VOL6-9
エリエンは漂っていた。 王の手に紡ぎだされる、淫靡なうねりのなかに。 うねりは熱い痺れとなってこみあげ、ねっとりとわだかまり、焼けるような渇きの水脈を引きえがく。幾重にも―― 幾重にも、くりかえす――そのうねりのなかに、エリエンは溺れようとしていた。 いつ‥‥から‥‥ 時は澱み、股間を苛む甘やかな疼きはいつ果てるとも知れなかった。 いつしか、エリエンは溺れるものがすがるように王にすがり、淫らに腰を悶えさせていた。 幾度繰り返されたか知れぬ哀願に押し潜めていた息を揺らし、切ない喘ぎに歔いていた。 「王‥よ‥‥どうか‥‥」 いかせてくれ――とせがむ、エリエンの眦をとめどなく金砂の流れが伝い落ちていく。 リュールの前に、王を求める己れを曝したくはなかった。それを、 何故‥‥ これほどに、脆い。かくも容易に崩れ立つ‥‥己れが厭わしかった。 消し去ってしまいたかった。 それでも、だった。 堪えがたく満ち上がった官能の疼きのままに、エリエンは悶える。淫らに、貪るように、 王の手に、その――動きを誘って、自ら腰をゆすりたてていた。 「どう‥‥か‥‥」 どうか――と、哀願する紫黒の双瞳に、王はただ笑み返した。 「名を、教えよ――」 微笑む口から声がこぼれ落ち、耳に沁み入ったとき、エリエンの動きが止まった。 「王‥‥よ‥‥?」 「真の――名を――」 紫黒の、双眸が見開かれた。 「真‥‥の?‥‥」 「エリエンとは――創王グリエンのとらえた竜の名――」 「何故‥‥」 「何故――そのような名を称す。何故、真の名を秘す――」 「秘した‥‥わけではない。リュールが‥‥そう呼んだ。他に、わたしを呼ぶものは‥‥なかった。長い‥‥間‥‥わたしは‥‥忘れていた‥‥」 驚きもつかの間に、体の奥深くを焼く熱に浮かされ、うわごとのように言葉を紡ぐ。 「王よ‥‥?」 己がものを収めたままにその手を休めてしまった王を、エリエンは切なげに見つめ上げていた。いかせては‥‥もらえぬのか‥‥ 「イリオン――我が名はイリオンだ――」 やがて、王がささやき告げた。 「イリ‥‥オン‥‥」 強いられたようにその名を復するエリエンに、王は問い重ねる。 「名を――聞かせてくれ――」 青白き竜人を促したのは何か―― 冷めた嗤いの底に響く、熱い、切望の思いだったか。 「‥‥フォーラの裔なる、ルギューラの種子‥‥ユディール‥‥」 吐息のうちに紡ぎだされる、古い記憶に、 王――イリオンはひっそりと微笑み、その暗い双眸を閉ざした。 「ユディール――‥‥」 声になすさえ惜しむように口中にささやく。 「我が――ユディール‥‥」 抱擁は熱く、直向きだった。 重ねた体に、かき抱いた腕に、その存在を自らに溶かし込もうとでもするように―― イリオン‥‥ 股間を食む熱い疼きがふと遠退く、エリエンは思いもよらぬ王のふるまいに、見開いた目を闇にうつろわせた。 そのような王の、何が――エリエンに響いたのか‥‥不思議なざわめきが胸奥を脅かす。 「イリオン‥‥」 その声に、呼び覚まされたように、王は再びその双眸を開き体を起こした。 その顔から微笑が消えていた。あらゆる懐いを拭い去ったような面差しはあまりにひっそりと静かであった。 その双瞳の闇に、魂を吸われたように、エリエンの時が――止まった。 不意に、王の口元が笑み歪む。 我に返る、エリエンのうえに時が流れだす。極彩色によみがえる視界の中で、とどこおっていた王の動きが復活していた。 もはや焦らそうとはしなかった、王は巧みに、峻烈にエリエンをその高処に誘った。 「これが最後だ‥‥我が手向け――存分に味わうがよかろう‥‥」 目眩く陶酔のなかで、うつつに聞く、 王のささやきが意識に落ちたのは、すべてが果て、陶然たる余韻のなかに一人漂っている己れをみいだしたときだった。 褥の上に、王の姿はなかった。そして、 耳によみがえったその言葉に、エリエンは我にもあらず狼狽し、褥の上に身を起こした。 ‥‥最‥‥後‥‥? しかし、 何故の惑乱か‥‥思いを質す、時は、なかった。密やかに近づいてくる足音が、エリエンを思いのうえから引き剥がす。 「リュール‥‥」 決して、忘れてはならぬものの名が、念頭に甦り、エリエンは褥を立った。 両手で耳を塞ぎ、小さく体をまるめて、リュールは床にうずくまっていた。ヒクリとも動かない、その姿は眠っているように見えた。 