とうとう・・・『 その日 』がやってきた。






孫権さまに呼び出され、聞かされたその『 命令 』に、背筋が震えた。
彼の隣にいた練師さまは、始終俯いたままだった・・・私の顔を、見なくて済むように・・・。
見れば、何か労わりの言葉でもかけなければならないから、と思ったのかもしれない。
・・・お気になど、なさらずともよいのに。だって、私はこの時が来るのを解っていたのだから。






の心を・・・あの優しい笑顔を壊す、最後の試練を。






「 おかえりなさい、伯言 」


ぱたぱたと小さな足音がして、出迎えのが走ってきた。
馬を屋敷の者に預けて、私は笑顔を・・・作る。


「 ・・・ただいま帰りました、 」
「 お疲れ様。あ、夕餉はもう済ませた?温かいの、用意できるよ 」
「 いえ・・・ちょっと、食欲がないもので・・・ 」


す、と手を上げれば、周囲の侍女たちが一斉に下がる。衣擦れの音がして、最後に扉が閉まる。
平気・・・?と心配そうな、彼女の声。ひとつ頷いて見せて、帯を解いた。
いつものように、が夜着を構えて、私が脱ぐのを待っている・・・。
これからのことを考えると・・・勇気が、要った。帯を解く指が、僅かに震えている。
瞳を閉じて、今さっき見たばかりの、彼女の『 笑顔 』を思い出す。


・・・大丈夫。思い出せるから。
これから見れなくなっても・・・もう二度と見ることがなくとも、私は、大丈夫。


ぱさ・・・と、静かに最後の一枚が落ちる。すぐにが、肩に夜着をかけた。
落ちた衣装を拾おうと、肩から離れようとした手を捕まえる。彼女が、とても驚いた表情をしていた。
その顔を両手で固定して、彼女の身体ごと、引き寄せる。


「 ・・・ん、んんッ!! 」


眉間に大きく皺を寄せて、苦しそうに身をよがった。
呼吸できるように、わざと唇をずらしてやる。息が出来るようになれば、落ち着いてきたのか・・・。
の身体が少しずつ解れていく。必死についてこようとするのが、健気だった。
ちゅる、と強めに吸い付いてから、唇を離す。
蕩けそうな瞳で、顔を朱に染めたが吐息をついて・・・私を見上げる・・・。


「 ・・・・・・は、く 」
「 貴女に聞きたいことが、2つあります 」


え・・・?と言いたげな、彼女の瞳。


「 ・・・貴女は、生娘ですか? 」


ただでさえ真っ赤になっていたのに、更に深い赤に染まった。
唐突な質問に動揺しつつも、彼女は間を置いてから、こくんとひとつ頷いた。
それを確認し、私は逸るように質問を重ねる。






「 ・・・私を、愛していますか? 」






俯いていたが、はっと顔を上げる。大きな瞳が、蝋燭の光を映してゆらゆらと揺れていた。
見つめ合う彼女の唇が、数度、何か言いたげに開く。
そして思い止まるように瞬きをし、音は言葉にならず、その度に唇をかみ締めた。
大した時間ではないのに・・・私は随分長い間、彼女の答えを待っていたような気がする。
思案の末、ようやく出た彼女の『 答え 』は、やはり期待を裏切らない、らしい言い分だった。






「 伯言、は・・・と、もだ、ち・・・でしょ・・・? 」






今度固まったのは、自分の方だった。想定していたのに、実際言われるとこんなにも・・・辛い。
彼女の純真な視線を受け止めるのに耐え切れなくて、瞳を瞑る。
動揺を出さないようにするのが、今、私に出来る精一杯のこと・・・。
( 私自身の感情を悟られてしまっては、その『 命令 』を実行できなくなってしまうだろう )
不安定な感情を押し込めて、閉じていた瞳を開けた私は、ようやく彼女を真正面から見つめる。


・・・ほんの数刻前、私を出迎えてくれた時にはこんな不安げな顔はしていなかった。
次に、私に何を言われるのか、は身構えるようにして待っている。
こんな状況は嘘だと、冗談だと言って欲しいと、瞳が訴えている。
( 私だって・・・そう言えたら、どんなに・・・ )


