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 それからの・・・2日後の、ことだった。
 
 
 輿入れの日が更に3日後に決まり、陸家の侍女たちの手で、あっという間に荷物がまとめられたのは。
 
 
 
 
 
 
 この5日間の間、伯言は一度も屋敷に戻らなかった。
 小耳に挟んだ話では、ただでさえ通常業務の多いというのに、私の輿入れの準備も彼が担当しているらしく、
仮眠も取れないくらい忙しいらしい。その話に・・・思わずあの『 仮眠室 』での出来事を思い出した
けれど。今思えば、もうあの頃から、私は彼が好きだったのだ・・・と改めて気づかされる。
 伯言は・・・屋敷に戻らないのではなく、戻れない、のかもしれない。
 
 
 「 ・・・なんて、思い上がり過ぎかなあ・・・ 」
 
 
 窓辺に座った私は、苦笑交じりに空を見上げる。この夜が明ければ・・・とうとう、陸家を出発する。
 すっかり自宅のように思えていたから、何だか寂しい。
 それでも重い腰を上げて、牀榻へと近づく前に・・・控えていた侍女の前に立った。
 ひれ伏した彼女に、今までありがとう、逃げ出した時には迷惑をかけてごめんなさい、と声をかけると、
驚いたのだろう。恐る恐る彼女が顔を上げたので、微笑んだ。
 
 
 何も考えずに、今夜は寝てしまおう・・・その方が、きっと、心穏やかに行けるから・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 シャン、と頭にのった簪が音を立てる。顔を上げよ、と声がかかった。
 これを合図に頭を上げると、孫権さまの微笑みがあった。思わず私も笑む。
 今日は、以前のような非公式な場ではない。陸家の娘として、呉のために嫁ぐのだから。
 
 
 「 よ・・・そなたの存在が、呉と蜀の架け橋にならんことを 」
 
 
 孫権さまの言葉に、その場にいた全員が跪礼する。
 彼が退出する銅鑼が響き、一同が部屋から出て行こうとした時だった。
 周囲を見渡せば、その場にいたはずの伯言は、先に出てしまったようだ。
 ここでも逢えなかったか・・・と諦めて、退出しようとした私を呼ぶ声。
 
 
 「 さま! 」
 
 
 練師さまがどこからか飛び出してきて、私の両手を力強く握った。
 よく見れば・・・俯いた練師さまは、泣いていて。何があったのかと、私の方が混乱してしまった。
 ごめんなさい、ごめんなさい・・・と小さな呟きが聞こえて、首を傾げる。
 
 
 「 どうして、お謝りになるのですか、練師さま 」
 「 ごめんなさい・・・貴女を、こんな目に合わせた私たちを、どうか許してください・・・ 」
 「 練師さま、許すも何も・・・私、今では感謝しているんです 」
 「 さま・・・ 」
 「 ・・・伯言のこと、好きでした。これが『 恋 』なんだって、私、初めて解ったんです。
 だから大丈夫です。きっと・・・趙雲さまのことも、好きになれます 」
 
 
 感謝こそしても、どうして怨むことなどしようか。
 呉で過ごした・・・今日、これまでの日々が『 思い出 』に変わるように。
 伯言と過ごした日々も、涙が出るほど穏やかで、優しい『 思い出 』になるのだろう・・・。
 辛い時に思い出した時に、陸家の窓辺から零れる、温かい陽だまりのような・・・心を照らす、光に。
 
 
 泣き顔の練師さまに、頷いてみせる。涙を拭いて、彼女も頷いた。
 
 
 「 輿まで、ご一緒いたしますわ・・・お見送りさせて下さい 」
 「 嬉しいです、ありがとうございます 」
 
 
 練師さまが、私の手をとり、先導してくれた。
 着慣れない豪華な着物を身に着けている私には、有難かった。それを言葉にすれば、彼女は笑う。
 でも、きっと趙雲さまの下では、着ることも増えるでしょう。
 何といっても、彼は蜀の五虎将軍と呼ばれる地位にある方ですから・・・とも。
 どんな方だろう、と考えることは、旅の合間に残しておこう。
 間を惜しむように、練師さまとの会話に花を咲かせていれば、城の外へと出た。
 思わず声をあげそうになるくらいの、荷物と従者の数。
 平民に過ぎない私に・・・ここまでの用意をしてくれるだなんて。
 一番豪華な輿。あれに、これから乗って行くのだ・・・と思った矢先、その輿のすぐ脇に立つ影。
 
 
 「 ・・・伯言 」
 
 
 拱手したままの彼が立っていた。やっと逢えた・・・その想いが、胸を満たす。
 締め付けられる心を庇うように、胸の前で両手を組む。けれど、彼は顔を上げなかった。
 不思議に思う私を、そのまま練師さまが促す。彼の前を通り過ぎて、私を輿へと乗せた。
 珠簾を下ろそうとした彼女に、あ、あの!と声をかけた。
 
