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 広げた地図を見ながら、向かいに立った尚香さまの口から溜め息が漏れた。
 夫である殿と私の前に茶托を置くと、険しい顔をした夫を後ろから抱き締めた。
 
 
 「 ・・・また、戦が始まるのね 」
 
 
 魏に、戦支度の動きあり。
 最初に報告を受けた時から、念入りに念入りに調べた結果が届いた。
 大量の武器や防具、兵糧の動きがあるという。元々国境付近では小競り合いが続いていた。
 ・・・これを機に一気に仕掛けてくる気でしょう。
 
 
 「 これまで間が開いたのが、むしろ不思議だったのです。呉との同盟効果が薄れただけ・・・。
 魏は、呉諸共私たちを沈める気でしょうが、そうは簡単にはやられませんよ 」
 「 そうだな・・・私たちは、こんな事態の時に備えて、今まで積み重ねてきたのだから 」
 「 ええ、こちらも秘密裏に動くとしましょう。将軍たちには、早急に知らせねばなりません 」
 「 急ぎ遣いを出そう・・・・・・む? 」
 
 
 小道をやってくる気配に、地図から顔を上げる。
 尚香さまは地図を隠そうとするが・・・『 彼 』なら問題はありません。
 それに・・・そろそろやってくる頃だと思ったのですよ。私の思惑が、正しければ・・・ね。
 
 
 「 ご歓談中に失礼致します 」
 
 
 趙雲!と尚香さまの声が上がった。跪いた彼は深く頭を垂れ、この東屋へと近づいてきた。
 
 
 「 ようこそ、子龍殿。ちょうど貴方を呼ぼうと思っていたところでした。
 その前にいらっしゃるとは・・・何か、私たちに用事が? 」
 「 は・・・恐れながら、尚香さまに 」
 「 私に?何かしら 」
 「 ・・・『 妻 』より、預かってまいりました 」
 
 
 その言葉に、劉備殿と尚香さまははっと息を呑む。2人に視線を投げられた私はこくりと頷いてみせる。
 子龍殿は持っていた簡素な包みを、彼女の前に献上する。
 受け取った彼女は、促されるままその包みを開く。中には小粒の包子が数個入っていた。
 
 
 「 病の折の御礼に、と。彼女の手作りです。呉では名折れの職人だったらしくとても美味し・・・ 」
 「 趙雲ッ! 」
 「 ・・・は・・・はい! 」
 
 
 奥方をもらったとしても未だ慣れないのだろう( 特に、気の強い尚香さまには・・・ )
 包みを卓に置いて、両肩をがっしりと尚香さまに掴まれた子龍殿は、まるで蛇に睨まれた蛙のように
小さくなっている。その姿に、こっそり顔を背けた殿が吹き出す音がした。
 
 
 「 貴方、今・・・『 妻 』って言ったわよね!?『 妻 』って!誰のことよ!! 」
 「 だ・・・誰、と言われても、私の『 妻 』は一人しかおりませんが・・・ 」
 「 名は!? 」
 「 ・・・、ですが・・・ 」
 
 
 と言った瞬間、今にも掴みかかろうとしていた尚香さまの気配がさっと鎮火する。
 そして、両手で顔を覆って突然わんわん泣き出した彼女に、子龍殿が青褪めた。
 助けを求めるように、殿と私へ代わる代わる縋るような視線を送り・・・とうとう殿の笑い声が響いた。
 更に場が混乱する前に、子龍殿、と私は微笑んで見せた。
 
 
 「 尚香さまは心配していたのですよ。貴方に、殿が追い出されるのではないか、と 」
 「 そうよ!同じ呉の人間ですもの。ずっと気にかけていたの・・・私、彼女と友達になりたいのよ。
 こんなことで帰って欲しくないわ。趙雲がお嫁にしてくれないなら、馬超にあげるところだったわ 」
 「 そ・・・それは困りますっ!! 」
 
 
 大きな声を上げて抗議する子龍殿を、その場にいた誰もが驚きの瞳で見つめる。
 ・・・ああ、そうでした。彼女のことになると、貴方は『 変わる 』のでしたね。
 蜀一の堅物だと言われていた子龍殿が、色恋沙汰が絡むとこうも変わるのか・・・と、個人的には
なかなか興味深い反応です。
彼女との婚姻が本当に呉の策略であったなら、間違いなく蜀は傾いていたかもしれませんね
( まあ、この程度では策略にもならないし、仮にそうであったとしても私が
そうはさせないことは明白ですが・・・ )
 
 
 子龍殿は咳払いをひとつすると、彼女からの贈り物を見つめた。
 
 
 「 どんな理由があれ・・・彼女は私の『 妻 』になるために、蜀へとやってきた娘です。
 呉には戻らないと、は言いました。ならば私はこの地で彼女を護っていきたいと思います 」
 「 趙雲・・・ 」
 「 殿、どうかお願い致します。私は、夫として彼女の代わりにどんな罰も裁きもで受けます。
 を・・・彼女を、正式な私の『 妻 』と、お認め頂きたいのです 」
 
 
 叩頭した彼を・・・心優しい劉備殿が罰せられる訳がない。
 元々、子龍殿に選択を任せた時点で、劉備殿の心は決まっている。
 彼のことも殿のことも、罰する気持ちなど殿の中には微塵もないのだから・・・。
 劉備殿は少しだけ苦笑すると、伏した彼の背中に手を当てた。
 
 
 「 子龍よ、私はそなたを信じている。だから、そなたの信じる者を私も信じよう 」
 「 殿・・・勿体無い、お言葉でございます 」
 
 
 2人の姿を見ながら、尚香さまが微笑んでいた。自分の頬にも自然と笑みが浮かぶ。
 
 
 
 
 
 
 ・・・殿は、賢い娘だと思います。
 
 
 陸遜殿が、どういった経緯で彼女を自分の従妹とするのに至ったかはわかりませんが、
彼の『 眼 』には敬意を表する。もちろん・・・選んだのが『  』殿で間違いはなかったという点で。
 ただの平民であったはずの彼女を貴婦人に仕立てるには、本人の相当の努力が必要だったはず。
 その努力を彼女から引き出すには、生涯を捧げるに見合うだけの『 信頼 』を得なければならない。
 
 
 全てが露見し、とうとう国に帰れる、と判れば帰りたくなるのが普通であるのに・・・彼女は。
 
 
 
 
 
 
 「 孔明、どうした? 」
 
 
 黙ったままの私にかけられる、殿の声に・・・俯いていた顔を上げる。
 
 
 「 ・・・いえ、何でもありませんよ 」
 
 
 
 
 
 
 ・・・これこそ杞憂でしょう。
 2人の間に、誘惑を跳ね返すほどの・・・どんな『 強い絆 』があっただなんて邪推に過ぎない。
 
 
 子龍殿と殿は、お互い話し合った上で夫婦として生きる道を選んだのですから。
 
 
 
 
 
 
 「 さて、まずは各将軍に集合を。夕刻には全員集まるでしょう。子龍殿、お願いできますか 」
 「 かしこまりました。では、私が手配してまいります 」
 「 じゃあ私は、折角だからからもらった包子を蒸かしてこようかな。貴方も食べるでしょ? 」
 「 ああ、夕刻まで時間もある。腹ごしらえは可能な時にしておかなければな 」
 
 
 駆け足で去った子龍殿に続いて、殿と尚香さまが並んで部屋へと戻っていく。
 殿や子龍殿に在るように、天が定めた各々の『 役目 』・・・それを私も果たせねば。
 
 
 静かに動き出した時代の流れを身体で感じながら、蒼い天を仰いだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
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