VOL7-3
「何故‥‥私を待てなかった‥‥待って‥‥くれなかった‥‥」 熱い吐息が、耳にかかる。 「シェラム様‥‥あたいを‥‥」 「アモンという‥‥酒場の楽士に逢った。わずかに数日前、お前が城に去ったと、知らされた。それほどに‥‥救けたかったか‥‥」 「リューは‥‥弟と、同じだ‥‥見捨てるなんて、できない‥‥でも‥‥」 呆然と男の背に腕を回す、テッサの頬を、流れ落ちる涙が鈍く光った。 「イクル様は死んだ‥‥あなたも、もう少しで‥‥みんな、あたいが‥‥」 「そうではない‥‥テッサ、そうではない。もう、自分を責めるな。責められるべきは、ほかにいる。だが、それも今宵限りだ。立てるか――」 促されるままに、テッサは男の身体にすがり立つ。 「こよい‥‥限り‥‥」 一瞬たりと腕を緩めようとはせずにテッサを懐に抱いたままシェラムは壁から松明をとった。 「昔‥‥子供のころ‥‥しばらくこの城で暮らしたことがあった。主の貴族が王の腹心で身近く仕えていた‥‥」 「シェラム様が ‥‥」 「父上の望みだった。私を、王の騎士にしたかったのだ‥‥私には向かなかった。じきに、逃げ帰ったが‥‥笑止だな‥‥だが、それが今になって、役に立った‥‥それ故に、私は城兵になった。王を、滅ぼしたいものはほかにもいる。それらのものを、手引きするために――」 「シェラム様‥‥」 「それも、もう果した。お前のことは、ずっと気掛かりだった。だが、一介の城兵が、奥に入るには――時を、待たねばならなかった。節日の宵を――」 その感情の失われた低いかすれ声にテッサは凍りついたように押し黙った。背に回され腕をつかんだ男の手が熱い。では、ずっと、この人は城にいたのだ‥‥ エゴウに抱かれ体を開き、その精を注がれていた幾夜を、 この人は知っている‥‥ 突然こみあげてきた熱塊に胸を灼かれ、テッサは身を強ばらせた。 「どうした‥‥」 突っ立ったまま、促す腕に抗って動こうとはしない娘に、男は戸惑い立つ。 「テッサ――」 「あたいは、リューのところへ‥‥行かなくては‥‥この扉さえ開けば、階段が――」 「無理だ。剣では破れぬ。大槌がいる。それに、いま上にいけば戦闘に巻き込まれるだけだ。ともかく、ここを出るのだ――」 「戦闘‥‥」 弾かれたように身を捩る、テッサは揺らぐ光に浮かぶ削げたった顔を見上げた。 「生きているなら、必ず、お前のもとに連れていく。今度こそ――待っていてくれ」 双眸に思い詰めた光を凝らせる、テッサはうなずこうとはしなかった。その眦に、涙が大きく盛り上がっていく。 「テッサ――」 青ざめた頬を転がり落ちていく涙をぬぐおうと手を上げた、シェラムの胸にすがりつき、テッサは声を絞っていた。 「あたいを、連れていって――待たせないで――」 「テッサ――頼む――」 「怖い‥‥ただ、待っているなんて――いやだ! お願いです――」 必死に見上げる面差しを暗澹と見つめる、シェラムはやがて、小さく吐息した。 「いずれにせよ‥‥ここからは、行けぬ――」 「シェラム様――」 「階段は、ほかにもある。入口は二層だ――」 「ああ‥‥」 テッサは男の胸に顔を埋めた。 闇に、二つの足音が吸われていく。 ゆれる炎は一体になった影を照らし出していた。 肩に回した腕で、男はきつくテッサを引き寄せる。息苦しかった。その息苦しさが不思議な心地よさでテッサを酔わせる、いま、周囲を閉ざす闇が重くなかった。 やがて、鈍い光を弾いて階段が浮かび上る。 これほどに、闇を巡るこの歩廊は短かったろうか‥‥上りつめた踊場に松明を捨て、シェラムが重い扉を押し開けた。広場の雪がまばゆく目を射る。内郭にきたとき城壁の下に見ることのできなかった月は真上にあり、降りそそぐ光は皓々と地上の雪に弾け散っていた。 「後ろに、離れぬように、ついてくるのだ」 先に立つ男に続きながら見渡す、無人だった広場は、いま無数の影が行き交っていた。 