湯に身体を浸けて、掬ったお湯で顔を洗えば自然と肩の力が抜けて、溜め息が出た。
ちゃぷん・・・と静かな水の音だけが一人きりの浴槽に響く。
今夜はゆっくり入りたいから、と、いつも傍にいてくれる玉葉にも遠慮してもらった。
湯殿の向こうの続き部屋に、自室まで付き添ってくれる侍女が一人控えているだけ。


「 ( どうしよう・・・伯言、来ちゃうの、かな・・・ ) 」


本当に、今宵・・・来るのだろうか・・・。
文字通り、命を賭しての行為になる。この逢瀬が明らかになれば、私たちは『 全て 』を失うだろう。
私には失うものなどないけど、伯言には生きて孫呉で成すべきことがある。
逢瀬が露見するのが怖いなら、私があの時止めるべきだった。でも・・・でも・・・・・・。


「 ( でも・・・伯言は約束してくれたもの ) 」


頬への口づけ。伯言との約束の証。たった一回、あの一瞬がこんなにも嬉しいものだったなんて・・・。
だからそれがいけないことだとわかっていても、純粋に、もう一度逢いたいと思ってしまった。
名残惜しそうに触ると、そこにはまだ残り火のように彼の熱が残っている。
余韻に浸って、ほう・・・と再び溜め息を落とした私に、扉の向こうから小さな声がした。


「 さま、ご気分はいかがですか?湯あたりなどされていらっしゃいませんか? 」
「 あ・・・ええ、大丈夫です。もう上がります 」
「 かしこまりました 」


置いていた布で身体を拭くと、寝着の上から彼女が上掛けを着せてくれた。
濡れた髪を乾いた布で押さえながら、深夜の廊下を歩く。今宵は新月で、月の姿は空に無い。
恐らくこの新月の夜を待っていたのかもしれないけれど、どうやって、誰が、迎えに来るのだろう。
( その辺りの情報を確認しなかった私が悪いけど・・・合図に気がつかなかったらどうしよう )
部屋まで誘導してくれる侍女の灯りをぼんやりと見ながら・・・ふと案内されるまま、 見慣れない曲がり角を曲がった。気づいたのは、灯が消されてふっと手元が暗くなってからだ。 布を持つ手が固くなる。


「 ご安心下さいませ、さま。主人の下までご案内するよう、仰せつかっております 」
「 ・・・主、人・・・? 」
「 左様にございます。本日、久々にお逢いされた方にございます 」
「 ・・・・・・!! 」


この人が、伯言の言ってた『 間者 』・・・!


月明かりも無い暗闇の中で私の手をとる。 戸惑う私は、声を上げたり足をもつれさせたりしないように気をつけながら必死に彼女についていった。 趙家に身を置いてからも他人に案内されているばかりで、ほとんど覚えていない屋敷の中だ。 どこをどう歩いたのかなんて、全くわからないまま、部屋に通されたようだ。 繋いでいた手が離れて、急に不安になっておろおろとし出した私に彼女が耳元で囁いた。


「 そのままお待ち下さい。後ほど、時間を見計らってお迎えに参ります 」


こくこくと何度も頷いたのが、闇の中でもわかったのだろう。少しだけ笑う気配がして、消える。
彼女の言う通り、黙ったままその場に立ち尽くしていると・・・次第に暗闇に目が慣れてきたのか周囲を伺う余裕が出てきた。 どうやら何かを保管する倉庫らしい。其処彼処に木箱が乱立していて、中央にひとつだけ格子のついた小窓がある。
窓に近づいて、格子の向こうから景色を覗こうとすると・・・部屋の隅から、、と呼ぶ声がした。


「 はっ、伯言! 」
「 しー・・・静かに。ふふっ、貴女は本当に相変わらず、なんですから 」


慌てて口を押さえ、自分も部屋の隅へと移動する。
床の上にそのまま腰を下ろしている伯言は、私の腰を引き寄せて、自分の両脚の間へと座らせる。
背中から包み込まれるように、私はそのまま彼へと身体を預けた。


「 湯浴みの後ですか?髪が濡れています。全く、ちゃんと乾かさないと濡れたままじゃ傷みますよ 」
「 んもう!伯言こそ、こんな時まで憎まれ口なんだから 」
「 すみません。に逢えたことが嬉しくて・・・本当に、今、夢を見ているようで・・・ 」
「 伯言・・・私も、だよ。あの別れの時、もう永遠に逢えないんじゃないかって思った 」
「 ええ、それこそ私も、ですよ 」


向かい合うように身体を反転させて、擦り寄せた私の身体を抱き締める腕に力を篭める伯言。
香油と貴女の匂いがします、と言われてちょっとだけ頬が染まったのが自分でもわかった。 甘えるように胸に顔を埋めた私は、久々に包まれた伯言の匂いと、服越しでも聞こえる彼の鼓動に耳を澄ます。
とくとくと聞こえるそれが、陸家を思い出させる。ううん、陸家だけじゃない。呉で過ごした日々も、だ。
愛情を注いで育ててくれた両親、女将さん、お客さんたちの笑顔、そして練師さま・・・。


