VOL7-1





 人知れず囚われていたものが、誰知るともなく、解き放たれていた頃――
 テッサは夢中に漂うように、主塔の基層、地下を巡って太い隧道をなした、通廊の闇をたどっていた。

 城を築き上げた黒御影は光を奪い、わずかに壁や床の石組みの粗い鏨跡、頭上高く交錯するアーチの縁が鈍い光を弾く。王城の枢要にありながら常には訪れるものもない、そこに衛士の影はなかった。壁の灯架は凍て、ただひっそりと澱む、闇は深かった。
 一本の蝋燭を手に、テッサがその闇におりてからどれほどの時が過ぎたのか、ゆらぐ炎に脅かされ、はやる足をおさえ、たどる、テッサに時が失われたころ、かかげる灯火の中に階段が浮かび上がった。
 消えかかる炎を片手でかばい、駆けるように階段の下に立ったテッサは、凍てた床に、融け残った雪が鈍く光るのを見た。地下におりたときテッサが落とした雪だった。
 戻ってしまった‥‥落胆に崩れそうになる己れをふるいたたせて、ふたたび、闇の歩廊をたどりはじめたテッサに、もはや見咎めるものの出現を怖れる余裕はなかった。あの男がテッサのなかに残していった鍵は主塔の地下に入るためだけのものではなかった。扉の一つひとつを握りしめた鍵で確かめ、進んでいく、全身をいつか、冷たい汗が濡らしていた。
 そんなテッサの前に、行手の闇からまた一つの扉が浮かび上がる。黒光りする帯金と鋲で補強された見上げるほどの高さをもつ両開きの扉――主塔の基層は巨大な地下倉だった。一抱え以上もある太い柱に区切られた広い壁ごとに閉ざされた大きな扉の奥は広間ほどもある倉になっていた。
 これが幾つ目の扉か、テッサは暗い灯りのなかで確かめた鍵穴に汗に濡れた鍵を差し込む。
 掛金が重い軋みを上げて外れる。全身の力をかけて押し開けた扉の隙間に身を押し込み、かかげた灯火で闇を照らす。うずたかく積まれた樽が壁をなして闇に消える、そこに、扉に隠された通路も階段もなかった。失望を噛み締める、テッサは歩廊に戻った。
 どこに――陰の塔へと上る階段はあるのか。歩廊は、やがて別の歩廊と交差する。
 ずしりと重い闇のなかに数も知れぬ扉を隠して、歩廊は迷路のように交錯していた。

 月が昇り、緩やかにうねる雪原の闇を掃いて狭間窓にさしこむ光が壁に弾け、仄かに漂う、宵の口――
 秘かにエゴウの居室を抜け出したテッサは小塔の螺旋階段を足先でまさぐるように下り、湿った藁の匂いのこめる厩舎の闇をぬけ、広場にでていた。
 いまだ地を這う月の光は外城壁にさえぎられ、広場は仄青い闇を湛えている。星明かりに息が白い。寒気が、肌を刺す。テッサは気付かなかった。リュールの白い衣を下に重ねているためばかりではない。己れがなそうとしていることへの怖れが、熱く、五体を巡り、背後の兵舎、二層の広間から響いてくる中郭守備隊の宴のざわめきも聞こえてはいなかった。ただ闇のなかに足を竦ませる、視線の先に赤々と松明が燃える。
 内郭と中郭を隔ててそびえる北の内城壁の基部、大きく開かれた扉を闇に浮き上がらせてゆらぐ、その炎の下に、日が落ち、往来する人影もなくなった城門を守って数人の衛兵の姿があった。
 宴の宵には警備もゆるむ――あの男、ギュラン・カッサールが言ったとおり、たしかに日頃は見られない、気の入らない衛士の姿ではあったが、
 それでも、彼らはそこにいる。そして、テッサを見過ごすとは思えなかった。
 どうしたらいい――思い竦んでいたテッサは雪を踏む足音に、意識を引き戻される。
 物陰に潜み視線を向けるさきに、松明の明かりを背に受け南の内城門から広場の闇に、つぎつぎと現れ出てくる人馬の影があった。
 ゆったりと進んでくるその一行が目の前を通り過ぎたとき、テッサは駆け出した。
 騎乗の三人に従って徒歩で進む数人の人影、その背後に追いついたとき先頭は北の城門に至ったか、つき随う人影の頭越しに衛士に身分を告げる声が響いてくる。王の宴席に招かれた城下の富商とその従者たちらしかった。誰何の声もなく、そのまま、さらに巨大な城門塔に呑まれていく。
 左右に開かれた見上げるほどに高い扉を背に並び立つ衛兵の前を、萎えそうになる足を励ましわずかに遅れて後に続く、テッサは夢中で歩き過ぎた。
 通廊に不審の叫びも、呼び止める声も響き渡らぬまま、内郭の闇に包まれたとき、膝が崩れた。じっとりと汗ばんだ肌を寒気に刺され、一瞬、激しく身を震わせたテッサが振り仰ぐ、正面に、星空を断ち切って、黒々と主塔がそびえていた。