だが、 エリエンの腕に抱き起こされても、リュールは覚めなかった。薄く開かれた目が虚ろに闇を映す。細い腕が力なく床に落ちた。 心をもたぬ木偶のような体が、そこにあった。 「リュール―― 」 呼びかける声が、悲痛に闇を震わせる。 己れの惑溺が生み落としたものを喪然と胸にかき抱く、エリエンは崩れるように床に腰を落としていた。 豪華な寝台の傍らに、置き捨てられたかのように蹲り燭台の上でしだいに短くなる蝋燭に見入る、今のムゴルには待つ以外、なすべきことは、なかった。 竜人を抱かなくなった王は、また、ムゴルを陰の塔に伴うこともなくなっていた。ひとり闇の広間へと消える王を見送り、しばし後、立ち戻る姿を、密かな安堵とともに迎える、ムゴルにとって、薄氷を踏むような静謐の日々が続いた、この夜、だが、 すでに初更を過ぎていよう、王はまだに戻ってはこなかった。 これほどに長く、そこに王が止まる――今まさに闇の広間でなされているであろうことを、その輝きに塗り込めようとでもするようにムゴルは燭台の炎を見つめる。それでも、つと、脳裏に揺曳する想念を止めることはできなかった。何故、今になって―― いや、それとも、王もまた待っていたのか、 この、夜を―― 微かな物音に、夢想を破られたムゴルは、弾かれたように身を起こす。 奥の壁を覆う緞帳が大きく揺れ、王が鈍い光のなかに立っていた。 闇の通路を抜けたムゴルは歩み寄ろうとした脚を止め、つと、眉を顰めた。闇の広間、その壁ぎわの床に身を寄せあった見慣れたはずの二人の姿に、だが―― どう――したのか。 その繊弱な姿からは思い及ばぬ気丈さを秘めた少年だった。それが。竜人の胸に抱かれながら、何故、その腕は脇に垂れたままなのか。竜人は何故、ああも力なく首を傾げている――声があればあるいは叫んでいたか、灼けつくような焦燥に駆られ広間を横切る、足元に、不意に、あえかな燐光がはじけ散った。 息を呑みその場に凍りつく、ムゴルは背に戦慄を這わせて、踏みしだいた髪を見た。熱い衝動は消えていた。 弾けては散る、燐光は息づくように消え迷い、黒銀のうねりをおおっている、その燐光に呼び覚まされた記憶に、震え竦む、脳裏に、己れを塔に差し向けた王の言葉がじわりとよみがえる。王の命は、果たさねばならない。かつて、己れを床に叩きつけた燐光の力も今はまだ青金の鎖に封じられているのだ。何を恐れることがある―― ムゴルは身を屈め、微かに慄く手で仄かな燐光をまとい、さわめく髪に埋もれていた鎖をつかみ上げた。 引かれる鎖に胸を噛まれ我に返ったか、エリエンが首をめぐらせる。 髪に散る燐光が、消えた。 銀沙を散らせて白い顔に、表情はなかった。見開かれた紫黒の双瞳は暗い。 背筋を戦き上がるものを必死に押し殺して、暗い双眸の闇に潜むものをムゴルはさぐるように見つめた。 そのムゴルの凝視をどう捉えたか、馴らされたものの従順さで静かにリュールを横たえ、エリエンは立ち上がった。 気圧されたように、魁偉な上体がそよぐ。 促され――いや、むしろ強いられるような面持ちで、ムゴルは革紐に通し首にかけていた一個の鍵を胴着の胸元から引き出した。 微かな音が響き、エリエンの胸を貫いていた鎖の鐶が解かれる。先端が硬い響きを立てて床に落ちた。 エリエンは惚けたようにそれを見る。 何が起こったのか――理解できないままに眉をひそめる。次の瞬間、 ムゴルが手に残った鎖を引いた。エリエンの背に真青な血がしぶく。悲鳴が迸しった。鎖が素早く激しい動作で手繰り出されていく、目も眩む激痛に身を捩り、エリエンは床にくずおれた。身を屈め、たまらず握り押さえた手のなかを鎖が滑る。 だがそれも数瞬、 抜き取られた鎖の先端が、宙空に金砂の弧を引いて、床に弾けた。 石壇まで後ずさったムゴルは魅せられたように、視線を据えて立ち尽くす。 流れ出る血のなかに倒れ伏した竜人は意識を失ったのか、雪白の体はピクリとも動かなかった。 息詰まるような静寂のなかに、 時が――凝る。 不意に、背中の傷口から滾々とあふれ出ていた血の流れが止まっていることに気付く、ムゴルの、凝固したように立ち尽くしていた分厚い短躯を戦慄が貫いた。 ザワリ‥‥と、黒銀の髪がゆらめき、うねるような燐光が竜人の全身を押し包む。 青白い光はゆっくりと脈打ちながら、しだいにその輝きを、増していった。 VOL6-9 − to be continued − |