趙雲殿は、庭の入り口まで案内するとさっさと退散してしまった。
その背中を見送りながら、自分がどこで『 躓いて 』しまったのか・・・頭の中で会話を遡ってみる。
彼を不機嫌にする理由は思い浮かばない。自分で言うのもなんだが、運び方は完璧だったはずだ。
当たり障りのない会話だったけれど、持てる全ての武器を使用しての対応だったと思うし。
ある意味、主である孫権と話すより気を遣って対話したつもりだ。
「 ( の話題を除いて・・・ですが ) 」
『 妻のがお世話になったようで・・・ 』なんて言われたら、すべての武器が威力をなくしてしまう
ところだった。だから上手に先導して、その名前が飛び出してこないよう気をつけていたが・・・。
短い会話だったが、趙雲という男は猛将である以上に素晴らしい人徳者だということがわかった。
強い信念とそれに付随する鍛え上げられた体躯。端正な顔立ちは生気に満ち、見る者を虜にするだろう。
彼の名が遠い呉の地まで響き渡るのは、やはり只の武将ではないからだ。彼の部下は幸せだろうな、と思う。
こんな男についていけたら、男も女もみな惚れてしまうだろう。
それは・・・私が最も恐れていた『 事実 』で。
いざ目の当たりにしてみると、内心動揺を隠せなかった。
顔の表情には出ないよう気を遣ってはいたのですが、バレてしまったのでしょうか・・・。
私もまだまだですね・・・と肩を落としていると、頂上の小高い丘から聞き覚えのある声が響いた。
「 陸遜ーっ、こっちよこっち! 」
手をひらひらと泳がせて、手招きしている懐かしい姿。到着すると茶会の準備をしていた
女官たちが、自分のために道を開く。その中央に立つ人物に、臣下の礼をとる。
「 いらっしゃい、陸遜。貴方が使者として来ると聞いて、逢えるのを楽しみに待っていたのよ 」
「 尚香さま、お久しぶりです。孫夫人となられてからお逢いするのは初めてですね 」
「 そうね!積もる話は、お茶と一緒に楽しみましょうか 」
薦められた椅子に座ると、女官たちに下がるように言い、尚香さま自らがお茶を出してくれた。
呉にいた時から彼女が好きだったお茶の匂い。仕官して駆け出しの頃、なかなか周囲に馴染めずに
いた私を、よく招いてはこうして振舞っていただいた。孫権さまからです、と包みを差し出すと、
あの頃に戻ったみたいね!と中身のお菓子に彼女が飛び上がらんばかりに喜んだ。
「 頬張ってばかりいたら練師によく怒られたっけ・・・彼女も元気?兄様も?甘寧や凌統は? 」
「 ええ、皆さんお元気ですよ。甘寧殿や凌統殿はむしろ有り余っています 」
まあ、と尚香さまがころころと笑った。そして頬杖をつくと、ぽつりと呟く。
「 郷愁の念に駆られる程ではないけど時々懐かしくなるわ。子龍のお嫁さんが来てからは、特に 」
「 のこと、ですか? 」
「 そうそう!彼女、陸家なんですってね。呉では逢ったことなかったわよね 」
「 ・・・遠縁なんです 」
適当に濁したが納得した様子だった。ということは、まだ『 真実 』は知られていないのだろう。
ほっと胸を撫で下ろし、もう少し掘り下げた話を伺ってみることにした。
「 尚香さまは、彼女に逢ったことがあるのですか? 」
「 ええ、呉との国境付近まで迎えに行ったのは私なのよ。ずっと泣いていて、本当に大変だったの。
馬超が機転を利かせたおかげで助かったけど・・・憔悴しきっていて、見ている方も辛かったわ 」
「 ・・・そう・・・でしたか 」
・・・・・・。
私は彼女を愛してると言いながら、どれだけ辛い思いをさせてきたのだろう。
数日前に抱き締めた温もりが、一瞬だけ腕に蘇る。入浴後で少し濡れた髪が頬や首に張り付いていて、
逆に艶かしかった。泣きそうな笑顔で、私を好きだと呟いた熱い唇。
抱き締めると懐かしい彼女の匂いがして、私の方こそ涙が出そうになった。
あの幸せな時が永遠に続けばよかったのに・・・。
茶器の水面に映った自分は少し泣きそうな顔をしていたが、それに気づかず彼女が話を続ける。
「 華燭の典はそれは見事だったわ。陸遜にも見せたかったなあ、本当に美しかったのよ彼女。
でもね・・・その直後に酷い高熱で倒れて、回復するまでに随分時間がかかったの 」
「 えっ!? 」
「 詳しくは私も知らないんだけど、その前後に趙雲が離縁を申し出て彼女を呉に帰そうとしたのよ 」
「 ・・・離縁、ですか・・・ 」
さっきの、病床に伏した身内というのは、のことだったのですか・・・。
尚香さまの話はそれからも続いたけれど、途中から大人しく聞いている余裕がなくなった。
握った拳が加減できず、手のひらに爪が食い込む。そんなこと・・・一言も、彼女は言わなかった。