 雪のなかに蹲った娘に気を留めることもなく、商人の一行は右手の方へ、二基の篝火に浮び上がった両開きの大扉に向って離れていく。なおも慄く脚を踏みしめ、立ち上がったテッサはもつれるような足取りで広場を突っ切っていった。
 商人たちを迎えて開かれた扉からつかの間、宴のどよめきが押し寄せてくる。つと見返った視線の先を、扉の前に張りだした広い露台の下に残された三人の馬丁がそれぞれの主と従者の乗り捨てた馬を引いて、城門塔の横の厩舎に向って広場を戻っていく。
 やがて、かすかな軋みが伝わってくる。
 床を蹴る蹄の音、馬たちのいななきを断切って厩舎の扉が閉ざされたか、広場に人の気配が絶えた。主塔の地下に続くらしいその階段に、テッサが行き当たったのはそれからじきだった。
 主塔の東壁の中ほど、壁に沿ってゆるやかに下る斜路のつきあたりに、隠すように造られた扉――震える手で取り出した鍵を差し込む。鍵が回り、掛金が外れる音が響き――テッサは奈落の闇を前に、呆然と立ち尽くしていた。
 灯りが‥‥必要だった。
 内郭の東の外城壁を背に三層を貫く大広間の棟と、南の内城壁をなす城門塔の間に、低く蹲るように建つ厨房棟――灯りを求めるテッサは、漂ってくるうまそうな匂いに導かれるように踵を返していた。