 
 「 ・・・お辛いとは思いますが、このまま陸遜さまには声をかけないであげて下さいませ 」
 「 でも、練師さま・・・! 」
 「 彼は仲謀さまより、嫁ぐさまの心を乱さないように、との命が下されております。
 触れることはおろか、目を合わせることも・・・避けるように、と 」
 「 そんな・・・ 」
 「 お許し下さいませ、すべては貴女の心を護るため・・・道中、お気をつけて 」
 
 
 絶句した私に、練師さまが叩頭する。そして、珠簾が降りた。
 彼女の足音が遠ざかり、伯言の号令がかかった。
 
 
 「 出立! 」
 
 
 輿が浮く。ぐらり、と身体が揺れたけれど、頭の中を整理することで精一杯だった私には関係なかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そして・・・蜀との国境までの、数日間。伯言が、私を訪ねることは無かった。
 食事や身の回りの世話などは、一切別の者を解して、だったから・・・。
 伯言に逢わせて、と駄々を捏ねることは、彼の役目を妨げる。
 落ち込むことを通り越して、憔悴しきっていた時・・・輿の揺れが、止まった。
 休憩、という雰囲気ではなさそうだ。物々しいまでの足音。それも、いつもより数が多い。
 輿の近くにいた人々が、遠ざかった気がした・・・。
 
 
 「 ( ・・・まさか ) 」
 
 
 予感に、腰を浮かせようとしていると、・・・と小さく、久々に名前を呼ばれた。
 
 
 「 ・・・伯言・・・ 」
 
 
 周囲に人の気配はない。あるのは、珠簾の向こうの彼の気配だけ。
 名前を呼ばれただけで、涙が浮かんできた。せめて顔を見たい・・・けれど、それは彼の役目を妨げる。
 思い止まっていると、拱手しているであろう伯言の影が揺らいだ。
 
 
 「 国境に着きました。我らは、王の許可なしに越えることは出来ません。
 これより、この輿を蜀から到着された部隊にお預けいたしますので、驚かれませんよう・・・ 」
 「 ・・・・・・・・・ 」
 「 蜀に嫁がれても、呉の人間としての誇りをお忘れなきよう、陸家当主として、申し上げます。
 身体を自愛し、どうぞ健やかにお過ごし下さい。それだけを・・・切に、祈っております・・・ 」
 「 ・・・・・・は、く・・・・・・ 」
 
 
 言いたいことは、もっとあったのに。いざ『 その時 』を迎えると、何も言えなくなってしまう。
 涙を流すだけで、無言になった私に、、ともう一度、労わるような声音が降った。
 縋りつくように、珠簾の傍へと寄る。姿を見せれば、兵が驚く。珠簾越し、がせめてもの距離だった。
 
 
 「 ・・・・・・伯言ッ!! 」
 
 
 音も無く、珠簾の下から手が伸びる。ぎょっとした私の、涙に濡れた手をぎゅううっと掴む。
 
 
 
 
 痛いほどの、力に篭められた・・・伯言の、想い。
 
 
 
 
 同時に胸が、今までに無く締め付けられて、堰を切ったように私の瞳から涙が溢れる。
 一瞬だけ、指を絡ませて・・・何事も起きなかったかのように引き抜いた。
 
 
 「 伯言、伯言ッ!!! 」
 
 
 何度呼んでも・・・もう、この声は届かない。
 彼が遠ざかった方向とは、別の方向から大勢の足音がし、周囲を囲んだ。
 気合の声と、輿を上げる音がし、進み出す。先程とは、少しだけ違う揺れ方。
 呉を出る。その実感が、伯言との別れをきっかけに胸を襲って、輿の中で嗚咽する。
 
 
 
 
 
 
 「 ( 伯言・・・好き・・・私も、好き、愛してる・・・愛してる、から・・・伯言、伯言・・・ ) 」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一度でも、告げていれば・・・こんなに、後悔はしなかっただろうか。
 
 
 告げていれば、何かが変わっただろうか。少なくとも、こんな苦しい想いはしなかったのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 もう、逢えない。もう伯言に、逢えない。わかってたはずなのに、辛い。絶望に顔を覆った。
 瞼を閉じれば、一緒に過ごした彼の表情が浮かぶ。その最後に、笑顔が浮かんで・・・。
 苦しさを隠そうともせずに、私はただ咽び泣いた。
 郷愁の想いに泣いているのだと思われたのか、誰にも声をかけられることは無かった。
 それを良いことに・・・私は、身体中の水分が全部無くなってしまうんじゃないかと思うくらい。
 
 
 永遠に消えぬであろう、初恋の人の影に・・・止め処なく、涙を流したのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
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