練師、と私を呼ぶ声。低く、落ち着いた、愛する人の声に、振り返る。






「 はい、いかがいたしました?仲謀さま 」
「 今から、陸家へ行くのだろう?なら、これを持って行くが良い 」
「 ・・・これは? 」
「 陸遜が、に食べさせたいと言っていた菓子だ。ようやく手に入ったのでな 」
「 まあ・・・ありがとうございます。喜びますわ、きっと 」


私の様子に、仲謀さまは満足げに頷く。
執務の合間なので戻るが、二人によろしく伝えてくれ・・・と去っていく彼を見送って。


軽装に着替えると、陸家に向かって、今日も馬を走らせた。
















「 もちろん人によっての好みもありますが、こうした場合には・・・・・・さま? 」
「 ・・・・・・・・・ 」
「 さま! 」
「 ・・・・・・え、あ、はいっ!! 」


溜め息を吐いて彼女を見つめれば、視線を外すように俯いて、すみません・・・という声が聞こえた。
・・・最近、彼女はいつもこんな調子なのだ。
陸遜さまが連れて来た、というこの少女は、私の教えを瞬く間に吸収し、成長していった。
それを目の当たりにするのが楽しみで・・・つい、私も自分の中にある『 知識 』を全て教える 心積もりで、さまを教育してたのだけれど・・・。
いつからか、こうして上の空になる時が増えたのだ。


「 ( どうしてなのかは、わかりませんけれど・・・ ) 」


今までこんな彼女を見たことがないから、自分自身も戸惑ってしまう。
一緒に過ごす時間は、ここ数ヶ月だけとはいえ・・・妹のように思っている。
ましてや、自分が付き慕ってきた尚香さまと同じように、蜀へと嫁ぐ運命を持つ娘。
自分にとって、彼女はただの教え子ではなかった。出来るだけ、力になって差し上げたいと思う。


彼女との間の張り詰めた空気を解くように。
ふ、と少し口元を緩めて、私は背後に置いていた包みを取り出して、卓の上で広げた。


「 仲謀さまから、ですわ。折角ですし、一度休憩いたしましょうか 」
「 ・・・はい! 」


申し訳なさそうに、それでも目一杯明るく振舞って、彼女は控えていた女官にお茶の支度を頼む。
素直で健気で、強さと柔軟性を持ち合わせたさまに、一体何かあったのだろうか・・・。


・・・そういえば、彼女の『 変化 』と共に、もうひとつ『 疑問 』があるのだ。


間もなくして、扉を叩く音がする。
女官だろう、と思い、彼女が入り口の扉に駆け寄れば・・・お茶を持って現れたのは、陸遜さまだった。
さまも驚いて、しばらく言葉が出ないようだった。


「 おや、どうしたのですか。そんなに驚かなくても 」
「 は・・・伯言っ!?どうして・・・ 」
「 今日は早く仕事が終わったので、ご機嫌を伺いに参上したのですよ 」
「 ・・・はあ・・・ソウデスカ・・・ 」
「 相変わらず、口が開いたままになっていますね・・・ふふっ、いっそ塞いで差し上げましょうか 」
「 けっ、結構です!! 」
「 そうですか、それは残念ですね 」


顔を真っ赤にしたさまが、身体を戦慄かせている。
陶磁器製の茶器を運ぶ陸遜さまに、手を出せなくて、やきもきしているのだろう・・・。
軽口を叩いて入ってきた彼は、奥にいた私の姿を見つけて、拱手する。
そして、卓の上に並べようとしていた包みの中身を見つけて、瞳を輝かせた。


「 桃饅頭!!これは、もしや孫権さまからではございませんか!? 」
「 ええ・・・そういえば、陸遜さまがさまに召し上がって欲しいと望まれたとか 」
「 はい!先日、孫権さまにお招きいただいた茶会で頂いた時、非常に美味しかったので・・・ 」
「 え、何、伯言が私の為に、孫権さまにお願いしてくれたお饅頭なの!? 」
「 そうですよ。だから、よーく味わって召し上がること。いいですね? 」
「 ・・・押し付けがましい。っていうか、何でそんなに上目線なのよ 」
「 頬張っておいて、そんな台詞を言われても全然説得力ないですよ、 」


