熱は、完全に下がったらしい。
倒れてからずっと診ていただいたお医者さまが、こくりと頷いて微笑んだ。


「 もう大丈夫じゃ。あとは日々ゆっくり静養すれば、問題なかろう 」
「 先生、ありがとうございました 」


上半身を起こして頭を下げた私に微笑みかけると、先生は部屋を退出していく。
送ってまいりますわ、と玉葉も一緒に出て行く。その姿を見送って、私は長い息を吐いた。


・・・身体は、随分楽になった。
牀榻から長時間起きていても辛くないし、あと少しもすれば外出も可能になるだろう。
子龍さまが都を案内してくださると仰っていたっけ・・・ふと思い出して、唇だけを持ち上げる。


「 ( 嬉しいのか、嬉しくないのか・・・それすら、わからない ) 」


身体を冷やさないようにかけていた衣を引き寄せて、ふと周囲を見渡す。
格子から差し込む光は呉も蜀も変わらない。陸家の屋敷の、私の居たあの部屋にも今頃は同じように 零れているのであろう・・・・懐かしく思えば、胸が締め付けられた。
この屋敷が居辛いというのではない。玉葉も屋敷のみんなも、とても良くしてくれる。
むしろ・・・陸家で、存在自体を隠されていた頃とは雲泥の差だ。『 私 』は此処に『 存在 』 することを認められている。主として、この屋敷には『 必要 』であると・・・。


子龍さまだって、そう。
絶望的な婚礼だと思ったのに、彼と一緒に過ごす時間が増えて、そうじゃないと思い知った。
お忙しい中でもちゃんと帰ってきて下さるし、一緒に食事を取る時間も作ってくれる。 心底、心配してくださっているのも顔を見れば判る。『 妻 』として・・・大切にされているのは、すごく実感している。
差し伸べられるあの優しい手に掴まって、この先も彼に導かれていけば私は幸せになれるのだろう。
漠然と、だけど・・・そんな気がする。


「 ( ・・・だからこそ、なんだと思う。『 乾き 』を覚えるのは ) 」


彼の手を素直に取れないのは、心の奥がどこか『 乾く 』のは。
そう・・・劉備さまと尚香さまの幸せそうな姿を見た、あの瞬間から。
政略結婚と人は言うかもしれないけれど、あのお二人は愛し寄り添う夫婦以外の何物でもなかった。
連理の枝のように、お互いがお互いを必要としている。
年齢も、立場も、国境も越えて、真に結ばれた二人の姿を見て・・・私はただ、泣きたくなった。


「 ( どうして・・・泣きたくなった、のだろう・・・ )」


子龍さまに応えたいと思う、彼の妻になりたいと思う・・・それは、本当の気持ち。
でも・・・伯言のことを、忘れられない。忘れなきゃと思うほど、心の底に根を張る想い。
仲睦まじい『 夫婦 』像が泣きたくなるほど妬ましいと思うのは、子龍さまとも伯言とも、 もしかしたら誰とも一生・・・本当の意味で『 夫婦 』になることはないかもしれないと思うから。






それに、私はただの『  』であって『 陸家の令嬢 』ではない。






これを知れば、子龍さまの気持ちも『 私 』から離れていくのだろうか。


そして私は・・・呉へ、伯言の元へと・・・戻されるのだろうか・・・。






かたん、と物音がして、慌てて振り返る。そこには見慣れぬ人影。
身体を強張らせた私に、ああ、これは声もかけずに失礼いたしました、と物腰柔らかな声が降る。
思わず・・・あ、と口が開いた。


「 ・・・諸葛亮、孔明さま・・・ 」
「 婚儀以来ですね。お身体の具合はいかがですか、殿 」


牀榻を降りて床に座そうとした私を、そのままで結構です、と制す。
動揺する私ににっこりと微笑んで、手近な椅子を引き寄せると牀榻近くへと腰掛けた。
後ろから慌てて追いかけてきたのだろう。玉葉が荒い息で部屋に飛び込んできて、拱手する。
すみませんね、突然お伺いしてしまいましたから、お屋敷の皆さんにもご迷惑をかけてしまいましたか・・・ と、彼は苦笑する。どうやら、私の部屋を聞くなり自らスタスタと歩いていってしまったので、みんな 唖然としてご案内する機会を逃してしまった、と玉葉が耳打ちいてくれた。 諸葛亮さまは、慌てて出されたお茶を一口含み・・・玉葉たちに下がってもらえるよう 言ってくださいませんか、と私に言った。


「 ・・・玉葉・・・諸葛亮さまの、仰る通りに 」
「 でも、さま・・・ 」
「 私の体調なら心配しないで・・・さ、 」


今朝、いつも通りに子龍さまは登城している。帰って来たとは聞いていないから、 単身で訪れたのだろう・・・子龍さまの不在時を狙って、わざと。これが只事ではないということは誰にでもわかる。
だからこそ、玉葉は傍に控えてくれようとしていたのだ、とは思うけれど・・・。
強引に彼女を追い出せば、部屋の温度が数度下がった気がする。背中を向けている間にひと呼吸して・・・ 私は肩にかけていた衣を羽織りを引き寄せ、彼の前に座りなおした。


「 そんなに緊張せずとも、よいのですよ。私は『 確認 』をしに参っただけ 」
「 『 確認 』でございますか・・・? 」


そう、と扇が揺らめく。羽根がゆるりと舞い口元を隠すが、途端、目の奥が光った。


「 貴女の体調もまだ回復したばかりとのこと。長引かせるのは得策ではありませんね。
  単刀直入にお伺いいたしましょう・・・殿 」
「 はい 」
「 ご存知の通り、周辺には誰もおりませんから正直にお答え下さい 」
「 ・・・はい 」
「 子龍殿が貴女を望んでから、密に調べていた調査結果がようやく届きましてね。
  殿・・・貴女は、この『 店 』の名をご存知ですか? 」


孔明さまが口にした、店の名。女将さんの顔が浮かぶと同時に、顔面から血の気が引いていくのが解った。 どく、と鼓動する心臓の音が周囲の音を上回る。ようやく発した声が震えていた。


「 ・・・どうし、て・・・その、名、を・・・ 」
「 その店で長い間働いていた少女が、とある夜を境に失踪したそうです。
  よりにもよって・・・蜀の人間が一人、呉の国にある小さな裏通りで消されたという日に 」


・・・もう、ダメだ、と思った。


膝に置いていた両手で、顔を覆う。
ぎゅっと瞳を閉じる瞬間に、扇の孔明さまが、ふ、と表情を緩めるのがわかった。






34

back index next