この山の向こうに・・・の嫁ぐ、蜀がある。
そう思えば、ふと物寂しい気分になった。何ともいえない寂寥感が、胸を襲う。
つ、と引っ張られた袖の先を見れば、彼女が大きな瞳で私を見上げていた。
・・・彼女の、こういうところは褒めてあげたい。
いくら仮面を被って隠していても、私の気持ちを誰よりも敏感に察する。
自分の頬が、緩んだのがわかった。どうしたのですか?と尋ねれば、首を振る。
それだけで、とても愛らしく思えて・・・。
が、本当に私の『 妻 』なら・・・口づけのひとつでも、贈ってやりたいところだった。
彼女と打ち解けてから『 変わっていく 』というより『 染まっていく 』のだ・・・自分が。
そのままそっくり、彼女の『 色 』に塗り替えられていく。
変化に戸惑いながら・・・あるがままを、受け入れていくのは勇気が要ったが『 』を
受け入れているのだと思えば、自然と納得できた。
全幅の信頼を篭めて・・・『 伯言 』と呼んでくれる、の声が、笑顔が、いとおしかった。
陸家の長となってから、誰にも見せたことのなかった『 素 』の自分を、彼女の前でだけ曝け出して。
いつまでも、このまま・・・番いの鳥のように寄り添って生きていけたら、どんなに良いだろうと・・・。
・・・そんなことまで、時折考えてしまう。
「 ( 今の関係は、仮初の『 夫婦 』に過ぎないのに・・・ ) 」
練師さまは、何て残酷な課題を出されたのでしょう・・・。
もうを・・・『 友達 』などと呼べないくらいに、私は・・・・・・。
「 ・・・・・・ん、・・・伯言? 」
「 ・・・・・・? 」
「 大丈夫?少し、うなされていたみたい 」
「 そ・・・そうでしたか?え、私は・・・眠っていたのですか? 」
こくんとひとつ、彼女は頷く。それを見て、まさか・・・という気持ちで、呆けていた頭を軽く振った。
本当は眠る気など、なかったのですが・・・どうも彼女の周囲は、心地よ過ぎる。
ゆっくりと身体を起こすと、が水筒を差し出した。栓を開けて喉に流し込めば、思わず吐息が出る。
身体の奥まで、浸透していくようなこの感じ・・・自分でも驚くくらい、喉が渇いていたようだ。
これは・・・彼女の言うとおり、随分とうなされていたようですね。
苦笑が零れそうになったのをそっと拭って、お礼と共に水筒を返した。
「 落ち着いた? 」
「 ええ・・・独りにしてしまって、すみません 」
「 ううん、ここは本当に気持ちの良い場所ね・・・伯言が寝ちゃうのも、わかる 」
と、空気を吸い込むように瞳を瞑って、空を見上げる。
その顔には微笑みが浮かんでいて・・・私は、目を細める。
・・・最近、日を追うごとに元気がなくなっていると、練師さまから聞いた時は、驚きましたけれど。
( あの方は、本当によく彼女を『 見て 』くださっている・・・ )
笑顔になったということは・・・少し、気分を良くしてくれたのでしょうか。
「 ( それでこそ、無理矢理、仕事を終わらせてきた甲斐がありました ) 」
落ち込んでいるなんて、らしくないですよ?と発破をかけるのもいいですけれど。
彼女には・・・もっともっと、笑っていてほしいから。
「 、少し歩きましょうか 」
「 そうだね!折角だから、奥まで行ってみたいな。森の中も散策したい 」
「 では馬を連れてきますので、待っていてください 」
「 うん・・・あ、水筒のお水、入れ替えてきたいから、ここに馬を連れてきてくれる?
さっきから水の音がするから、きっとこの近くに水場があるんだと思う。私、探してくるっ! 」
「 え、ちょっと・・・!?一人では危ないですよ!? 」
「 大丈夫、大丈夫!すぐ戻るからー!! 」
身軽な様子で立ち上がると、彼女はそのまま駆け出した。
小さな背中は、あっという間に緑の奥へと消えていき、私は伸ばしかけていた手を、握り締めた。
すぐに伸ばせば捕まえられる距離にいたのに、気がつけば私の腕をすり抜けていく・・・。
そして、いつか・・・本当に、手を伸ばしても、貴女を捕まえられない日がやってくる。
知れば知るほど、受け入れれば、受け入れた分だけ・・・手放しがたい存在。
でも、彼女を手に入れるのは、私ではない。そう仕向けたのは、自分自身だというのに・・・。
胸を締め付ける、この想いが何なのか・・・本当はとうに答えが出ている。
だけど、それを認めたら、私は『 私 』でなくなる。
陸家の当主で、呉の軍師で、今回の作戦指揮を執っている『 陸遜 』ではなくなってしまう。
・・・それだけは、避けなければ。
服の上から、これ以上暴れないように胸を押さえる。
今の想いを『 言葉 』になどしないよう、もう片方の手で口元を押さえた。
「 ・・・・・・・・・馬、を 」
ようやく別の『 言葉 』紡ぐことで、ようやく溜飲を下げる。
重たい腰を上げて、離れた場所に繋いである愛馬の元へと足を運ぼうとする。
若干、身体が傾くが、歩いているうちに足取りもしっかりとしてきた。
今は、何も考えず・・・自分の任務を果たさなければ。
「 ( そして・・・本当の、本当の最後の『 任務 』を・・・ ) 」
ようやく、自分に向けてくれるようになった、の微笑み。
その信頼の証を・・・自ら手折ることになるのだと思うと、掲げていた信念も折れてしまいそうだ。
彼女を泣かせたくなど、ないのに。あの脅えたような瞳など、二度と見たくなかったのに。
胸中に秘めた『 その時 』のことを考えると・・・私は、息が詰まる思いだった。
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