とぽぽぽ・・・と茶器にお茶を注ぐ陸遜さまに、食って掛かろうとしたさまが固まる。
途端に、苦しそうにむせた彼女の背中を、陸遜さまが苦笑しながらそっと撫でてやる。
ほらほら、そんなに慌てて食べるからです・・・と、湯呑みを渡して涙目の彼女を見つめていた。
背中を丸めて咳き込んでいたさまも、ぐったりとなって疲れた身体を陸遜さまに預けた。




寄り添う恋人同士のような光景に・・・私は、言葉を失ってしまう。




「 ( ついこの間までは、お互いの『 領域 』に踏み込むことすら止まっていた様子でしたのに ) 」


ここひと月ほど・・・二人の間に、何があったのだろうか。
きっかけになった日は解っている。彼女が姿を消し、陸遜さまが彼女を迎えに行った。
恐らく、そこで何かがあったのだろうけれど・・・驚くほど、二人の関係は縮まっていった。
問えば『 友達 』になったのだと言うが、端から見ればそれ以上に見える瞬間もある。
仲が良いのはいいことだ、という言葉では、片付けれないような・・・胸騒ぎを覚える。


「 ( 二人の中で、まだそれは『 形 』にになっていないだけなのかもしれないわ・・・ ) 」


特に、さまの中では。陸遜さまの方が、恐らく先にご自分の気持ちに気づいている。
けれど彼は・・・この後、さまの身に『 起こること 』を全てご存知のはずなのに。


ようやく得たものも、自分自身の手で、壊してしまうことになる、ということを・・・。


それでも、境界線から踏み出すことを選んだのは、彼自身。
両手を広げ警戒を解いて、剥き出しの自分には、もう壁などないのだと示してみせる。
( だからこそ、彼は宮中では見せないような、年齢相応の顔になっている・・・ )








全ては・・・さまに、愛して欲しいが為・・・。










かたん、と茶器を卓の上に置いて、姿勢を正した。
物言わぬ何かを感じたさまが、口の中にあったものをお茶で流し込んで、私を真っ直ぐ見つめた。


「 それでは、さまに・・・最後の課題ですわ 」
「 はい 」
「 これからは・・・陸遜さまを『 夫 』だと思い、日々をお過ごしくださいませ 」
「 ・・・伯言を、ですか? 」
「 ええ。妻として、屋敷の主として、学ぶこともあるでしょう。陸遜さまも・・・よろしいですわね 」
「 ・・・かしこまりました 」


ふと、お互い視線を交わす二人。
不安げなさまを受け止めて、陸遜さまがにこ、と安心させるように微笑んでみせる。
自分の『 心配 』に輪をかけることは、理解している。けれど『 教育係 』としては、これが最後。


この課題を見事にこなせば・・・その先に待っている未来は、二人を地獄に落とすものだとしても。
















窓辺に立っていた私に、練師、と呼ばれる。


彼の姿を認めて、その胸に飛び込めば・・・仲謀さまが驚いたように、抱き締め返してくれた。
背中にあてた大きな手が、私を包み込む。この手が、私の全て。もう、離れることなどできない・・・。


「 ( ・・・そして、彼らも・・・お互いの温もりを、知ってしまった ) 」


温度と共に伝わる安心感、人と寄り添う、幸せ。これが平和な世なら、喜ばしいことなのに。
涙する私を心配するような、仲謀さまの声が頭上から降って来た。


「 どうしたのだ、練師・・・ 」
「 仲謀さま・・・私は、彼らに酷い課題を与えてしまったのかもしれません 」




さまも陸遜さまも、私にとっては大切な人なのに・・・。
それでも、呉の為だから、と・・・弱い私は、瞳を瞑ることしか出来ない・・・。




静かな夜の帳の中で抱き合った私たちを、夏の夜風が包み込んでいった。







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