屋敷に潜入していた間者からの情報には限りがある。誰の目も届かないところで、離縁の話が上がったのでしょうか・・・。
嫁ぐことが目的だったは、知らない土地でそんな状況になり、どれほど苦しんだことだでしょう。
きっとあの大きな瞳から何粒も涙を零して、泣いたに違いない。
・・・私だって、馬鹿じゃないんです。
の気持ちを考えれば、貴女がどうしてあれほど私を拒んだのかわからなくも、ないんです・・・。
( 優しい貴女だからこそ、私の幸せを願って、と・・・でも本当の幸せは貴女と共にあるのです )
離縁になって呉に帰って来たとなれば、今度こそ堂々と一緒になれたのに。
けれど何故黙ったままだったのでしょう・・・また私を苦しませたくなかった、とでもいうのでしょうか。
「 それから・・・それからはどうしたのですか!? 」
「 え?ああ、結局は元の鞘に収まったわ。趙雲は彼女を『 妻 』だと認めて欲しいというし 」
劉備殿に頭を下げたという趙雲殿。主君に願い出る程だ。
趙雲殿とは互いを受け入れ、認め合ったということなので、一見、名実共に夫婦になったように見える。
だが、間者の報告通り、今でも寝室をわけているのは何故でしょう。
・・・を愛していないからでしょうか?ならば、離縁を成立させて呉に帰されているはず。
優しいの彼のことだ。が呉の為に置いて欲しいとごねたとしても、無理して嫁いできた彼女を蜀に
留めようとしないだろう。
の話題に触れた瞬間、豹変したかのような・・・あの去り際の曇った表情を思い出す。
彼は真の意味で彼女を手に入れた『 勝者 』だというのに、どうしてあんな顔をしたのでしょうか。
「 ( それに・・・あの、瞳・・・ ) 」
広間での射抜くような視線は、一体何だったのでしょう。
気づかぬフリをしていたが、若輩者である自分は背筋が震えて始終緊張していた。
瞳に宿った・・・あれは蒼い焔。
戦場にて対峙した時、彼はあんな風に鬼神の如く以上に威圧的な雰囲気になるのでしょうか。
隣を歩いている時は炎の欠片など見せずに、ふとした瞬間に向ける私への眼差しはどこか羨望めいた
気持ちも含まれているような気がしていたのに。本心はどちらなのでしょうと首を傾げて・・・閃く。
・・・ま、さか・・・。
「 嫉妬・・・しているというのですか、私に 」
もし、何らかの手段を使って、私とが想いあっていたことを知っていたとしたら?
もし、愛したの気持ちが完全に自分に向いていないことを、趙雲殿が気づいていたとしたら?
それが理由でに触れられず、上辺だけの夫婦生活を送っているのだとしたら・・・彼は・・・。
思わず声に出してしまい、口元を押さえる・・・が、それだけでは隠し切れない。
自然と唇を歪めた私を見てか、陸遜どうしたの?と怪訝そうな顔をした。
「 ・・・何でもありませんよ。さ、お茶の続きをしましょう 」
主君をダシに使うのは褒められたことではありませんが、孫権さまと練師さまの話題に切り替えると、
尚香さまは瞳を輝かせて食いついてきた。それでそれで!?と机を揺らす彼女に苦笑する。
口は動くが、頭では全く別のことを考えていた。
「 ( まだ・・・天は私を見放していなかった、ということですね・・・ ) 」
不機嫌の理由は『 』でしたか。ああ、きっとそう。趙雲殿はに懸想しているのに、
あの2人は夫婦として上手く機能していないのだ。ならば、自分にも付け入る隙はある。
一度は諦めかけた感情が沸々と胸の中で弾けていく・・・。
忘れようとしても、忘れられるはずがない。決意はいつも失敗に終わっていた。
だが・・・それで『 正解 』だったのだ。きっと、今この瞬間のために必要な想いだったのだから。
私が諦めていない、と彼女に知らせておくべきか迷った。
いっそ趙雲殿に宛ての竹簡でも託して、その嫉妬心を煽ってやりましょうか。
でも呉に滞在している今は動くべきではない。いくら身内でも警戒されて攫うのが難しくなっては困る。
だから今度こそ・・・万全の時期に、絶好の機会を見計らって。貴女を、堂々と手に入れて見せます。
趙雲殿がいかに優秀な人物であるかはわかるからこそ、焦ってはならないのだ。
別れる時は彼女の幸せを心底願っていたはずなのに・・・手のひらを返したように2人の不和を願うとは、
自分は何と卑怯な人間だろう。そうじゃなくとも、彼女には二度も振られているのに。
「 ( すみません、・・・でも、もう自分でも解らないくらい、貴女が好きなんです ) 」
やっぱり、愛してる。を幸せにするのは、この自分の手でありたいと思うのです。
聞いているの、陸遜!と怒られたが、黒い感情に支配された私にはどんな言葉も頭に入らなかった。
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