VOL7-2





 不意に、
 眠りを破られ、ギュランは褥のうえに身を起こした。何かが、重く耳にまとい付く。
 何事か ――
 厚い壁、いくつもの部屋に隔てられた、遠雷を思わせる微かな音――あるいは気配といったほうがよいか。だがそれは紛れもない、乱れ立つ足音、叫び、撃剣の響きだった。
 まさか――心地よい宴の残夢から引きずり出された怒りにまさる想念が胸底を脅かす。
 信じ難いその疑念に答えるように駆け込んできた従士が叫んでいた。
「閣下――敵が――」
 近衛隊士の宿営となっている主塔の三層、その大階段室にギュランが駆け付けたとき、そこはすでに戦場と化していた。
 迎え撃つ黒衣の群れの頭越しに剣が閃く。
 血がしぶき、絶叫が迸しる。
 二層との間の踊場を埋め尽くし、階段を押し上がってくる侵入者たちは数も知れなかった。三人は並び戦えぬ階段が地の利となり辛うじて近衛隊士たちを支えていたが、そこを破られれば王の住む上層へ、もはや遮るものはなかった。
 馬鹿な――ギュランの耳奥を音を立てて血が奔騰する。その長身に気付いた副官が駆け寄った。
「閣下――」
「家具を運べ! 落とせ! 防壁を作れ!」
 叱咤の声を飛ばし、数人の隊士を引きつれたギュランは上階に向った。
 王の居室のある四層へ階段を駆け上る、ギュランの滾るような意識の底で冷たく冴えた悟性が告げていた。
 もう、どうにもならぬ――
 城の枢要たる主塔の内陣にまで攻め込まれたとあれば、内郭も落ちたということだった。戦いの帰趨は決している。血路を開いて逃げ延び得る段階は過ぎていた。あとは、最後まで抗い、戦い死ぬか、投降し、さして長くはあるまい敗者の生を選ぶか――だった。
 王は、どうするか。
 己れは――
 ――どうする‥‥
 つと、脳裏をよぎる想念を押し隠すようにギュランは目を細めた。すべては、敵しだいのことだ、と。それにしても、王は、その耳目は何をしていたのか――
 庶出の身で王となったイリオンに敵は多かった。それらの敵につけ入る隙を与えなかった犀利な王が手足のごとく頤使する密偵の群れがあった。国内はおろか他国にまで張り巡らされたその耳目をかいくぐることのできた企てはかつてなかった。それが、内通者か、間者か、城内に手引きするものを培いながら、ここに至るまでその気配さえもうかがわせなかった、敵がただ上手だったにすぎぬということか――
 四層の回廊をうろたえ寄集まった侍臣らを突き飛ばすように王の居室に至ったギュランを出迎えたものはだが、ギュランには納得しがたい静謐だった。
 ギュランを召し入れたムゴルをおいて余人を排した広い室内に、放恣な姿で寝椅子に身をあずけた王は顔色さえ変えずにその報せを受けた。
 どうされるか――
 挑むように視線をあげたギュランに、王はどこか揶揄を含んで見える微笑を浮かべた。
「まず。これまで、よく仕えてくれた――といっておこう。これが、お前にとって私への最後の勤めとなる。お前の守備が潰えたとき我が治世は終わる。そして、その時機は、お前の手の内にある。ギュラン・カッサール。戻れ。配下のものが待っていよう」
「陛下――」
 ギュランは絶句した。薄く笑みを含んだ優しげな面差しのなかで暗い双眸が底知れぬ闇を湛えていた。
「陛下は――知っておられたのか――この奇襲を――何故! むざむざ――」
 息を喘がせるギュランには応えず視線を流す、王の意を受けるように寝椅子の足元に蹲っていたムゴルが立ち上がった。
 三層に戻ったギュランは自らも剣を抜く。
 何故だ――
 防御の壁を切り破って突出してきた敵兵に無残な剣をふるう、ギュランはこめる血臭のなかで、狂暴な怒りを眼前の相手に叩きつけていた。王は何故、知りながら奇襲を許した――それは、王が認めたわけではなかった、ギュランには確信だった。それはまた何者による奇襲か、王は知っている――ということではないか――
 足下に斬り落とした敵の背中に答えがあるわけもなかった、ギュランはふと我に返り凝視していた視線を上げる。膠着していた戦闘が、熄んでいた。奥から引き出され階段口に積み上げられた長椅子や大卓、大小の櫃、その俄造りの防壁に射込まれる矢音に続き、攻め上がってくる叫喚がなかった。
 防壁の間隙に見える大階段の床を被って累々と伏す死者を間に睨み合う、静寂が、あたりを押し包んでいた。
 荒い息遣いと苦痛の呻きのこめる静寂のなかに、階段下に蝟集した敵兵の中から一人の男が進み出た。
 その鎧の胸に描かれた大紋を認め、階下の動静をうかがい見ていた近衛隊士の間に驚愕の波がゆれる。
 青金の鐶に繋がれた一頭の竜――それこそは王家の紋章に他ならなかった。
「剣を捨てよ! これ以上の流血は望まぬ。
投降するものに罪は問わぬ。私は前王の第二王子トロルド・ヴォートの遺子サイート、弑逆の簒奪者より王冠を取り戻し、王統を正すために来た。城は既に落ちた。残るはお前たちだけだ。愚かな忠誠心にとらわれるな! 剣を捨てよ!」
 声は、その姿を目にできぬ後方の隊士の間にも響き渡った。息さえ凍りつかせたか、沈黙のなかに身動ぐものさえない、
 それが、どれほどの間続いたか、
 ふと息苦しさに気付いたように、つめていた息を弛める、それによって張りつめていたものが切れたか、微かなざわめきが黒衣の群れに走った。
「閣下――」
 背後から、副官が声を絞った。
 ほかに、声を発するものはなかった。痛いほどの視線がギュランに集中する。悪夢に溺れ、生気を失った顔が、そこに並んでいた。
「あくまで! あの弑逆者に殉じるか! それこそ犬死にというものだ!」
 投げ上げられる、声が迫る。
 ギュランは緩慢に防壁に歩み寄った。
「我が、忠誠は――常に、王家の上にある」
 やがて、凍りついたような空気を震わせて、太々しくうそぶいた。
「王家の――上にだと――」
 怒気を孕む声には応えず、ギュランは腰の鞘に剣を収めた。
「片付けよ」
 背後に命じる。吐息が、くゆり過ぎ、剣が収められていく。俄造りの防壁が取り払われ、遮るもののなくなった階段を、ギュランは下りていった。
「我が手に、敵の足下に投げる剣はない。だがまた、御身の言葉が真実であるなら、我が剣はすでにして御身のものだ」
「己れは――」
 眼前に片膝を落とす黒衣の指揮官に、サイートは絶句する。その面上を一瞬かすめた怒気はすぐに鷹揚な笑いにすりかわる。
「面白い奴よ。名は。何という」
「我が名は、ギュラン・カッサール。父は先王の近衛の長であったファジバ・カッサールというもの――お聞き及びか」
「ファジバ――その名、覚えがある。そうか。ファジバの倅か――よかろう。先導せよ。イリオンの頤使する猿人、奴を捕えよ。あれこそが生証人、あ奴の悪業の全てを知るものよ」

