VOL7-4





 行止りになった壁の一画に探るように滑らせていたシェラムの手が止まり、重い軋みを上げて羽目板が開く。微かな吐息をもらし、中に踏込む、シェラムはテッサを脇に引き寄せ、羽目板に偽した扉を閉ざした。
 濃密な、闇だった。
 思わず男の胴着を握り締める、テッサは背を押す腕のままに歩きだす。
 男はどれほども行かぬうちに、止まった。
「階段だ――」
 声が落ちる。探り進める足先にそれを確かめたテッサの口に安堵の息がゆらぐ。
 やっと‥‥リューのもとに行けるのだ。

 湿りを帯びた足音、息遣いが、盲いたような闇を満たす、螺旋階段は無限の連なりにゆるやかに旋回していた。
 いつかテッサのうちに期待が、そしてそれ以上の不安がふくれあがる。リューは、まだ無事か、いまどうしているのかと‥‥
 思わず喘ぐテッサを、腕がきつく引き寄せる。触れ合った体に微かな戦きが伝わる。
「シェラム様‥‥」
 小さな驚きが口を衝く。応えは、返らなかった。沈黙のなかにこもる、男はただ刻むように足を運び続けた。
 踊場のない階段を、とぎれなく、ただひたすら上り続けるなかで、やがて思いさえが凝る。
 いつか次の一歩を踏みだすことに埋没していた、テッサは不意に空を踏み、よろめいた。
 階段は、終わっていた。
 まさぐるような足取りで闇をたどる、男が止まり、気配が向き直る。
「ここで――呼ぶまで、待っていてくれ」
 両手が肩をつかみ、潜めた声がささやく。
 息を呑み、闇に目を見開いたときにはテッサは押し離され、背にあたる壁に押さえつけられていた。
 あ――と、声を上げるまもなく、男の手は離れ、気配が去る。
 その気配を追う、双眸を射て、闇に光がさした。
 目を瞑り顔を伏せる、テッサがふたたび視線を上げたとき、男は、いなかった。
 そこに、うすく開かれた扉があった。
 なれてしまえば差し込む光は弱々しい。鈍く照らしだされた壁の縁を前に、テッサは闇のなかにとり残されていた。
 壁にもたれたまま、祈るような眼差で細い光を見つめていた、テッサは、ふと湧いた思いに、あおられたように身を起す。なぜ‥‥何も聞こえてこない。
 扉の向こうから呼ぶ声は、なかった。
 何の物音も聞こえてはこない。足音さえも、絶えて、なかった。
 シンと、息詰まるような静寂の重さに、喘ぐ、その一瞬、男の制止を忘れた。
 シェラム様‥‥
 不意に膨れ上がった不安に押し流されるように前に出ていた。
 わずかに開いた扉の隙間をすりぬける、だが、そこにシェラムの姿を見出すことはできなかった。巨大な何かが眼前に立ちふさがり、視界をさえぎっていた。その右脇に、弧をなした壁の奥にまばゆい光を放って二基の壁灯が炎える。
 見えぬシェラムの姿を求めてめぐらす視線の先に、仄白く横たわるものがあった。
 リュー―― 
 声にならない叫びを上げ、震える足を踏み出す。数歩を歩いたとき、
「テッサ――」
 擦れ上ずった声に耳を打たれ、振り向く、そこに、驚愕し、寒気立った顔があった。
 その顔を被い隠すようにふわりと暗い影が落ちかかる。
「シェラム様――」
 白光が走り、シェラムの腕が空を薙ぐ。テッサの悲鳴は激しく鳴響く剣の音に断切られた。
 それは夢のなかのようにゆるやかに、
 痛いほどの鮮明さで目に焼付く。
 先ほど眼前をふさいでいた巨大な影は、潜んでいた通廊の口を塞いで蹲る、闇が凝固したかのような漆黒の像だった。
 その陰から出たテッサの視界に、覆われていたものが姿を現わす。
 眠っているかのように横たわるリュール、暗い褥に被われた石壇、その前面、漆黒の床に広がりさわさわとうねる黒銀の煌めきのなかに、胎児のように身をまるめた仄青い影を孕み、脈打つ、燐光の繭、シェラム、そして――
 シェラムの頭上に落ちかかる影と見えた、それは人のものとは思えぬ長く太い腕だった。その猿臂に振り下ろされる山刀ほどもある大振の短剣がゆるやかな弧をえがく。
 頭一つ低い短躯でありながら、分厚い胸、盛り上がった肩ははるかにシェラムを凌ぐ、魁偉な上体からくりだされる流れるような攻撃にテッサは凍りついた。

 闇の通廊から広間に、つけ放たれたままの壁灯の下に進み出たシェラムはかつて一度目にした仄青い光の前に脚を止めた。
 竜人‥‥
 城の奥処には密かに城外に抜ける通路があるのではなかったか――すでに落ち延びたであろう王ともども、もはや手のとどかぬところに連れ去られたのではないかと危惧した、このものが、今なおここにいる‥‥めぐらせる視線の先に横たわる小さな姿が、あった。
 そして、
 何の気配もないと思われた広間の、奥の闇にゆらぐ影に頭の芯を灼かれ、立ち竦む。心密かに恐れ続けていた怪異な影――突然現れた城兵の姿に驚愕の色も見せず立ち、腰の短剣を引き抜くムゴルの姿に、いつ抜き合わせたか、意識はなかった。ただ、ようやくねじ伏せたと思った戦慄が全身を絡み上がる。
 一瞬の恐慌を解いたのはテッサの出現だった。頭上を襲う短剣を辛うじて受け止めたシェラムの剣は、だが鋭い音とともに斬り飛ばされていた。煌めく弧を引き床に弾ける。
 凄まじいまでの膂力だった。
 渾身の力で跳び退ったシェラムの顔が絶望に歪む。
「逃げろ――」
 だが、テッサは動けなかった。
 凍りついたテッサの視界に、白光がひるがえる。受け止めるシェラムの手から折れ残った剣がたたき落とされた。
 わずかに逸れた短剣が肩口を割りシェラムは崩れるように床に倒れた。

 密かに王とともに落ち延びたであろうと思われていたムゴルは、突然現れた城兵の姿に驚愕の息を詰める。思いとは別に体は動いていた。声もなく立ち、腰の短剣を引き抜く。この、闇の広間は王と己れ以外の何人も立入ってはならぬ場所だった。驚愕は冷めた怒りに変わり、白光となって、城兵のうえに落ちかかる。
「やめて――」
 三度、短剣が弧をえがき、テッサの口に悲鳴が弾けた、刹那――
「やめておけ、ムゴル――」
 静かな声が、制した。
「――いまさら、殺してもはじまらぬ」





VOL7-4
− to be continued −

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