主塔の東壁に沿うゆるやかな斜路をのぼりつめ、角の塔をまわったシェラムは、遅れまいと脚を急がせるテッサを背に、正面に張り出した大階段にむかう。 大階段の上は広い露台になっていた。 露台の正面、二層の高さに及ぶ大扉は左右に開かれ、朱と金の戦袍をまとった兵士が固めている。武器を奪われた侍臣や近衛隊士が長い列をつくりその中を追い立てられていく、その人群れに向かって怖れげもなく階段を上っていくシェラムを追う、テッサを、鋭い声が竦ませた。 「見ろ! 外郭守備兵だ!」 「止まれ! どこへ行く! どうやって内郭まで紛れ込んだ!」 数人の兵士が槍を構え、行手を遮る。脚を止めず、シェラムはただ凍てた視線を向けた。 「紛れ込んだと! わたしを知らぬとは、誰の配下だ――」 静かな、だが怒声にまさる冷気を孕んだ声が威圧する。槍を見ようともせずに前に出る声の主に、気圧され、兵士たちが下がった。頭越しに、弓弦を弾くように声が飛んだ。 「お前か、シェラム。何処に消えていた。その娘は何だ――」 「閣下――」 兵士の一人が救われたように見返る。精気を孕んだ声以外は際立ったところのない、初老の騎士がそこにいた。 「三層は落ちたか‥‥」 「腑甲斐ないほどの呆気なさよ」 手を振って槍を退かせた騎士は目顔でシェラムを促し、踵を返す。 「殿下が、お召しだ」 無言で騎士に続く、背に、 では、あれが‥‥ ラグベン様の手下だったか――兵士たちがささやき交わす、その好奇の視線のなかをテッサはシェラムを追って主塔に駆け入った。 無数の松明に照らしだされた広大な広間がそこにあった。 灯火の届かぬ頭上には闇がわだかまる。朱と金の一隊が正面入口から外へと追い立てていく、広間の半ばを埋める虚脱したような黒衣の群れの傍らを、三人は足早に奥に向かった。 玄関大広間から奥の間へ、開け放たれた扉の先には人影もなく、正面に大階段がひっそりと闇に浮かび上がっていた。 階上へと列なる灯火に導かれ大階段を上る、二層の階段室で、シェラムが脚を止める。 「殿下が――この身に、何用だ――」 騎士は、三層に向いかけた半身を返す。 「王が寝室に立てこもった。殿下は、業を煮やしている」 「何故――打ち破らぬ、扉一枚だ」 「あの扉をか、大事になろうよ。この城そっくり、無傷で手に入れたい、お前を用いたのもそれが故だ。シェラム。主塔には、隠された通廊があるという――」 「無駄だ――知らぬ」 シェラムの否定は言下に過ぎたか、サイートの懐刀といわれた、騎士――ラグベンは、薄く、嗤った。 「そうかな――扉一枚――破らねば、殿下の治世は始まらぬか――」 頭上を仰ぐ、その顔の上に壁の松明がとらえ所のない影を揺らす。 「知らぬなら、自身、殿下に言うがよかろう」 踵を返し上階へ向いかけて、動こうとしないシェラムを肩越しに見返す。 「来ぬか――」 シェラムは応えなかった。 騎士はやがて片頬を歪めた。 「一つ、忠告してやろう。たしかにお前の功は疎かにできぬ。お前がいなければこれほど容易に城は落ちなかった。だがな――殿下は物好みのお方よ。この先お仕えする気なら、心することよ」 「この先――王家に仕えようとは、思っていない――」 一瞬、押し黙った騎士が吐息する。 「――そうか」 揶揄を絡めた視線でテッサを一瞥し、踵を返した。 「早くすませろ。たとえ、仕える気がなくとも、今は――口にはするな――」 見当違いの寛容さを見せて去る騎士の背を、シェラムは凝然と見送る。 足音は階上に消えた。 「シェラム様‥‥」 背に寄添い立つテッサの声に振り返る。怯えをひそめた黒褐色の双眸がすがるように見上げていた。 「行こう――」 微かに震える娘の手をつかみ、階段横の通廊を奥に向かう。そこに、隠された小さな扉があった。 VOL7-3 − to be continued − |