「 貴方が・・・趙雲、さま・・・・・・? 」
「 はい。姓は趙、字は子龍と申します。再び、殿にお逢いできるのを楽しみにしておりました 」
ぽかん、と見上げたままの私を、椅子に座らせて。
自分も向かいに座ると、玉葉が茶を運んできてくれた。
小さな器に入った薄褐色の水面を、じっと見つめる・・・というか、放心に近かった。
そんな私の耳に、クスクスと小さく空気を震わせる声。
目線を上げると、趙雲さまの肩が揺れている。
「 そんなに驚いてくれるとは・・・呉まで出向いた甲斐があったな 」
「 あ・・・あの、左手は大丈夫でしたか!? 」
「 ええ、貴女の適切な処置のお陰で・・・ほら 」
趙雲さまはそう言って、痛々しい傷のあった左手を私に差し伸べた。
私は、その手にそっと触れる・・・彼のいうとおり、そこには傷の跡すらなかった。
ほっとして、自然と浮かんだ笑顔を見て、彼も目元を柔らかくした。
「 あの時は、ありがとうございました。殿のおかげです 」
「 いいえ、私の方こそ助けていただいて・・・って、ちょっと、待ってください。
も、もしかして・・・峠で出逢ったのは偶然、なんかじゃなくって・・・!? 」
「 ええ、どうしても一度お逢いしておきたくて。でも、あれが初めてではないんです。
陸家の屋敷にも、侵入しようとしたことがあるんです・・・覚えて、いますか? 」
「 ・・・陸家で、ですか? 」
「 貴女はあの夜、何度も塀を上ろうとしていた 」
・・・どき、ん・・・。
茶器に触れようとした手が、止まる。砕けた口調なのに、静かに脅されるような・・・気迫が、あった。
空気を察したのか、気がつくと玉葉はもうこの場に居なかった。室には、趙雲さまと二人きり。
彼が、一口茶を口に含んで、流し込む。その喉の音さえ、今の室には大きく響く。
だから・・・できるだけ、この緊張を悟られないように。私は、努めて小さく息を飲み込んだ。
「 陸遜殿とは、未だ戦場で刃を交えたことはありませんから、あれが初めての打ち合いでした 」
思い出すように天井を仰ぎながら、彼は飲み干した小さな茶碗を、机に戻す。
「 ・・・どうして、そんな危険な真似を?一歩間違えば、ご自分の命だって失っていた。
蜀の大将である貴方さまなら、正式な手続きをすれば『 私 』にお逢いできたはず・・・ 」
声が震えないように、怯んでいるように見えてもいけない。
精一杯の『 毅然とした態度 』で臨んだ私の姿は、百戦錬磨の将軍と言われた彼から見れば、
滑稽に見えたかもしれない。だけど、趙雲さまは、私を見つめたまま動かなかった。
そして・・・ふ、と頬を緩める。静かに立って移動し、座っているの私の横に跪いた。
「 殿 」
膝に置いていた私の拳は、皮膚を破ってしまいそうなほど強く握っていた。
力の入ったその拳に置かれる、彼の手。ひとまわりも大きくて、武人の手らしい、ごつごつとした指先。
・・・伯言よりも、オトナなヒトの・・・てのひら。
瞼の裏に、思い出してはいけないヒトを思い出して、ずきんと胸が痛んだ。
「 私は『 素 』の貴女に逢いたかったのです。なんせ、自分の奥方に迎える人ですから。
陸家の令嬢とは、一体どんな方なのか・・・己の目で、貴女の為人を見極めたかった 」
「 ・・・趙雲さま 」
見上げるように、黒い瞳が私の顔を覗きこむ。大きく、強い光を帯びた双眸。
その瞳に、心の奥まで・・・奥の奥まで隠している、感情まで見透かされてしまいそうで。
本当は気が気じゃなかった( けれど、逸らすことを許されなかった )
少しだけ、脅えるように見つめ返した私の手を、そっと自分の唇に押し当て、頭を垂れた。
「 この趙子龍・・・殿を妻に向かえ、この先の道を共に歩むことをお約束致します 」
・・・正式な、結婚の申し込みだった。
まさか、政略結婚の相手である趙雲さまから、こんな言葉を頂けると思っていなかった私は、
正直・・・すごく、嬉しかった。彼は私を正妻に迎え、大切にしてくれると誠意を見せてくれたのだ。
趙雲さまに初めてお逢いした時、私は思った。なんて素敵な殿方だろう、と。
女の子を虜にするような、均整の取れた顔。彼に惚れない子はいないに違いない・・・。
私が・・・『 誰か 』を愛する前の、恋も知らないただの『 女の子 』だったら。
彼の言葉に涙を流して感動して、自分を世界一の幸せ者だと・・・思えただろうか・・・。
・・・頭を下げたままの、趙雲さまには・・・きっと、わからないだろう。
私が、今、どんなに『 最低 』なことを考えたか、だなんて・・・。
「 殿・・・どうして、泣くのですか? 」
「 すみません・・・すみません、趙雲さま・・・ 」
床に落ちた雫に気づいて、そっと私の涙を拭う。その掌も、優しくて。
余計に申し訳なく思えてきて、なかなか涙は止まらなかった。
・・・だけど、言わなくては( そして早く・・・忘れなければ )
椅子を降り、跪いていた趙雲さまより低い姿勢になると、平伏すように地に額をつけた。
「 ありがとうございます、趙雲さま・・・こんな私ですが、どうぞ末永く、よろしくお願い致します 」
涙と一緒に、鍵をかけて、誰の手も届かない心の奥深くに、閉まってしまおう・・・。
こんな、こんな・・・永遠に報われない、伯言への想いは未練を生むだけだから。
『 私自身 』を妻にと望んで下さる趙雲さまの心を、悪戯に傷つけてしまわないように。
いつか『 本気 』で、彼の『 優しさ 』を、否定することがないように・・・。
頭を上げてください、殿・・・と、趙雲さまの声がしたが。
止め処なく泣き続ける私は、その頭を上げることが出来なかった・・・。
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