VOL6-7





 闇の中にも、時はうつろい、
 熱い潮はいつか、退いていった。
 エリエンの腕の中にいてさえ、いや、それだからこそだろうか、現々とまどろむような時のなかで、リュールはふと胸をよぎる冷たい風に、微かに身を震わせる。
 ずっと‥‥
 ずっと、こうしていたい‥‥その願いの儚なさに脅かされて。でも‥‥いつかは‥‥
 終わってしまう‥‥
 闇のなかに光が射して、
 時は、ムゴルという形をとって、訪れる。
 塔内に灯をともし、ムゴルはひっそりと身を寄せ合う、二人の前に立った。
 すでに、二昼夜が過ぎていた。
 狂おしいまでの交合に果て、薄明に声もなく涙を流しつづけた王だったが、
 やがて眠りに落ち、目覚めたとき、かくも執着したその存在でありながら、念頭から消え失せたかのように、口の端に乗せることもなかった。
 戦く思いで、ムゴルはそんな王の背を追う。
 いつ、子供を檻に戻せよと、命じられるのか――
 いつ――闇の塔に赴くか――と。
 それが王の意志であるなら、いかなることであれ、己れは従うだろう――それでもだった。あの二人を引き裂くことはつらかった。子供を王の慰みの具にすることは、なお耐え難い――
 だが、王は何かの指示を与えようとはしなかった。塔に向かおうともしなかった。
 時が過ぎれば、放置してあるものへの不安が膨れ上がった。子供は――飢えも、渇きもする――
 はりつめた糸が切れるように、ムゴルは闇の塔にきていたのだった。そして、そこで、
 必死に思いをこらえて見開かれた優しい菫色の双眸に射竦められ、ただ、立ち尽くす。
 どれほどの時を、そうしていたのか。
 ムゴルは立ち去った。
 床に、一鉢の粥が、おかれていた。
 リュールはエリエンの胸ですすり泣いた。
 それからも、ムゴルは時をおいて現われた。
 壁灯の蝋燭をつぎ、粥を、水をおいて去る、ただそれだけの訪いだった。そして、
 王が現われた。
 灯火の及ばぬ通廊の闇を背に思いの知れぬ視線を向けて立つ王の姿に、
 リュールは凍りつく。
 エリエンの胸を貫いた鎖は石壇の基部に繋がれていた。その鎖がゆるす限りに壇から身を離した壁ぎわに、二人は座っていた。
 闇が凝ったような王の凝視に、背にリュールを庇ってエリエンが立った。
 動きに、鎖が鳴る。音に、醒めたように踵を返し、王は去った。
 喪然と見送ったエリエンは、瘧のように身を震わせるリュールを抱きしめた。
 そのような王の訪いが何度か繰り返された。
 ムゴルの訪いにはやがて心を許すようになったリュールであったが、だが、王は――
 いつ――王は求めるか知れないのだ。エリエンを――その無残な慰みに――
 故に、
 無言の、王の訪いが繰り返されるたびに、怖れは増し、苦悩は深まった。
「ここへ、来い――」
 と、王が命じたとき、リュールはただ、ああ‥‥と、胸に吐息しただけであった。
 それはかつてない静かな声であったが、リュールの胸に冷たい刃を圧し沈めた。
 聞きたくない‥‥と思った。王の前に歩み寄るエリエンの姿を見ていたくない‥‥
 王に苛まれるエリエンを見たくない‥‥その声を、聞きたくない‥‥
 痺れた頭のなかに反響する己が声を聞きながら、だが、リュールは目を閉ざすことができなかった。顔を背けることも、できない。
 全身が重く痺れ、リュールの意志を拒んでいた。
 王は――
 前に立ったエリエンに、すぐには、触れようとはしなかった。ただ舐めるような視線を、エリエンの上に這わせていく。
 優美な銀灰色の角、灯火を弾いてきらめく肌、紫黒の双眸――
 波打つ黒銀の髪は、いまはその背丈より長く、床に流れていた。
「何故このようなものをまとう――お前の肌は衣で守らねばならぬほど、弱くはあるまい」
 王の指が腰に巻いた衣の端を解きはずす。足首までを被っていた白い衣が滑り落ち、しなやかな下肢が現れる。
 王の指が、露になった下腹を滑った。
 下に――
 それをかすめ、内股に滑り込み、ゆっくりと擦り上げる。途端に、エリエンの肌に銀砂が散った。
 竜人のはりつめた背中に回した腕で、王は抱えた腰を引き寄せた。引き締まった丸みを掌にとらえて、撫で上げる。
 王の愛撫は、優しかった。
 丹念に――執拗に、とらえた腰を前後からまさぐる。双丘を滑り、狭間をこすり上げ、内股に、下腹に、うごめく手は、しかし、決してそれに絡みつこうとはしなかった。そこを抉りもしない。きわどくかすめ、触れては逸れ、ただ、戦く素肌を味わうようにまさぐり続ける。
