帯の紐を緩めると、自然と溜め息が出た。
それを見た練師さまは苦笑するけれど・・・今日は、仕方ないと思うんだ。
『 衣装 』を脱いで、いつも着ている服に着替えた。
陸家へ連れて来られた時は、その服でさえ窮屈だったのに( 慣れって恐ろしい・・・ )
髪を下ろして梳いていると、練師さまが話しかけてきた。


「 さま、今日は素晴らしかったですわ。孫権さまも大層お褒めでした 」
「 そんな・・・練師さまが教えて下さったから・・・ 」
「 いいえ、私がお教えしたのは、ほんの一部のこと。内面は、さま自身でないと磨けませんわ。
  それに武将たちの、あの表情!うふふ!みなも、陸遜さまも目を瞠るほど驚いていましたわね!
  彼等にあんな顔をさせられるなら、嫁ぎ先でも心配ありませんわ 」
「 ・・・・・・・・・・・・ 」


孫権さまは、私を認めて下さった。それは・・・近いうちに、蜀へと嫁ぐということだ。
ここで生まれ育った『  』という殻を脱いで『 伯言の従妹 』の殻を着て・・・一生を送るのだ。




「 ( 伯言は、この結果に満足してるのかな・・・ ) 」




視線が合った時は、とても驚いた顔をしていた。見惚れているようにも、見えた。
・・・私だって、わかってるはずなのに。どうして、あんな・・・知らない人を見る目、したの?


知らず知らずのうちに、俯いてしまっていたらしい。
衣装の入った行李を締めて、練師さまは動かない私の頬に手を添えて持ち上げた。


「 どうしてそんなに、悲しそうな顔をなさっているんですか・・・さま 」
「 ・・・・・・え、 」


悲しそうな、顔・・・?
意味がわからず、戸惑っていると、練師さまは小さく溜め息をついて微笑んだ。


「 ・・・今夜は、陸遜さまとお帰りになりなさい。
  送って差し上げたいのは山々ですが、私も用事がありますので 」
「 あ、は、はい 」
「 陸遜さまは執務室に居るはずです。部屋への案内は、女官を付けましょう 」
「 ありがとう・・・ございます。御前、失礼致します 」


拱手して辞す。練師さまが微笑んだまま、手を振って立っていた。
女官に促されるようにして、私は、伯言の執務室へと向かった。
















執務室は簡素極まりなかった。
余計なものは一層排除する、というか( でも、笑えるくらい・・・真面目な彼らしい )
伯言は見当たらなかったが、席を外しているだけかもしれない。
練師さま付きの女官さんにお礼を言って、私は部屋に入った。


月明かりしかない部屋は静かで、逆に居心地が好い。
中央にある大きな机・・・よく見ると、墨の跡がある。普段はここで仕事をしているのだろう。


「 よっと・・・ 」


ぽすん、と椅子に座る。ふかふかのそれに腰を埋めると、身体の力が抜け出るのがわかった。


「 ( ・・・私、変なのかも ) 」


広い机に頬杖ついて、いつも彼が見ている景色を、私も見ている。
何で・・・それだけで、頬が緩むんだろう・・・。自分の頬を掴んで、引っ張る。


・・・だめだよ、こんなんじゃ。本当は、憎んで当然の相手なんだぞ。


だけど、何なのッ!今日のあの顔!!何度思い出しても、腹立つ。
・・・彼は本当に、ちゃんと『 私 』だって気づいてたのかしら。
驚いている、というより、ただ唖然としてだだけ。ぼーっとしちゃって、全然私のこと、見てなかった。
・・・伯言のために、私、着飾ったのに。彼に見て欲しくて。彼に、あっと言わせてやりたくて。
『 道具 』なんかじゃない・・・私は、『  』は此処にいるんですって、教えたくって・・・。


「 ( ハァ・・・でも、今日の様子じゃ、無理かもなあ・・・ ) 」




これじゃ・・・何だか私一人、彼を『 意識 』しちゃってるみたいじゃない。




こんな人生になったのは、伯言のせいだって・・・腹が立っているのに。ううん、立っていた、のに。
頬杖をついて、乾いた墨の線をなぞる。
右手の人差し指が、少しだけ灰色になるが、別の指で擦れば落ちていく。


「 でも、もう憎むのは・・・疲れちゃった 」






・・・私の『 想い 』も、この汚れと一緒。
憎しみも怒りも、悲しみも、時間が過ぎれば薄れていく。






だって、私は自分でこの道を選んだ。
伯言の、せいなんかじゃない。伯言は、きっかけにすぎない。
普通に出会っていれば・・・また違った関係が、築けたかもしれないじゃない。
連れて来られた時は、とにかく怖かった。自分とは違う『 人種 』だって、分かり合えないって思った。
だけど・・・助けられた時、謝られた時、伯言は優しかった。
作戦を成功させることが、彼の役目であるから・・・本当は、真面目な人なんじゃないかって・・・。
私は練師さまに懐いているから、彼女の信用する人を、私も信用したい。
伯言は、第一印象ほど悪い人なんじゃないって、信じたい・・・。




端正な顔立ちが浮かべる、美しい微笑みを思い出して・・・ふと、頬の熱が上がったことに気づいた。




これ以上は、あまり考えたくない気がする・・・と本能的に放棄すると、瞼がだんだん重くなってきた。
そうだよね、私、今日は随分慣れないことをしたんだもの・・・。
彼が執務室に戻ってくる、ほんのちょっとの間、だけ。ちょっとだけなら・・・いい、よ、ね・・・。


無事に『 従妹殿 』を演じたんだもの。伯言だって、怒らない、はず・・・。








眠りに落ちるのに、時間はかからなかった。
机の上に突っ伏して、そのまま柔らかな世界に意識を預ける、だけ・・・。








「 ( ・・・・・・・・・あ・・・ ) 」








ふわり、と身体が浮くのがわかった。


誰かに・・・抱きかかえられている?
瞳を開いて確かめたかったけれど、重い瞼はもう持ち上がらなかった。


・・・あ、そういえば、昔・・・お父さんが、暖炉傍で眠った私を、よくこうして寝かせてくれたっけ。
そっと、牀榻に横たわるような感覚。少しの冷気を含んだ夜具に身体を震わせれば、 背中が急に温かくなった。肌越しに伝わる熱が、より深い眠りを誘う。




「 ・・・ 」




男の人の、声。やっぱりお父さんなの、かも・・・。
『  』は近いうちに、お父さんの『 娘 』じゃなくなっちゃうから・・・。
天国から、逢いに来てくれたのかな。




「 ・・・おとう、さ・・・ん・・・ 」




こんな人生を歩ませる為に、大切に育てもらったんじゃないとしても。
あのね、私、きっとどこにいても幸せになってみせるから。だからお願い、見守っていて。
私の選んだ道を・・・どうか、信じて。


そんな私の頭をそっと撫でる大きな、お父さんの掌。
優しく、抱き締められた時・・・まるで許してくれたように、思えたんだ。
それにほっと安心して、眠りの淵にかけていた手を離す。自分の世界が閉じていくのがわかった。








その夜は・・・幼い頃、私を愛しそうに抱き締めてくれた、両親の夢を見た。


幸せで幸せで・・・甘く、儚い幸福に酔って、背中に回った腕にしがみついて眠った。







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