
 男がはじめて、感情もあらわに吐き捨てた。
「瑕瑾は誰にでもある――それであっても、優れたお方よ――」
「瑕瑾――だと――」
「それでは済ませられぬものを、持っているか――」
 一瞬押し黙った男は無造作に剣をエゴウの胸につきつけた。
「歩け――」
 抉るような凝視を浴びせる、エゴウはだがもはや逆らおうとはしなかった。重い体を胸壁から起こす。
 王も変ったか――男の命で塔内に戻っていく兵士の背に続きながら、エゴウは苦々しく口端を歪めた。かつての王であれば、このような奇襲を許しは、しなかったであろう――と。

 先に行かせた兵士たちに遅れ、小塔の螺旋階段を三層の踊場にさしかかったとき、男が脚を止めた。
「止まれ」
 剣先で小突き、階段塔の外にエゴウを押しやる。
「どこへ行かれる。捕虜は下の広間に――」
 遅れてくる男を待っていたらしい兵士が、咎めるように声を張った。エゴウを射た兵士だった。
「お前は先に行け――」
「しかし、私はあなたに従うようにと――」
「行け!」
 怒気を孕む声に憮然と口をつぐむ兵士を背に、男とエゴウは兵舎の廊下に出た。


 長い廊下は無人ではなかった。
 階段口を守るように大楯を並べ一隊の兵士が展開している、その肩越しにみえる仄暗い廊下に、男の剣に圧しだされるように楯の間を抜けたエゴウは点々と横たわるものを見た。
 見知ったものの変わり果てた姿だった。
 不審な気配に廊下に出たとたん弩で射殺されたか、変事に気付かぬままに突然の死に見舞われた、驚愕を凍りつかせた顔がそこにあった。
「見事なものよ――」
 苦々しげに吐き捨てるエゴウを男は黙殺する。その男に強いられるままに、血を滴らせる、エゴウは重い足を運ぶ。
 廊下の中程にきたとき、一瞬、エゴウの足が止まる。すぐに歩きだすエゴウを男が制止した。
「そこか――」
 一つの扉の前だった。壁灯に浮かびあがった扉には数本の矢が植わっている。
「何のことだ」
 半身を向けるエゴウを間に立たすように扉の正面にまわりこむ、男の腕に力がこもる。
「扉をあけろ」
「よいのか――」
 わずかに首をかしげ視線で男を追う、エゴウの声に揶揄が絡む。
「愚かな真似をして、後悔するのはお前だ」
 男の腕に力がこもる。背中に食い込む剣先を感じながら、エゴウは苦笑した。
「今更よ。だが、なぜこの扉だ――」
 男は無造作に剣先を抉る。
 息を詰め身を強張らせる、エゴウが声を張った。
「わたしだ――ノルドル、聞こえるか、扉をあけろ――」





VOL6-4
− to be continued −

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