今でも、時々思い出すことがある。






暗闇の中でもがいていたの柔らかな肢体。形の良い眉を潜めて、声無き声で叫んでいたことを。
無理矢理抱いた時に、それは初めて『 音 』になる。
初夜の間も、高熱の最中にも、蜀に来る前から彼女の意識を占めていた存在。






陸遜・・・呉の名門家、陸家の長。






天才軍師にして、を私に送ってきた人物。
と巡りあわせてくれたことに関しては感謝している。彼が居なければ、彼女との出逢いも無かっただろう。 立場も国も違う彼女と出逢えたのは、この計画を彼が担っていたからだ。


彼女に触れた時、誰かが既に触れたという印象があった。
あの影は・・・陸遜殿なのだろうか・・・。だが、にそれを確かめるのは酷な気がした。
で、必死に私を受け止めようとしている。陸遜殿を心の外へと追い出そうと努力している。
諸葛亮殿は、呉の飯店で勤めていた平民出のが魏の間者の死と係わり合いがあり、 そこを陸遜殿に漬け込まれたのではないかという話だった。それならば黒幕は陸遜殿で、は被害者だ。
だが被害者だから陸遜殿を嫌い、忘れようとしている・・・というわけではなさそうだ。


経緯までは知らないが、彼らは愛し合っていた。


峠で手を繋いで遠くを見つめる2人の背中には、言葉では表しきれないほどの寂寥感が漂っていた。
隠れて見守っていた私が言葉に詰まるほど・・・けれど『 別れ 』を選んだのは何故か。


「 それを説明するには、まず陸家から歴史を語らねばなりません 」


翻した扇が合肥を差す。先王が壊滅させた一族の中に、陸家があった。
幼くして長となった彼が目指すは、一族の再興と繁栄。けれど、彼は才能があっても若過ぎた。
そこで登場するのが『  』だ。軍師としてのの命運を握る、国の生贄と捧げられた花嫁の存在。


「 愛し合っても結ばれぬ運命の恋人たち・・・か 」
「 聡明な決断だと思いますよ。ただ、軍略というには余りに私情が絡みすぎるかと 」
「 私ならしない、と言いたげですね軍師殿。月英殿が同じ立場だったらどうしていましたか 」
「 さて、どうしていたでしょうね・・・ふふ 」


含み笑いを浮かべて、ともかく、と諸葛亮殿は言葉を続けた。


「 どんな経緯があれ、貴方が殿を幸せにして差し上げれば何も問題ないのですよ 」


富国強兵という以上に戦の匂いがする。が来てから、初めて呉との共闘が起ころうとしていた。
民にはまだバレていないだろうが、上位の将軍たちは微かにその匂いに感づいている。
近いうちに噂として広まるだろう。そうなれば・・・はどんな反応をするのだろう。
抱いて欲しい、と震えていた彼女・・・あの夜ほど自分の理性を賞賛し、同時に呪った瞬間はない。
無意識のうちの赤くなったか、向かいの諸葛亮殿が首を傾げたのがわかった。
何でもありませんと答えて、勧められた茶を啜った。茶器が空っぽになるまで飲み干して・・・。


・・・ふと、気づいた。




「 ( そういえば・・・あの日、彼女の様子が極端に変化しなかったか? ) 」




街で待ち合わせをして、市場を歩いて、反物を覗いて、風呂上りだと部屋に戻ってきて、そして。
ほんの一日の出来事だったのに。さっきまで笑っていたはずの彼女が、途端に脆く崩れていった。
自分の告白せいだと思っていた・・・だけど、そうじゃなかったら?
の感情をそこまで揺るがすとしたら、たった一人の存在しかあり得ないのだけれど。


「 ( ・・・まさか ) 」


と考えて首を振る。呉からここまで、どれだけの距離があると思っているのだ。
ましてや彼は軍師。いくら若くて気が逸ったとしても、余程の理由がなければ動けない立場の人間だ。


「 どうしました、子龍殿 」
「 ・・・いえ 」


こんな邪推を聞かせるわけにはいかない。それに・・・密通など、を疑うことに等しい。
私は、彼女の誠実で誇り高い気質を信じている。不義理な真似はしないだろう。
ひとり思いを巡らせる私を見つめていた諸葛亮殿が、口を開こうとした・・・その時だった。
遠くから聞こえる足音。足早に近づいてきたそれは、部屋の前で止まる。
武将の性か、無意識のうちに武器に手が伸びるが諸葛亮殿がそれを抑えた。


「 姜維ですか 」
「 ご歓談中に失礼致します。急ぎ、丞相にお伝えしたい火急の知らせが届いております 」
「 趙将軍しかおりませんから、入ってきなさい 」


では失礼いたします、と遠慮がちに入ってきたのは、天水襲撃後に諸葛亮殿の弟子となった姜維だった。 私の姿を認めるとぺこりと頭を下げ、手にしていた竹簡を諸葛亮殿に献上する。
中身を広げ、一瞬険しい顔つきになった諸葛亮殿は、終いにおやおや・・・と声を上げた。


「 どうされたのですか。何か・・・良くない知らせでも 」
「 良くない知らせには間違いないのですが、どう受け止めるかは人次第、といったところでしょうか 」
「 ・・・・・・? 」
「 急ぎ返事を出します。姜維、早馬の用意を。それから広間に皆を集めるよう声をかけてください 」
「 はい! 」


何も書かれていない竹簡に、さらさらと筆を走らせる。 邪魔になってはいけないので退室しようとしているうちに、もう書き終わったらしい。 渡された竹簡を預かった姜維が、来た時と同じように早足で去っていく。 その背を見届けて・・・諸葛亮殿は、大きく溜め息を吐いて苦笑を浮かべた。


「 噂とは怖いものですね。でも子龍殿だけじゃなくて、私も一度お逢いしたいと思っていましたので 」


彼は独り言のように呟いて、訳が解らないというように立ち尽くす私ににっこりと微笑む。






「 これより4日後・・・同盟の確認のため、呉より陸遜殿が使者としていらっしゃるそうです 」






よかったですね、子龍殿、と諸葛亮殿は笑うが、何が良いのか・・・さっぱりわからなかった・・・。






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