だが、は『 愛されて 』もらわないと、困るのだ。
夫になる趙雲殿を、彼女自身が愛せなかったとしても・・・まぐわう必要がある。
彼女の恋愛対象でない人物の手でも、快楽を受け入れ、与えられるか確かめなければならなかった。






趙雲殿を『 満足 』させ、呉への警戒を蜀の内側から緩めさせること。


それが、が呉の花嫁としての嫁ぐことの・・・最終目的なのだから。






「 ・・・、 」


孫権さまは・・・直前になって、私から役目を外そうとした。
彼女に慣れ親しんだ私に、この役目は辛いだろうと。
・・・けれど。譲ってなるものか、と敢えてこの役目を引き受けたのは私自身。
誰にも触れさせたくない、触れて欲しくない。趙雲殿にでさえ、本当は・・・嫉妬している。




私の・・・心より愛しき『 妻 』に、自分以外の誰が触れさせてなるものか、と。




「 此処に小瓶があります。それをお飲みなさい。その方が、貴女も辛さが薄れるでしょう 」


ことん、と卓に置かれた小さな液体。警戒を一瞬解いて、不思議そうな目で小瓶を眺める
それが媚薬であること告げると、真っ赤だった顔が瞬時に蒼白になった。
これから何が行われようとしているのか、とうとう彼女も悟ったらしい。


「 伯、言・・・媚薬、って、まさか・・・どうして、そ、そんな、そんなことを・・・? 」
「 『 夜伽 』を知ってもらう為です。貴女の役目は、趙雲殿を溺れさせることなのですから。
  蜀を裏切っても構わない、そう彼に思わせるほどの存在になる為に・・・私が、指導します 」
「 で、でもッ、どうして伯言が!?だって、私のこと、だっ、抱きたくて抱くわけじゃないでしょ!?
  国の為なら、何でもするというの?伯言、私、わからない・・・わからないよお・・・ 」


とうとう大粒の涙をこぼしたが、両手で顔を覆う。咄嗟に伸ばしかけた手を握ると、痛みが走る。
力加減ができず、爪が皮膚を突き破ったらしい。つ、と温かいものが甲を伝わった。
血を懐紙で拭き取って、私は黙って答えを待った。はしゃくりあげて、着物の裾で涙を拭っている。


( ああ、そんなに泣かないで。擦ったら一層赤くなってしまう・・・ )


心の中の声など微塵も表に出さない代わりに、胸の奥がみしりと悲鳴を上げる。
私は・・・いつからこんな、ただ黙って愛する人の苦しむ姿を眺めているだけの酷い人間になってしまったのだろう。 苦行に耐える気分だった。小刻みに震える肩をそっと引き寄せて、抱き締めたい。 怖がらせてごめん、と謝って涙を拭ってやりたかった。




やはり・・・彼女にも、私にも、これ以上は無理です。




その『 諦め 』は、心底ほっとしたような・・・とても複雑な気分だった。
今更なんかじゃなくて、もっとずっと、貴女を好きになったあの日から、彼女を抱きたいと思っていた。
けれど、こんなカタチではなくて。本当に恋人同士として、の身も心もを愛したい。






「 ・・・、あの、 」






どうか、今のことは忘れてください。私は・・・貴女を、愛しています。
だから貴女の意思を尊重したい。孫権さまには謝って、貴女を役目から開放してもらいましょう。
もう他の男になんか嫁がず、どうか、どうか私の傍にいて下さい。












この陸伯言の・・・仮初などではなく、本当の・・・生涯の『 妻 』として、傍にいてください。












言いたいことは、たくさんあった。けれど・・・何から話せばいいのか迷っていると。
泣いていたはずのが、徐に手を伸ばす。きゅぽん、と栓を抜く音が、やけに大きく部屋に響いた。


あっという間に飲み干した小瓶が、床に落ちて・・・泣き濡れたの瞳が、妖しい色を帯びた。






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