 逐われるように階下に向って去る、黒衣の羊の群れと化した近衛隊士たちを後に、麾下の兵を引き連れたサイートを四層の王の居室に導く、ギュランはふたたび階段を上っていった、その同じ時を――
 いまなお奥深い主塔の闇に埋み惑うものがあった。

 陰の塔への階段を探しあぐねたテッサの手で蝋燭が燃え尽きてから、どれほどの時がたったか、
 闇の中を、手の感触だけを頼りに壁を伝い、ひとつ、また一つと扉を開き、その奥を確かめ進むテッサの歩みが、止まった。もはや幾つ目かも知れぬ角をまがって長い壁を伝いようやくに行きついた扉だった。ひたと手のひらに吸いつく石壁がとぎれ、行手をさえぎるようになめらかな木肌がわずかな温みを返す。探り回す手に細い袋小路に入り込んだことを知る、そのつきあたりをふさぐ、それはこれまでにない小さな扉だった。
 もしや‥‥
 トクンと、テッサの胸が打つ。明かりがあったときには気付かずに行き過ぎたのか、こんな細い廊下ははじめてだった。だが、
 その扉は、開かなかった。
 硬い音を立てて帯金の上を滑る、鍵は穴に収まろうとはしなかった。なぜ‥‥狂ったように幾度も差し込もうとして虚しく鍵穴の周りを引掻く、テッサの全身を冷たい汗が濡らしていく。
 やがて、荒い息に胸を喘がせ、崩れるようにへたり込む、テッサも悟らざるをえなかった。違うのだ。この扉だけが、違う鍵なのだ。
 どうして‥‥と、惑うことさえなかった。
 ぼんやりと蹲る闇の底に、つと酷薄な嘲嗤を聞く、ここまで誘い込みながら、あの男はテッサをリューに会わせる気など、なかったのだ。決して開けることのできない鍵を、与えたのだ。
 階段はこの扉の奥に、あるんだ‥‥
 怒る気力もなかった。頭の芯を旋回する思いに呪縛されたように、テッサはただ呆然と坐り込む。
 耳に微かな足音が響いてきたとき、それはテッサの意識には届かなかった。
 不意に、視界の隅に、光がさす。
 光だ‥‥
 ぼんやりと顔を上げた、テッサは細い廊下の口に立つ影を見た。光はその頭上にかかげられた松明だった。通り過ぎて‥‥テッサの思いも虚しく、一瞬脚を止めた影は迷うことなく廊下に踏み込んでくる。しだいに大きく、力強く響いてくるその足音に和するように、テッサの胸で鼓動が弾みだす。
 隠れなくては‥‥
 でもどこに、テッサは近づいてくる光に射竦められたように動くことができなかった。
 あの男が‥‥来たのか、脈絡もなく思う。
 やがて、ゆらめき燃える松明の光のなかに、それをかかげる城兵の姿が浮かび上がる。
 ああ‥‥
 間近く迫ったその顔――テッサの口に、息が震えた。
「テッサか‥‥」
 城兵は闇を透かし見るように一瞬脚を止めた。テッサの応えは、吐息にしかならなかった。
 城兵はさらに足を速める。その姿を、テッサは食い入るように見つめる、それは、幾度、心に思い描いたか知れぬ姿だった。
 左手の松明に照らしだされた凍てたように表情のない削げたった顔に、冬の湖水のような双眸が、仰ぎ見るテッサを凝視していた。
「シェラム‥‥さま‥‥」
 城兵はそのために穿たれたのだろう壁の穴に松明をさしテッサの前に膝をつく、次の瞬間、テッサの体は男の力強い腕に抱き締められていた。





VOL7-2
− to be continued −

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