「 伯言 」


貴方と過ごした、時間。僅かだったけれど、人生で最も幸福だった瞬間。


「 私、ね・・・伯言のこと、好き・・・ 」
「 ・・・? 」
「 ずっと言えなかったの。言っても、実らないってわかってたから。
  だけどね、逢えなくなってずっと伝えなかったことを後悔してた。だから・・・好き 」
「 ・・・・・・・・・ 」
「 愛してる、大好きだよ。本当は、ずっと前から好きだったの・・・っ、あッ! 」


急に強く抱き締められたと思ったら、そのまま唇を奪われる。
驚いて目を白黒させている私なんかおかまいなしに、唇を割って舌が挿れられる。
呼吸も間々ならない。苦しくて苦しくて仕方ない。でも・・・伯言は決して逃がしてはくれなかった。
こっ、これは秘密の逢瀬だから、少しでも騒ぎ立てちゃいけないのはわかってるけれど・・・!
酸素を求めて伯言の胸を叩けば、ようやく気づいてくれたのだろう。はっとしたように身体を離す。
そして、そのままそっと顔を隠すように、私の胸へと顔を埋めた。


・・・まるで・・・今の行為は『 過ち 』なんだと言わんばかりに・・・。


「 ・・・伯言? 」


様子が、いつもと違う。訝しげな私の声に、溜め息を吐いた伯言が震えた。


「 やっぱり、貴女は変わらない。相変わらず私の想定や決意をいとも簡単に崩してしまうのですね 」
「 ・・・どういう、意味? 」
「 触れれば未練が残るとわかっていたのに。だけど余りに、が愛しい・・・愛しい、の、です 」


彼が顔を上げるまでに時間がかかった。何か・・・酷く、躊躇っていることだけはわかった。
暗闇の中でも、瞳が水面のように揺れているのが見えて、私の心にまで揺れが移る。
伯言が出来るだけ冷静に、落ち着いて喋ろうとしている様子に、言い知れぬ不安感を覚えた。


「 ・・・どうして、今回私が蜀を訪れたと思いますか? 」


小さな問いかけの声音に、しばらく考えて首を振る。そういえば、突然・・・どうして?
再会の喜びが何にも勝って考えたことなかったけれど、言われてみればその通りだ。


「 近いうちに、魏と戦が起こります。蜀と呉は結託してこれを迎撃します。
  私は孫権さまの代理として、同盟の確認に参りました。それと・・・貴女にも『 確認 』をしに 」
「 確認? 」


首を傾げると、伯言は力強く頷いた。そして一回、静かに深呼吸をして心を落ち着ける。
不安な顔をした私の両肩を掴むと、はっきりと告げた。






「 孫権さまより、許可をいただきました・・・、貴女を妻に娶る、許可を 」






最初・・・伯言が何を言っているのか、わからなかった。
瞬きもせずに固まっている私を、彼は熱の篭った視線で見つめていた。


「 蜀と呉の同盟は、この戦をきっかけに崩れる可能性があります。此処に、蜀にいては危険です。
  本人に帰郷の意思があるならば、孫呉に連れ帰り、私の妻として正式に迎えても良い、と 」


呉と蜀の同盟の証として嫁いだ花嫁だ。表向きは五虎将軍の妻として迎えられ、蜀の人間となった。
同盟が破棄されればその『 役目 』は終わり、花嫁としての存在意義は無くなる。
私が蜀に留まる理由は・・・もう、無いのだ。


「 ( そして・・・ ) 」


そして、私は孫呉に戻り、伯言の・・・陸家家長・陸遜の妻になる。


自分の恋心に気づいた時から、このまま伯言の傍に寄り添えたら・・・と、何度も思った。
けれど、花嫁の役目を引き受けることが彼の、国のためになると信じて心を押し殺して蜀へと嫁いだ。
なのに・・・孔明さまの手腕によって、呉に送り返されることでもなくて。
花嫁という『 役目 』そのものから正式に開放される時が来るなんて・・・一体、誰が想像しただろう。


「 ( だけど・・・だけど、それじゃ子龍さま、は・・・? ) 」


『 花嫁 』だから大切にされたのだと思っていたけれど、それは誤りだった。
同盟のためではなく、私自身を好きだと言ってくれた。共に人生を歩んでくれると誓いを立ててくれた。
そんな彼の力になりたい、私は子龍さまが好きなんだって、確かにそう思った。


「 ( ここで今、伯言の手をとれば・・・好きだと言ってくれた子龍、さま、は・・・どうなるの? ) 」






私は・・・この短い生涯で何度あの人のことを裏切るのだろう。






抱いていた両肩が突然震えだしたことに気づき、伯言が驚いたように覗き込む。
両肩を包む手を外して、そのままぎゅっと自分の胸に抱き締めると・・・私は静かに首を振った。






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