 この日、
 宴に供され、宴席に列なれぬもの等へもふんだんに振舞われた料理に、大広間ほどもある厨房は早朝から戦場のような喧騒を極めた。
 壁ぎわに並ぶ四つの竃に入れられた火に汗ばむほどの熱気が立ちこめ、殺気立った調理人の罵声が飛びかう。右往左往する下働きの手で、屠られた牛の焼き串が回され、幾篭もの野菜が刻まれた。鍋には熱い湯気がたち、練り粉が練られ、竃から取り出された山ほどの焼菓子が銀の皿に盛り上げられる。炙り肉が串から抜かれ、香ばしく焼上げられた腸詰が切り分けられ、数も知れぬ大皿が給仕人たちによってつぎつぎと運びだされていく――その騒ぎが治まりを見せはじめたのは、日が暮れ、宴もたけなわとなるに及んでからだった。
 朝のうちの張りつめた空気もようやくに薄れ、自分たちにも用意されている宴の期待に、浮き立った下働きたちが軽口を叩きながら手回りを片付けはじめ、そこここに陽気な笑いが弾ける。
 やがて、最後の皿が運びだされ、竃の火が落とされる。灯火も消され、料理長に引き連れられた調理人や下働きが去り、厨房に人の気配が絶えた。
 薄くあけた扉の隙間から身を竦めるように滑り込んだ厨房は、ひっそりと闇を湛えていた。その闇の奥に、小さく炎がゆらぐ。天窓から差し込む薄い雪明かりにおぼろげに浮かび上がる大きな調理台のへりを伝い、テッサは奥に進んだ。
 灯火は、厨房の横の食器室から大広間にぬける隧道のような廊下の壁にともされていた。仕切の壁に大きく開いた通り口を食器室に入る、左右の壁面の空になった棚の前に部屋の半ばをしめて並ぶ二つの長卓の間を、闇につまずきながら壁灯に歩み寄った。
 にわかに高まった宴の響動が押し包む。廊下はそこで直角に曲がり、城壁の方へ向っていた。
 間遠い壁灯の乏しい明かりに浮かび上がる人影のない廊下、テッサは灯架にのばしかけた手を止め、憑かれたように歩きだしていた。
 長い廊下はふたたび折れ、前方に小さく光の矩形が現れる。大広間の東壁の端、柱の陰に開いた出入口、そこで、廊下は終わっていた。
 浮き立つようなリュートの音、太鼓の響きに促されるように、テッサは柱の陰に身を寄せる。
 内郭の東棟、南北に長く三層を貫いた大広間の、東西の壁を背に並べ連ねた長卓には日の暮れを待たずに居流れた王の臣下が卓上を埋め尽くす料理を前に長椅子に肘を触れ合うように酒杯をあおり、声高に談笑し、節日を祝い興じていた。その頭越しに、はるかな高処で光と闇のあわいに溶ける壁上に惜しげもなくともされた無数の蝋燭が昼のように照らしだす広間の中央で、踊子たちが色鮮やかな乱舞を繰り広げる。
 テッサがかつて身につけたこともないようなきららかな衣装だった。しなやかな腕に、軽やかに舞う足首に、金貨を連ねた鎖が揺れ、結上げた髪に、あらわな胸元に、瑠璃や紅玉が鋭く光を弾く。思わず見惚れていたテッサはその動きを追って上げた視線の先に見知った顔をとらえ、我に返った。
 右手奥の一段高くなった大広間の正面、背後の壁を遠目にも豪華な緞帳に飾られた段上の大卓に近く、西側の壁を背に、見違えようのない赤髪の巨漢の姿があった。
 エゴウ様‥‥
 気付くわけもないと思いながら、テッサは思わず身を竦めていた。そしてあらためて見回す。王の、そしてあの男、ギュラン・カッサールの姿を求めて。
 王とは――どのような人であるのか――怖れながらそこに確かめずにはいられなかったその姿は、だがあの男とともに、そこに見ることはできなかった。
 それが王の座所であろう、上段の大卓の中央に一際高い背凭れの椅子が唯一むなしく空を抱く。
 なぜ‥‥いないのか、テッサには知るよしもなかったが、王が奥に引き上げたのは宵の口、テッサがエゴウの居室を抜け出した頃だった。
 ギュランは、あるいはいるのかもしれなかったが、東壁の側に座したものたちの折重なる人影に埋もれていた。
 見えない存在に脅かされ駆けるように廊下を戻った、テッサは壁に灯る蝋燭の一本を取り外し、服の裾を裂いた布を巻きつけ急拵えの手燭にして、厨房を後にした。

 あれから、どれ程の時が経ったのか――
 テッサは左手に握りしめた蝋燭を見る。赤子の腕ほどもあったそれは、あらかた燃え溶けて巻きつけた布よりわずかに出るばかりになっていた。もうじき布を巻きつけては持てなくなるだろう、それでも、陰の塔に通じるという階段には行き着けないでいた。
 闇の歩廊を歩き続けてきた疲労に壁ぎわにうずくまり、絶望に染まった視線を前方の闇に投げる。
 あと、いくつの扉を確かめればいいのだろう‥‥気弱に崩れそうになる心を振り捨てるように、立ち上がる。歯を食縛り、テッサは再び歩きはじめた。
 テッサには知りようもないことだった、この時すでに宴は果て、酔い疲れたものらが泥のような眠りを貪るなか、密やかに侵入してきたものの手に、かつて不落といわれた城は落ちようとしていた。





VOL7-1
− to be continued −

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