VOL6-5
声に、微かな物音が立つ。 「エゴウ様か‥‥ご無事だったか‥‥」 間を置いて、苦しげな声が応えた。 「無事ともいえぬが――手傷を負ったか――」 ゆっくりと開いていく扉にすがり立つ影に、男が制止する間もなく前に出る、エゴウは腕のなかに崩れこむノルドルを片腕で抱き支えるように部屋に入った。 「何ものかが‥‥城内に‥‥」 「わかっている。城は落ちた。命を落とさなかったのは――なによりだ」 ノルドルを床に横たえるエゴウにはもはやかまわず、男は奥に踏込む。 「ヨサンはどうした」 「わからぬ‥‥何としても‥‥覚めぬ‥‥」 「そうか――それならよい――」 「エゴウ様‥‥あれは‥‥」 「確かなのは、敵というだけよ――もう話すな。傷に障る――」 傍らに膝をつき、腰を落としたエゴウは暗澹たる面持ちでノルドルの脇腹を縫い通した矢を眺める。すぐにも手当てが必要な深手だった。だが、 「娘は、どうした――」 頭上に降る声に緩慢に顔を上げる。つぎつぎと部屋を見回った男が戻っていた。 「娘――だと?――」 男は無言で、眉を寄せるエゴウの喉元に剣を突付ける。 「娘とは、テッサのことか――それが、目的だったか――」 「応えろ!」 威嚇する、男の腕が上がる。剣先が肌を裂く、その時、 「待て――」 開かれたままだった扉の外から声が制した。 「剣を退け、シェラム――」 一瞬、硬直した男の全身から力が抜ける。 「何故――御身がここに――」 剣を退き、わきに下がる、その口に圧し潜められた激情が軋った。 そこに、 三十には、なっていまい。精緻な細工を施した鎧をまとい、赤みを帯びた金髪を肩に波打たせた騎士の姿があった。 「赤毛のエゴウ――エゴウ・シヴォー、確かに、お前だ。また、会えようとはな――」 男の声には耳も止めず、王侯の装いに身をこらした騎士はエゴウに視線を据え、浴びせるような親しみとともに歩み寄った。つき従ってきた騎士たちが部屋に入り切れず、廊下に居流れる。 エゴウは凝然と、前に立つ騎士の、鎧の胸を飾る大紋を見上げた。それはまぎれもない、グリエムン王家の紋章にほかならなかった。 「わかるまいな。二十三年だ。あの時、私はわずかに六才だった――」 「二十――三年?‥‥」 「乳母に連れられ、わずかな供と城から逃れ、ルテカの森の茂みに身を潜めていた――お前は追手の一人だった。茂みにいる我らに気付きながら捕えなかった――ばかりではない。他のものの目を逸らしてくれた――」 金髪の騎士は、見開かれる碧眼のうちに理解の色を見取り、満足気に笑んだ。 「エゴウ・シヴォー。私は生涯、忘れまいな――その碧眼、燃えるようであった、その赤毛を」 「では――御身は――」 「前王の第二王子――トロルド・ヴォートの遺子サイートだ。弑逆の簒奪者から王冠を取り返すために、戻ってきた――」 「弑逆の――簒奪者と、言われるか――」 エゴウは、重く声を軋ませる。 自ら王孫を称する騎士、サイートは過剰とも思える親しみのままに大きくうなずいた。 「そうだ。あ奴こそが、二十三年前、わが王家を血に塗みれさせた――黒幕だ」 「御自身、言われたな、わずかに六才だったと――その御身が、そう断言される何を、知ると、言われる――」 「確かに、当時は何もわからぬ小児だったが、記憶は今なお鮮明に焼き付いている。ここに、な――」 芝居じみた所作で、その手を胸におく。 「今では、その記憶の意味するものは――明白だ!」 「明白なるは――王位を望んだトロルド殿下が世子たる第一王子を殺害し、その罪を暴かれ、自滅された――その事実では、ありませんかな――」 「さらには、王を弑し、討伐に立った第三王子までもその戦乱のなかに葬ったと――世に喧伝された、すべては、濡衣! わが父のなせる、業ではない!」 