 ねっとりとした息遣いだけが、塔の間を満たしていた。
 不意に、王の動きが絶える。
 エリエンは、我知らず閉ざしていた目を、開いた。
「言うがよい――」
「言‥‥う?‥‥」
「いかに憎かろうと――お前の体は、この身に渇き、この身を欲している――」
「そ‥‥のような‥‥」
「――ことは、ないか?――」
 まじまじと見据える暗い双眸に、エリエンは身を震わせた。その背を王の手が撫で上げ、流れ落ちる髪の下にしなやかな項をつかみしめた。
 下腹から胸へ、まさぐるように滑る手が喉に絡み、顎をとらえる。
 仰向かされた端正な顔のうえにゆっくりと、王の顔が、重ねられた。
 熱い口は、貪る。
 深く――秘めやかに。
 押し殺された吐息に、闇が震える。
 二基の壁灯の照らしだすものは銀砂を散らすエリエンの裸身――そして、その肩ごしにのぞく白蝋の面差しだった。
 艶やかに波打つ亜麻色の髪を肩に流して、エリエンの上に傾げた優しげな顔。優美な弧をえがく眉の下に、見るものの胸を凍らせる暗い双眸は閉ざされていた。
 かつて一度、王はエリエンの口を貪ったことがあった。荒々しいまでの激しさで貪り、その舌を食い切った。
 今の王に、その荒々しさはなかった。
 エリエンに絡み立ちながら、情欲さえを押し潜め、ただひたすらに濃密な愛撫を加え続ける。
 そして、エリエンは――
 ふたたび背にまわされ、ねっとりと肌に絡む王の手に、その戦きを深めていく――
 己が目の前に、微かにその体を揺らしはじめたエリエンを、リュールはなしようもなく見つめた。
 王の仕掛けるままに抗うこともならず、確実にその官能を昂ぶらせていくエリエンの膝が、うねり上がる戦きに崩れようとした、刹那――
 リュールは声を絞っていた。
「いやだ!――エリエン!――」
 何故――
 不意に、胸底に熱くたぎり上がった衝動だった。自らの叫びに驚き、喪然と見開いた目の前に、王がゆっくりと瞼を上げる。
 氷塊を宿した暗い双眸がリュールを射た。
 リュールの口に、息さえが凍りつく。
 だが、王は何も言わなかった。何も、しようとはしなかった。ただ、腕のなかで打たれたように強ばりついたものを解き放つ。
 すがるように、王の肩に上がりかけた手は、力なく脇に落ちていた。
「かつては――」
 低く、口ずさみ、視線を戻した王は、エリエンの額に落ちかかっていた黒銀の髪をかきあげた。
「私も――竜人の養い子となることを夢見た子等の――一人だった。やがて――呪われた王の末孫であれば、決してかなわぬことと、諦めた――」
 長い髪を梳き下ろした指にからめ、口元に運ぶ。サワリと、流れ落ちる黒銀の滝がゆらいだ。幽かな燐光が弾ける。
「何故――己れのようなものが、人界に現われる――」
 軽く口付けた髪を放し、身を引いた王はわずかに首を傾げた。仮面のように思いの知れぬ顔に、細められた双眸が闇を湛える。
「我が――見果てぬ、夢よ――」
 呟きは、吐息に流れた。
 さらに身を引き、ゆっくりと背を向ける。その背を追うように鎖が鳴った。呼ばれたように王が振り返る。
 息を詰め、身動ぎさえせずに立ち尽くす、竜人の背を、再び戦慄が貫き走って鎖が――鳴った。
 王は、凝視する。
 息詰まるようなその凝視の下に、エリエンは身を凍らせていた。
 この戦慄は、何か‥‥
 王の手にかき立てられた淫靡なうねりに身を委ねようとしてリュールの叫びに踏み止まった、その己が意志を裏切って脳裏を貫いた、熱い、欲望――ではなかったか。
 それは、見透かしたように振り返った王の目にも顕らかであろう、これほどまでに狂おしく体の芯から滾り上がり、肌を、小波立てる。
 だが、背に痛いほどのリュールの視線の前に、まだも、己が肉の戦きを曝すのか。
 その思いに自らの胸を抉るエリエンに、
 やがて、王が薄く、唇を歪めた。苦みを帯びたその笑いは、何に、向けられたものか、
「褥に、上がれ――」
 静かに降り落ちる王の意志に、リュールは声もなく両手で顔を被う。膝立ちになっていた、腰が落ちた。
 鎖の音に、王が衣を脱ぎ落とす衣擦れが重なる。リュールは坐った膝の上に顔を埋め、耳を、押し塞いだ。





VOL6-7
− to be continued −

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