怖れげもなく返される言葉を、叫ぶように圧し伏せる、サイートは大仰な身振りに拳をうち振った。 「すべては――弑逆の王、イリオンの、なしたる業よ!」 「証を――お持ちか――」 「証は――イリオンの手飼いたる、あの、獣人! 第一王子を殺害しその罪を着せるべく、我家から父の短剣を盗みだした――あれこそが、真の下手人だ。当時、その怪異な姿をかいま見た小児の言葉など真に受けるものはなかったが――かならずや、生捕りにして吐かせてみせる――」 呪咀をこめ吐き捨てる、サイートの顔に、寛闊な表情は消えていた。 エゴウは、沈黙する。 「今は、無理に信じよとは言わぬ――だが、恩は、忘れぬ。まずはその傷――手当てをさせよう――」 双眸になお憎悪の余燼をくゆらせた一瞥を残し、サイートは立ち去る。潮が引くように麾下のものが従う、その最後の一人が脚を止めた。 「シェラム――何をしている、こい」 「いや――」 無言で立ち尽くしていた男が沈鬱な視線を向ける。 「その前に、この者には質さねばならぬ、ことがある――」 「何?――」 気色ばむ騎士を制するように、エゴウが応えていた。 「残念だが――すでに、わが手を離れたものよ。宵のうちの出入りに紛れ、一人、内郭に忍んでいったと見える――」 ただでさえ色の悪い男の顔から血の気が失せた。 「シェラム――」 叱声が促す。 エゴウを見据える、男は不意に剣を手にした、その腕を振りかぶった。 「何を――」 鼻白む、騎士の声は戛然たる響きに断ち切られる。 エゴウの眼前の床に剣を突き立てた男は、呆然と立ちふさがる騎士を押退け、廊下の闇に呑まれた。 雪のうえに長く影を曳き、皎と輝く月はまだ低い。深い夜の中から立ち上がる城はその半ばを青ざめた闇に沈めていた。 その、闇に凝る夜気を震わせて、遠く宴の響動が響いてくる。 内郭の北壁をなして五層の高処にそびえ立つ主塔の屋上に、雪に足をうずめ佇む、ムゴルは眼下に鋭い稜線をなす内郭東翼の巨大な屋根をみつめていた。 その屋根の下に、侍することさえ許されぬ宴の大広間がある。そこに今、 王はいる‥‥ やがて、 ふりそそぐ月光の眩さにひしがれたように肩を落とし胸壁の狭間を離れた、ムゴルは、四層の己がねぐらに戻る。 北壁と大階段の広間に挟まれた長い隠し廊下の一端に与えられた、それは、部屋ともいえぬ粗末なねぐらだった。 小さな木机、頑丈なだけの寝台、わずかな身の回りのものを納めた小櫃。それだけがムゴルの持つすべてだった。 木机には燭台がおかれ、その光の輪のなかに、いつもと変らぬ皿と鉢がおかれている。 節日の祝いも、ムゴルには遠いものだった。 そこに、時はたゆたうか、 今では護衛としてさえムゴルを公の場にだそうとはしなくなった王を追う思いに沈む、ムゴルは、いつか、夢中に漂うようにねぐらを離れていた。 隠し廊下の長い闇をたどり、突き当たりの小部屋を抜け、厚い緞帳をめくる――漂い行く先は他にはない、 王の寝室だった。 二基の燭台に照らされた寝台、その豪奢な上掛けが艶めいた光を弾く、主のいない大きな部屋はひっそりと静もっていた。 ムゴルは蹌踉と、寝台の傍らに歩み寄る。 足音は、床一面に敷き重ねられた厚い毛皮に吸われる。かすかに蝋の爆ぜる静寂のなかで、離れては――歩み寄る、 幾度、それを繰り返したか――つと、糸の切れた操り人形のように、寝台の傍らに膝を落としていた。 上体をもたせかけ抱き包もうとするように大きく腕を広げた、両手は、しっとりとすべらかな絹を愛撫する。 その絹になかば顔をうずめ、深々と息を吸い込む。 俺の‥‥王よ‥‥ わずかな残り香に胸をみたし、閉ざした目のうちに、思いを噛み締める。 あの、嵐の夜を境に、王は――変った。 ムゴルの前に見せる、それは、三度目の王の変貌だった。 VOL6-5 − to be continued − |